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アッカド人とは?アッカド帝国繁栄の歴史や文明、歴代君主などを徹底解説

アッカド人は、歴史上最初の帝国とも言われるアッカド帝国を築き上げた民族です。またアッカド語がメソポタミアの公用語となるなど、アッカド人はメソポタミアの歴史を学ぶ上でも欠かせないといえます。

そこで今回は、

「アッカド人ってなに?」
「アッカド帝国ってどんな歴史だった?」

こういった疑問をお持ちの方に向けて、アッカド人やアッカド帝国の歴史、文明などを紹介していきます。

この時代に文字ができはじめ、物事を字で記録するという文化が生まれ、世界の歴史が明らかになってきます。そのためメソポタミアの歴史は非常に古く奥が深いですが、今回紹介するアッカド人といったように、民族から学んでいくことで理解がしやすくなります。

是非ともこの記事を参考にして、古代の歴史を学んでいていただければ幸いです。

アッカド人とは?

アッカド兵

はじめにアッカド人とはどういった民族なのかを紹介していきます。

アッカド人は紀元前2300年ごろに、メソポタミア地域を最初に統一したセム語系に属する民族です。セム語族は西アジアに幅広く分布する語族の一つで、アッカド人は紀元前4000年ごろに西アジアからメソポタミアに移動しました。移動した理由については、気候変動によって移動を余儀なくされたといわれています。

アッカド人であるサルゴンは、歴史上最初の帝国とも言われる「アッカド帝国」を建国したとして非常に有名です。

アッカド人とシュメール人の関係

陶石版に書かれたシュメール文学

アッカド人を紹介する上で欠かせないのがシュメール人です。

シュメール人はアッカド人がメソポタミアに移動する頃に、既にメソポタミアの南部で暮らしていました。シュメールでは楔形文字の原型であるウルク古拙文字が誕生するなど、高度な文明を持っていましたが、後に紹介するアッカド帝国のサルゴンによってシュメールは制圧されます。

アッカド帝国はその後も数々の都市を制圧し、領土を広げ、共通語をアッカド語とします。ですがアッカドでは文字の文化がなかったため、シュメール文学を用いることになります。

アッカド帝国が滅亡したのちには、再びシュメールは復活し、メソポタミアを再統一しました。

アッカド人とアムル人の違い

アムル人でバビロニア帝国の王ハンムラビ

アムル人はアッカド人と同じく、セム語系に属する民族として知られています。

アムル人はアッカド帝国が滅亡したあたりから記録に登場するようになります。そのためアッカド人とアムル人に直接的な関わりはありませんが、アッカド帝国が滅亡したあともアルム人にアッカド語が受け継がれていきます。このこともあってアッカド語は長い間使用されることになります。

アッカド人の有名な君主は誰?

帝国支配者の系譜

アッカド帝国では様々な者が王として在位しましたが、その中でもとくに有名な王を紹介していきます。

サルゴン

サルゴン王

サルゴンは、アッカド帝国を建国した王で様々な伝説があります。出生も不明で一説によると、サルゴンは生後すぐに川に流され、キシュ市(メソポタミアの都市)の庭師に拾われて育ったとされています。その後キシュ市の第4王朝の王ウル・ザババを倒し王位につきます。

サルゴンという名前も「正当な王」という意味で、サルゴンが権力を得るために自ら付けたともいわれています。

王になったあとは数々の都市を侵攻し、メソポタミア地方を統一することに成功します。ですがサルゴンが年老いていくと同時に反乱が多発するようになり、王位から退き、息子のリムシュ治世下でも反乱は続きました。

その後リムシュは暗殺されて殺されてしまい、リムシュの兄マニシュトゥシュが王となりますがマニシュトゥシュも暗殺されてしまいます。

ナラム・シン

ナラム・シンの戦勝記念碑

マニシュトゥシュが暗殺されたあと王となったのが、マニシュトゥシュの息子ナラム・シンです。ナラム・シンはメソポタミア史上初めて、自らを神と名乗り出た王でもあります。

サルゴンが制圧した領土は、ナラム・シンが王となったころには既に失われていたといわれていますが、ナラム・シンは自ら指揮を執り多くの遠征を行いサルゴンを上回るほどの領地を築き上げます。

ですが領地が大きくなったことで反乱も多く発生します。これを鎮圧することにも成功したナラム・シンは自らを神と称しました。この王を神格化するという流れは、以降のメソポタミアの王たちにも引き継がれていきます。

アッカド人の文明や文化とは?

アッカド帝国は数多くの領地を制圧したこともあり、文明や文化も非常に高水準です。そんなアッカド人が作り上げた文明や文化をここからは紹介していきます。

ハンムラビ法典にも記されたアッカド語

アッカド語の碑文

アッカド語は当時のメソポタミアの共通語です。最も古いセム語でもあり、ハンムラビ王が制定したハンムラビ法典もアッカド語で書かれています。またアッカド語は西暦1世紀までの約2500年もの非常に長い間使用されました。

ハンムラビ法典以外にも学術書や文法書、辞典、神話などきわめて広い分野の資料で100万以上発見されています。

ロストワックス鋳造を用いた高水準の技術力

ロストワックスにより鋳造されたバセトゥキ像

当時のアッカド人は「ロストワックス鋳造」を用いて像を作っています。これはロウで原型を作り、それを石膏などで覆い固めたあと、加熱しロウを溶かして出来た空洞に金属を流し込むという鋳造方法です。

これは当時としては非常に高水準の鋳造方法で、アッカド帝国の技術力の高さが伺えます。

当時の世界最高の人口密度

アッカド帝国は当時の世界最高の人口密度だったといわれており、この高い人口密度を可能にしたのはアッカド帝国南部の高い農業生産性です。アッカド帝国にはティグリス川とユーフラテス川が流れており、この川から水を引き、農地に水を供給する灌漑(かんがい)という手法を用いることで農業を大きく発展させました。

こういった発展もあったおかげで人口が増加し、アッカド帝国は軍事的にも優位に立つことできました。

アッカド帝国の繁栄と衰退までの歴史年表

それでは、アッカド帝国の繁栄と衰退までを簡単な歴史年表でおっていきましょう。

紀元前2334年
サルゴンがアッカド帝国を建国する

紀元前2334年~紀元前2279年頃にサルゴン王がアッカド帝国を建国します。サルゴンがアッカドの王になった経緯は、はっきりを判明してはいませんが、キシュ市の第4王朝の王ウル・ザババを倒し王位を奪ったという説があります。

紀元前2331年
メソポタミア地方を統一する

サルゴンが王位についてから3年間、アッカド帝国はメソポタミア地方南部のシュメール地方をはじめ、数々の都市を制圧します。これによりメソポタミア地方を統一することに成功します。

当時のアッカドの力はすさまじく、5400人の常備兵がおり、地中海からペルシア湾までの領域を制圧したともいわれています。

紀元前2330年
アッカド語が広まる

詳細な年代は分かっていませんが、サルゴンが数々の都市を制圧したため、アッカド語が大きく広まることになります。アッカド帝国ではアッカド語が共通語になり、その後西暦1世紀までの約2500年間にわたり使用されます。

紀元前2254年
ナラム・シンが支配地を更に広める

サルゴンの孫であるナラム・シンがアッカド帝国の王になると、サルゴン以上に遠征を行い数々の都市を制圧して、更に支配地を広めていきました。ただし領地を拡大しすぎたためか、各地で反乱が起こるようになります。

紀元前2155年
アッカド帝国が滅びる

正確な時期は分かっていませんが、建国から180年後にアッカド帝国は滅亡したといわれています。滅亡の原因は、グディ人による侵攻によるものという説と、長期の気候変動による干ばつが原因という説があります。

アッカド人に関するまとめ

今回はアッカド人について紹介してきました。

アッカド人は数々の伝説を持つ王である、サルゴンやナラム・シンが活躍した民族であり、高い技術力を持っていることがわかりました。ただしアッカドの歴史は非常に古い事もあり不明な点が数多くあります。

サルゴンの出生であったり、アッカド帝国の滅亡の原因については今後も判明するかは不明です。ですが分からない事が多いからこそ、古代の歴史は考察しがいがあり面白いともいえます。

この記事をきっかけに、メソポタミアなどの古代の歴史にも興味を持っていただけたら幸いです。

1 COMMENT

アバター 藤田アサコ

ユダヤの事を調べていく中で、彼らは教育に熱心である事が分かり、古代の進んだ文明を、長くユダヤ民族に伝承してきたのではないか?と考えました。メソポタミアやギリシャの文明から学び、それをより高度化したのでは?と考えました。メソポタミア文明は魅力的ですね。

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