陸羯南はどんな人?生涯・年表まとめ【名言や功績、性格まで紹介】

陸羯南の名言

国家は個人と離れて実存すべきにあらず(『偽国家主義』より)

陸羯南は、思想としては「ナショナリスト」と呼ばれることがあります。しかしこれは正確ではなく、ナショナリズムとデモクラシーの統合を志向したところに特徴があります。まるでその後の軍国主義化する国内世論をけん制しているかのようです。

民の声は必ずしも音あるにあらず,音あるものまた必ずしも民の声にあらず(『無音の声』より)

「声なき声」という言葉があるように、眼前に明示されたものだけが実存するのではありません。一つの主義の陰にはいくつもの声があり、またそれぞれに表裏があります。上っ面ばかりをみていると事を誤る、との警鐘のようです。

陸羯南の人物相関図

陸羯南にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ひょうたん粉砕事件」

酒器として使われるひょうたん

陸羯南は、人から借りた大切なひょうたんを割ってしまったことがあります。

友人の愚庵(1854ー1904)と京都で遊んだ折、羯南の定宿・小川亭で借りた名物のひょうたんに酒をみたして所持していたところ、そのひょうたんを落として割ってしまったのです。破片をあつめてみたものの、修復の仕様もありません。

羯南と愚庵は、ふたりで小川亭の主人へわび状をしたため届けました。すると、小川亭の主人はこれを面白がり、以後はひょうたんの代わりにわび状を名物として展示するようになりました。

都市伝説・武勇伝2「賄(まかない)征伐事件」

学生たちにとって食事は人生の一大事であった

司法省法学校の寄宿舎では、学生たちに有償で食事が賄われていました。しかし賄業者がその費用を一部着服していたため、学生たちは損をしていたわけです。その結果「おれたちにもっと飯をよこせ」と騒動となり、後日大学側は悶着をおこした学生に謹慎(禁足)処分をくだしています。

このとき大学側に抗議を行ったのが、原敬と陸羯南、加藤恒忠らの学生グループでした。問題は当時の司法卿(大木喬任)の耳にも入り、その結果、この抗議グループは放校(退学)処分となってしまいました。

陸羯南の簡単年表

1857年 – 0歳
中田實(のちの羯南)、誕生
1857(安政4)年、陸羯南は陸奥国弘前に生を受けました。中田實(または実。幼名は巳之太郎)と名付けられました。 1871(明治4)年、14歳になった羯南は工藤他山塾で漢詩を学びます。その時の作詩「風濤自靺羯南来」から「羯南」と号するようになりました。 その後、東奥義塾、宮城師範学校を経て司法省法学校へと進学しています。
1879年 – 22歳
司法省法学校を退学(賄征伐事件)
1879(明治12)年、賄征伐事件にきっかけに、司法省法学校を退校処分となります。 同年帰郷し、青森新聞社に入社しました。また、跡継ぎのいなかった陸家を再興し、陸姓を名乗るようになります。 1880年、北海道紋鼈製糖所に就職しますが、そこでのくらしに飽き足らず、翌年に再び上京、仏語翻訳の仕事をはじめます。 1883(明治16)年には、太政官文書局に採用されたほか、1984(明治16)年に今居てつと結婚するなど、紆余曲折を経て羯南の人生はすこしずつ開けてゆきます。

1889年 – 32歳
新聞「日本」を創刊
1888(明治21)年、太政官を辞職した羯南は、「東京電報」を創刊しますがあまり売れませんでした。翌年、新聞「日本」と改名、創刊します。 1892(明治25)年、正岡子規を隣家に住まわせ、子規の活動を全面的に保護します。
1901年 – 44歳
近衛篤麿に従い中国・朝鮮旅行

1901(明治34)年、羯南は、近衛篤麿(1863-1904)に従い中国、朝鮮を旅行します。近衛は、経営難にくるしむ新聞「日本」に対し、資金の面で援助をします。 1903(明治36)年、羯南は、北米旅行にでかけますが、帰国後肺結核を発症しました。

1906年 – 49歳
新聞「日本」の譲渡と羯南の死
1906(明治39)年、羯南は自身の体調悪化と経営難を理由に「日本」を伊藤欣亮に譲渡します。その後も社説蘭は羯南が担当しました。 1907(明治40)年9月2日、羯南は亡くなりました。享年は51歳。なお、羯南の墓地は都営・染井霊園(東京都豊島区)にあります。

陸羯南の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

近時政論考 (岩波文庫)

陸羯南の代表作です。権力や器としての国家を妄信するのではなく、自分の頭でよく考えるよう伝えたかったのではないかと感じます。

原敬と陸羯南: 明治青年の思想形成と日本ナショナリズム

ともに東北出身で学友でもあったふたり、原敬と陸羯南。ふたりの共通点や異なる点を洗い出し比較しながら、「ナショナリズム」というキーワードに迫る本です。当時の政治問題や外交問題を踏まえると、非常に考えさせられます。

おすすめの動画

鎌田慧が語る陸羯南 1

青森県弘前市出身のルポライター、鎌田慧が「陸羯南」を紹介する動画(前半)です。若き日の陸羯南の学歴を振り返ると、学びへの強い意欲を感じます。羯南の生家など青森の風景も知ることができます。

鎌田慧が語る陸羯南2

ルポライター鎌田慧による「陸羯南」紹介動画(後半)です。新聞「日本」が度重なる発行停止処分を受けつつも、処分通知を額装して奮発したとの逸話に衝撃を受けます。多士済々の日本新聞社。その秘密は羯南の人柄にあったことがわかります。

おすすめドラマ

NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲

司馬遼太郎の同名小説が原作。明治期の日本を舞台に秋山好古、秋山真之、正岡子規の3人の活躍を描く「21世紀スペシャルドラマ」として放映されました。陸羯南を俳優・佐野史郎さんが熱演しています。

関連外部リンク

特別展「陸羯南と正岡子規」(青森県近代文学館)
陸羯南(弘前市ホームページ)

陸羯南についてのまとめ

陸羯南は、常々「国家とはなにか、国民とはなにか」を考え続けていました。それは、彼の著作を読むと明らかです。帝国主義の余勢をかって世界各地で紛争が絶えなかった時代、日本もまたつねに清(中国)やロシアといった大国の脅威に怯えなければなりませんでした。

しかし、羯南は安易なナショナリズムに逃げることなく、「国民目線」をもってそれを統御すべきであると考えていました。ナショナリストと捉えられることも多い羯南ですが、その実は国民の幸福をねがう国民主義者だったのです。

この記事をつうじて、陸羯南という人の生きざまや考え方を知っていただけたら幸いです!

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