【史実】蒙恬の生涯・年表まとめ【功績や逸話、死因まで解説】

蒙恬の簡単年表

蒙恬は生まれた年と死亡時の年齢が不明なので、始皇帝の年齢から年齢を推測して以下の年表を記載しております。

紀元前225年 – 35歳前後
副将として楚討伐に加わる

紀元前225年、蒙恬は李信の副将として楚の征服に加わります。順調に楚軍を破り、楚の首都である郢を攻め大勝を収めますが、項燕の奇襲によって李信と蒙恬は7人もの武将を失い戦いに敗れます。翌年、将軍の王翦と蒙恬の父親である蒙武によって楚は滅亡しました。

紀元前221年 – 40歳前後
斉を滅ぼし秦が中華統一

秦は紀元前222年に燕を滅ぼし、残すは斉のみとなりました。翌年の紀元前221年、蒙恬は李信、王賁と共に斉に攻めますが、斉王建は戦わずに降伏します。これによって秦の中華統一が達成されました。この功績を受けて、蒙恬は始皇帝から内史に任命されています。

紀元前215年 – 45歳前後
30万の軍を率いて匈奴を討つ

天下統一後、始皇帝から北方の討伐を命じられた蒙恬は、30万の軍を率いて匈奴を打ち破り河南の地を手に収めます。これによって、匈奴はさらに北に追いやられることになりました。討伐後、長城・直道の築造が始まることになります。

紀元前210年 – 50歳前後
始皇帝の死と蒙恬の死

紀元前210年、巡幸中の始皇帝が崩御し、これにより蒙恬に対する風向きが一気に変わりました。始皇帝亡きあとの権力を巡る宮廷の動きの中で、弟の蒙毅が罪を問われ殺害されます。蒙恬のもとにも使者が訪れ自殺を命じられ、抵抗したものの自ら毒を飲んで最期を迎えました。

蒙恬の年表

こちらも蒙恬は生まれた年と死亡時の年齢が不明なので、始皇帝の年齢から年齢を推測して以下の年表を記載しております。

紀元前225年 – 35歳前後「武将として戦場に出向く、秦の中華統一」

秦が統一した戦国七雄の国々

副将として楚討伐に加わる

紀元前225年、蒙恬は副将として李信のもとで楚討伐に加わります。これが、蒙恬が戦場に出た最初の記録と言われています。

始皇帝は楚の征服を考え、前の年に燕との戦で功績を上げていた李信、王翦に対してどのくらいの軍が必要か問いかけました。李は20万、王翦は60万と答え、始皇帝は若さある李信の案を採用し軍を向かわせます。

20万の軍を二手に分け、李信が平興、蒙恬が寝丘の地で楚に大勝し、その勢いで楚の首都である郢に攻め入りそこでも楚軍に勝利を収めました。しかし、李信と蒙恬を追跡していた楚の項燕に奇襲され、二つの土城と7人の武将を失い戦に敗れます。その翌年に、王翦と蒙恬の父蒙武によって楚は滅亡されました。

将軍として斉討伐に加わり秦が中華統一、内史に任命される

楚を破り、遼東に逃れていた燕を滅ぼした秦は、最後の国である斉の討伐に乗り出します。蒙恬も家柄により秦の将軍となり、李信、王賁と共に斉を攻めて打ち破り、秦の中華統一が実現されました。斉王建は、国を攻め入られた際に戦わず降伏しています。

始皇帝にこの功績が評価され、蒙恬は内史に任命されます。内史とは首都近辺を治める長官のことで、秦の首都咸陽やその近辺の県を統治することを任されていました。

紀元前215年 – 45歳前後「匈奴討伐と万里の長城の築城」

万里の長城

30万の軍を率いて匈奴を討つ

中華統一後、始皇帝は蒙恬に北方の匈奴討伐を命じます。春秋戦国時代の間、北方民族は戦国七雄の国々にとっても脅威で、匈奴との国境を持つ趙や燕は強固な防壁を作ることでその脅威から逃れていたほどです。蒙恬はその匈奴に、30万の軍を率いて討伐へ向かいます。

蒙恬は、圧倒的な軍事力で匈奴を打ち破りさらに北へと追いやることに成功します。匈奴の人々は蒙恬のことを大変恐れており、秦の北側はその後侵略されることはなかったと言われています。この討伐によって河南の地を手に入れた蒙恬は、匈奴から再びの攻撃を防ぐため万里の長城を築き始めるのです。

万里の長城を築く

中華統一以前から、趙や燕は北方民族に対して城壁を築いていましたが、これらを繋げたものが現在の万里の長城と言われています。匈奴討伐の後、蒙恬は険しい地形を利用して城塞を作り、長城を築いていきました。史記には、臨洮から遼東までおよそ1万余里、約5千キロもあったとの記録が残されています。

これらの功績は始皇帝から高く評価され、蒙恬は外交を任され、弟である蒙毅も上卿の地位につき、常に始皇帝と行動を共にするまでになりました。始皇帝から、蒙恬・蒙毅の兄弟は多大な信頼を受けていたことが分かります。

紀元前210年 – 50歳前後「始皇帝の死と蒙恬の最期」

秦始皇帝陵 兵馬俑

蒙恬を信頼した始皇帝の死

紀元前210年に、巡幸中の始皇帝が病気になり崩御します。始皇帝の死をきっかけに争いが起こることを恐れた李斯は、始皇帝の死を隠して咸陽へと向かいます。始皇帝が崩御する前に、咸陽での祈祷を頼まれていた蒙毅はその場に立ち会うことが出来ませんでした

始皇帝の死を知る人物は、始皇帝の末子である胡亥、李斯、趙高など数人で、咸陽へ戻る途中に趙高によって胡亥を次の皇帝にするための謀略が立てられます。それにより、長男の扶蘇を次の皇帝とするとした始皇帝の遺言は書き換えられ、蒙恬も死を命じられることになるのです。

蒙恬の最期

始皇帝の崩御後、趙高らの謀略によって扶蘇と蒙恬は自殺を命じられます。扶蘇は命令に従い自害しましたが、蒙恬は疑いを持ち再度勅命を請う必要があると主張しました。抵抗も虚しく、二世皇帝として胡亥が即位すると再度自殺の命令が下されます。

命令を受けた蒙恬は、30万の軍があれば謀反を起こすこともできるが、そうしないのは代々仕えてきた秦に恩があるからだ語ったとされます。最期は自らの死を嘆き、そのあと長城を築く上で地脈を絶ったことが自身の罪であったと語り、毒を飲み自殺しました。

蒙恬の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

キングダム

大人気の漫画ですが、この漫画から蒙恬や春秋戦国時代の武将について興味を持たれた方も多いのではないでしょうか。史実とは異なる点もありますが、ストーリーの面白さが圧倒的です。夢中で読み進めるうちに、人物についてや歴史の流れがいつの間にか理解できてしまうので、ぜひ一度は読んでもらいたい漫画になります。

春秋戦国の英傑たち 五覇七雄の光芒

春秋戦国時代に活躍した人物についてまとめられた書籍です。蒙恬はもちろん、祖父の蒙驁、父蒙武についても書かれています。この時代は国の多さから登場する人物も多いので、どのような活躍をしたのかや、人物同士の関わりなど把握するのにとても便利な一冊になっています。

史記

司馬遷により書かれた、本紀・表・書・世家・列伝の5つのジャンルに分かれた中国の歴史書です。列伝は各人物についてのエピソードがまとめられており、蒙恬についても列伝の中に記載があります。列伝以外のジャンルも読むと、歴史の流れの中でどのような活躍をしたのかが見えてくるので、より深く知りたいという方は全巻通して読まれることをおすすめします。

おすすめの動画

テレビアニメ キングダム第二シリーズ

キングダムのテレビアニメで、22話では蒙恬が同世代の信と王賁に、自身が考えた作戦を提案するシーンがあります。強さだけでなく、頭の回転の早い蒙恬らしいスマートさが伝わってくるストーリーになっています。

【キングダム】蒙恬は悲劇の将軍!?史実での活躍まとめ

蒙恬の史実について、5分ほどで簡潔にまとめられた動画です。漫画キングダムの内容と史実を比較しながら解説されているので、普段から漫画を読んでいる方はより楽しめる内容になっています。実際の蒙恬の活躍や、最期について詳しく解説があるので、漫画を読んでいない方でも蒙恬についての要点が理解できる動画です。

【ゆっくり歴史解説】蒙恬『匈奴を震撼させた名将』

秦が中華統一した後の、蒙恬の史実がメインに解説された動画です。様々な説の考察や、関りのある人物についても詳しく説明されており、蒙恬の人物関係がつかみやすいです。蒙恬の最期については、関わりのある人物に見立てて会話形式で進むので、ストーリー性もあり特に理解しやすい内容になっています。

おすすめの映画

THE MYTH/神話

ジャッキーチェン主演の映画で、ストーリーはもちろんアクションも楽しめる内容になっています。ジャッキーチェン演じる考古学者ジャックの前世が、始皇帝に仕えていた将軍であることが徐々に暴かれていきます。その将軍が蒙恬の弟である蒙毅であり、蒙毅の悲運な運命が映画の中でも描かれています。

おすすめドラマ

THE MYTH 神話 TVシリーズ

ジャッキーチェン主演の映画を、ジャッキーチェン自らがプロデューサーとしてリメイクされたドラマです。映画とは違うキャストで、ドラマならではの次の話が早く見たいと思うような内容になっています。始皇帝の時代にタイムスリップし、蒙毅が主人公として物語が進みます。

関連外部リンク

蒙恬についてのまとめ

蒙恬は、中華統一後の功績で後世に名を残すことになりましたが、始皇帝との関係性の深さに驚きました た。蒙恬は真面目で真っ直ぐな人であったのだろうと、執筆を進める中でその人柄が感じられ、さらなる魅力に気付かされました。

この時代の中国の歴史はドラマチックでもあり、一つの物語としても楽しむことが出来るのが魅力でもあります。この記事をきっかけに、蒙恬について興味を持っていただけると幸いです。

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