アッカド人は、歴史上最初の帝国とも言われるアッカド帝国を築き上げた民族です。またアッカド語がメソポタミアの公用語となるなど、アッカド人はメソポタミアの歴史を学ぶ上でも欠かせないといえます。
そこで今回は、
「アッカド人ってなに?」
「アッカド帝国ってどんな歴史だった?」
こういった疑問をお持ちの方に向けて、アッカド人やアッカド帝国の歴史、文明などを紹介していきます。
この時代に文字ができはじめ、物事を字で記録するという文化が生まれ、世界の歴史が明らかになってきます。そのためメソポタミアの歴史は非常に古く奥が深いですが、今回紹介するアッカド人といったように、民族から学んでいくことで理解がしやすくなります。
是非ともこの記事を参考にして、古代の歴史を学んでいていただければ幸いです。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
アッカド人とは?
はじめにアッカド人とはどういった民族なのかを紹介していきます。
アッカド人は紀元前2300年ごろに、メソポタミア地域を最初に統一したセム語系に属する民族です。セム語族は西アジアに幅広く分布する語族の一つで、アッカド人は紀元前4000年ごろに西アジアからメソポタミアに移動しました。移動した理由については、気候変動によって移動を余儀なくされたといわれています。
アッカド人であるサルゴンは、歴史上最初の帝国とも言われる「アッカド帝国」を建国したとして非常に有名です。
アッカド人とシュメール人の関係
アッカド人を紹介する上で欠かせないのがシュメール人です。
シュメール人はアッカド人がメソポタミアに移動する頃に、既にメソポタミアの南部で暮らしていました。シュメールでは楔形文字の原型であるウルク古拙文字が誕生するなど、高度な文明を持っていましたが、後に紹介するアッカド帝国のサルゴンによってシュメールは制圧されます。
アッカド帝国はその後も数々の都市を制圧し、領土を広げ、共通語をアッカド語とします。ですがアッカドでは文字の文化がなかったため、シュメール文学を用いることになります。
アッカド帝国が滅亡したのちには、再びシュメールは復活し、メソポタミアを再統一しました。
アッカド人とアムル人の違い
アムル人はアッカド人と同じく、セム語系に属する民族として知られています。
アムル人はアッカド帝国が滅亡したあたりから記録に登場するようになります。そのためアッカド人とアムル人に直接的な関わりはありませんが、アッカド帝国が滅亡したあともアルム人にアッカド語が受け継がれていきます。このこともあってアッカド語は長い間使用されることになります。
アッカド人の有名な君主は誰?
アッカド帝国では様々な者が王として在位しましたが、その中でもとくに有名な王を紹介していきます。
サルゴン
サルゴンは、アッカド帝国を建国した王で様々な伝説があります。出生も不明で一説によると、サルゴンは生後すぐに川に流され、キシュ市(メソポタミアの都市)の庭師に拾われて育ったとされています。その後キシュ市の第4王朝の王ウル・ザババを倒し王位につきます。
サルゴンという名前も「正当な王」という意味で、サルゴンが権力を得るために自ら付けたともいわれています。
王になったあとは数々の都市を侵攻し、メソポタミア地方を統一することに成功します。ですがサルゴンが年老いていくと同時に反乱が多発するようになり、王位から退き、息子のリムシュ治世下でも反乱は続きました。
その後リムシュは暗殺されて殺されてしまい、リムシュの兄マニシュトゥシュが王となりますがマニシュトゥシュも暗殺されてしまいます。
ナラム・シン
マニシュトゥシュが暗殺されたあと王となったのが、マニシュトゥシュの息子ナラム・シンです。ナラム・シンはメソポタミア史上初めて、自らを神と名乗り出た王でもあります。
サルゴンが制圧した領土は、ナラム・シンが王となったころには既に失われていたといわれていますが、ナラム・シンは自ら指揮を執り多くの遠征を行いサルゴンを上回るほどの領地を築き上げます。
ですが領地が大きくなったことで反乱も多く発生します。これを鎮圧することにも成功したナラム・シンは自らを神と称しました。この王を神格化するという流れは、以降のメソポタミアの王たちにも引き継がれていきます。
ユダヤの事を調べていく中で、彼らは教育に熱心である事が分かり、古代の進んだ文明を、長くユダヤ民族に伝承してきたのではないか?と考えました。メソポタミアやギリシャの文明から学び、それをより高度化したのでは?と考えました。メソポタミア文明は魅力的ですね。