アダム・スミスとはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や名言、国富論、逸話について紹介】

アダムスミスにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「生前に残した草稿が『哲学論文集』として出版」

アダムスミス 哲学論文集

アダムスミスは生涯の間に「道徳感情論」と「国富論」の2つの書物しか出版していませんが、それ以外にも自身の考えたことなどは原稿に記していました。しかし、死ぬ直前に友人へ草稿を託し、それらを処分するようにと遺書に書いたため、多くが焼却されてしまいます。

それでも残った草稿を集めて編集されたのが「哲学論文集」です。自然科学、美術、音楽、文芸などの幅広い分野に関して考察された文章を集めており、そのほかにもアダムスミスの書いた4編の小論を収めてあります。

都市伝説・武勇伝2「小さい頃に誘拐されたことがある」

お札にもなっているアダムスミス

アダムスミスは3歳から4歳頃、母親と共に実家のあるストラセンリを訪れていた際に誘拐されてしまいます。しかし、すぐに連れ戻され、大事には至りませんでした。誘拐犯は、お金が欲しかったためにスミス少年にスリをさせようと思ったとのちに述べています。

アダムスミスは生涯を通じて内向的でしたが、それは幼少期から変わっておらず、誘拐された際も恥ずかしがって人に近づきもしないため、犯人が「こいつは使えない」と判断し、解放されたのだそうです。

アダムスミスの簡単年表

1723年 – 0歳
アダムスミスの誕生

アダムスミスは1723年6月5日、スコットランドの町、カーコーディに生まれます。父はカーコーディの関税監督官をしていましたが、スミスが生まれる前には亡くなっていました。

1726年 – 3歳
浮浪者に誘拐される

3歳の時にストラセンリという町に母親と訪れていた際、アダムスミスは浮浪者に誘拐されます。しかし結局、何事もなく無事に連れ戻されました。

1730年 – 7歳
町立小学校へ

町立小学校へ通い始め、小学校教育を受けます。小学校卒業後はグラマースクールへと進学しました。

1737年 – 14歳
グラスゴー大学へ進学

グラマースクール卒業後はグラスゴー大学へと進学します。アダムスミスは自然法学などを学び、その時の教授フランシス・ハッチソンから多大な影響を受けることとなりました。

1740年 – 17歳
オックスフォード大学へ

グラスゴー大学を出た後はオックスフォード大学へ進学しました。しかし、オックスフォード大学の授業は昔の学問を中心に取り扱っていたので、うまく馴染めずに自分で勉強するようになります。

1746年 – 23歳
オックスフォード大学中退

その後も授業には興味を持てずに、講義中に読書をして叱られることなどを繰り返します。そして、いよいよ在学の意味がわからなくなり、8月にオックスフォード大学を中退してしまうのでした。

1748年 – 25歳
エディンバラ大学で講義を行う

オックスフォード大学中退後、2年ほどしてからエディンバラ大学で文学と法学の講義をすることになります。

1751年 – 28歳
グラスゴー大学の論理学の教授に就任

28歳にしてグラスゴー大学の論理学教授に就任します。文学、自然法学、政治学などを講義するようになりました。

1759年 – 36歳
「道徳感情論」出版

アダムスミスの2大代表作の1つである「道徳感情論」が出版されます。この本は評判を呼び、アダムスミス自身、侯爵の家庭教師を打診されるようになるほどでした。翌年末には「道徳感情論」第2版が出版されます。

1764年 – 41歳
ヘンリースコット侯爵の家庭教師として各地へ渡る

1763年にグラスゴー大学を辞職すると、ヘンリースコット侯爵の家庭教師としてフランスやスイスへ渡りました。この時にフランス啓蒙思想家たちと交流を持つようになります。

1767年 – 44歳
「国富論」の研究開始

故郷のカーコーディに帰ってくると、「国富論」の研究のために閉じこもるようになります。「人間本性論」を発表したヒュームからアドバイスを受けながら、「国富論」を執筆していきました。

1776年 – 53歳
「国富論」発表

約10年をかけて執筆した「国富論」(正式名「諸国民の富の本質と原因についての研究」)を出版します。以後の経済学に大きな影響を与えることとなりました。

1784年 – 61歳
「国富論」第3版(決定版)を出版

1778年には改訂版である「国富論」第2版を発表し、さらにその6年後の1784年には決定版となる「国富論」第3版を出版しました。

1790年 – 67歳
アダムスミス死去

5月に「道徳感情論」第6版を刊行します。その2ヶ月後、執筆していた草稿を友人たちに預けて、7月17日に帰らぬ人となりました。最終的な死因ははっきりしていません。

アダムスミスの年表

1723年 – 0歳「スコットランドにてアダムスミス誕生」

スコットランドで生まれた

スコットランドの海沿いの街カーコーディにてアダムスミス誕生

アダムスミスはカーコーディの関税監督官であった父・アダム・スミスと母・マーガレット・ダグラスの間に生まれています。父はスミスが生まれる前に亡くなってしまいましたが、母・マーガレットが愛情深く育てることになります。

アダムスミスが3歳の時にストラセンリという街で浮浪者に誘拐されます。しかし、何もされることなく、無害の状態で連れ戻されることとなりました。

14歳でグラスゴー大学へ

6歳になると近所の町立小学校へ通うことになります。無事に小学課程を終えると、次はグラマースクールへと通いました。この頃、突然放心するという癖がつくようになります。

グラマースクールも卒業すると、14歳でグラスゴー大学へ通うことになりました。この時に熱心に学んでいたのは自然法学や道徳哲学で、この教科を教えていたフランシス・ハッチソンの思想から大きな影響を受けることとなります。

1740年 – 17歳「オックスフォード大学へ」

オックスフォード大学

グラスゴー大学卒業後、オックスフォード大学へ進学

グラスゴー大学を3年間で卒業すると、オックスフォード大学への進学を決めます。資金的に厳しい面もあったので奨学金を借りながら勉学に励むこととなりました。しかし、オックスフォード大学での講義は古典の教科が多かったため退屈します。そのため、徐々に自学自習で学ぶようになっていくのでした。

この時期にヒュームの執筆した「人間本性論」を読み、感銘を受けることとなります。そして、オックスフォード大学に進学してから6年後の1746年、過程を終了しないうちに大学をやめることとなり、中退という扱いになってしまいます。

エディンバラ大学で教鞭を執る

1748年、オックスフォード大学中退から2年後、エディンバラ大学で講義を受け持つことになりました。行った授業は文学や法学です。そして、この出来事をきっかけに1751年、グラスゴー大学の論理学教授に任命されることとなりました。

グラスゴー大学では初めの頃は文学や法学を教え、一年ほど経った頃には自然法学や政治学も教えるようになっていました。その翌年には、講義科目をさらに自然神学、倫理学、経済学など幅広く扱っていくようになります。

1759年 – 36歳「『道徳感情論』を刊行する」

「道徳感情論」 コンドルセ夫人訳 フランス語版 初版

「人間本性論」を執筆したヒュームとの出会い

アダムスミスはオックスフォード大学在学中にヒュームの「人間本性論」を読んで多大な影響を受けました。そのヒュームと1750年前後に出会い、意気投合します。2人は生涯を通じて親交を深め、お互いの出版する書物に関して相談することが多くありました。

ヒュームの執筆した「人間本性論」はトーマス・ジェファーソンやベンジャミン・フランクリンなどのアメリカ建国に尽力した大家たちの思想にも大きな影響を与えています。

「道徳感情論」を発表する

アダムスミスはグラスゴー大学にて教鞭を執っている時に「道徳感情論」の執筆を開始します。この内容は当時アダムスミスが大学で教えていた倫理学の授業に基づいて書かれています。

人々が生活している社会というコミュニティにおいて、秩序が成り立っているのは人間のどのような本質から来ているのかを説いた書物となっています。アダムスミスはこれを人間の「同感・共感」が社会を秩序立てていると結論づけています。そして自分の行為が適切かどうかを判断するのは自らの心の中にいる「公平な観察者」であるという考えを示しました。

「道徳感情論」は当時、あまり注目されませんでしたが、現在ではアダムスミスの記した2大書物として多くの人に読まれています。

1776年 – 53歳「『国富論」の発表」

国富論

グラスゴー大学退職後、「国富論」の研究開始

1763年にグラスゴー大学を辞職すると、スコットランド侯爵ヘンリー・スコットの家庭教師としてフランスやスイスなどを訪れます。そこでフランス啓蒙思想家らと関係を持つようになりました。1766年にスコットランドへ帰国すると、故郷のカーコーディへと戻ることになります。

1767年、「国富論」の研究および執筆を開始し、ほとんど外出をしないような生活をするようになりました。ヒュームとは度々「国富論」の内容について意見交換を行います。

「国富論」の執筆完了、そして刊行

1776年、約10年の歳月をかけて完成した「国富論」(正式名「諸国民の富の本質と原因についての研究」)を発表します。賛否両論の声が吹き荒れますが、売れ行き自体は上々でした。

「国富論」の内容はアダムスミスがグラスゴー大学で教えていた経済学に則って記されました。富が生活必需品で成り立っており、日々の労働によって捻出されるということを示し、今までの貴金属が富であるとする重商主義を否定する考えを主張しています。

「国富論」は後年、政府の収入改善策にも貢献することとなりました。

1790年 – 67歳「アダムスミス死去。死因は不明。」

遺言状には残った草稿を焼却するようにと書かれていた

生涯に書いた草稿を友人に託し、病死

1784年に決定版となる「国富論」第3版を発表しました。以後も執筆作業を続け、「法と政治の一般原理と歴史」の出版を目指します。1790年5月には「道徳感情論」を大幅に改訂し、第6版として出版しました。

しかし、その2ヶ月後、病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまうのです。遺言状には今までに書いた草稿を焼却するようにと書かれていたので、大部分は焼かれてしまいました。それでも残った遺稿は「哲学論文集」として1795年に出版されています。

アダムスミスの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

国富論

言わずと知れたアダムスミスの代表作品です。現代語に訳されていますが、かなり分厚い書籍となっており、読み応えは抜群です。今の時代とは世界の情勢が異なっているので、時代背景を理解しながらでないと難しいかもしれません。スミスの思想に触れてみたい方にはおすすめです。

道徳感情論

アダムスミスのもう一つの作品です。人間はそれぞれ共感する能力を持っており、それが社会の秩序を保っているということを説いています。国富論が経済学の本であるとするならば、こちらは心理学・倫理学に通ずる書物です。興味のある方はぜひ読んでみてください。

国富論ーまんがで読破ー

名著を漫画に書き換え、分かりやすくしたシリーズです。オリジナルの国富論は内容がとても多いため、全てを網羅しきれてはいませんが、要所のみを知りたいという方にはおすすめの一冊です。イラストを用いて、内容を噛み砕いて描かれているので子供でも理解しやすくなっています。

アダムスミスについてのまとめ

アダムスミスは近代経済学の父と呼ばれ、生涯に得た知識を凝集して「国富論」を執筆しました。現代に至るまで数多くの経済学者がスミスの思想に少なからず影響を受けているのです。スミスの人生の中で著されたもう一つの書物「道徳感情論」も長年に渡って世界中の人々に読まれています。

今回はアダムスミスについてご紹介しました。この記事をきっかけにさらに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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