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徳川家光とはどんな人?行った政策や功績、性格、死因まとめ

徳川家光は、江戸幕府の第三代将軍です。祖父である家康と父である秀忠が整えた江戸幕府の統治体制を完成させ、江戸幕府の200年に及ぶ繁栄の立役者となった一人として知られています。

例えば、江戸幕府の統治体制の基礎として有名な「参勤交代」の制度や、江戸時代特有の外交体制である「鎖国体制」を整えたことで知られており、その功罪などの観点から、現在でも江戸初期を舞台にした作品の多くに、善悪を問わず様々な役どころで取り上げられる人物でもあります。

江戸幕府三代将軍・徳川家光

上記のような教科書にも記載される政策の他にも、「老中」「奉行」「若年寄」などの時代劇でもたびたび耳にする役職の多くを定めるなど、文字通りに江戸幕府の屋台骨を支えるような制度や政策を数多く打ち出したのが、三代将軍である徳川家光。

しかしその一方で、家光自身の人間性を示すようなエピソードは、祖父である家康の影に隠れてしまい、あまり知らないという方も意外と多いのではないでしょうか?

ということでこの記事では、実は徳川家康にも負けず劣らずの”濃い”エピソードを残す三代将軍、徳川家光の功績や人生について深掘りしていきたいと思います。

徳川家光とはどんな人物か

名前徳川家光
幼名竹千代
誕生日1604年8月12日
没日1651年6月8日(享年48)
生地江戸城西の丸
没地江戸城内
父母徳川秀忠(父)、江(母)
乳母春日局
配偶者正室:鷹司孝子
側室:自証院、宝樹院、順性院、
永光院、桂昌院、定光院、芳心院、まさ
埋葬場所日光山輪王寺

徳川家光の生涯をハイライト

江戸幕府のみならず、後の徳川家の礎も築いたその生涯

徳川家光は、1604年に江戸城西の丸に生を受けました。父は後の江戸幕府二代将軍である徳川秀忠、母は浅井三姉妹の三女であり秀忠の継室である江。家光は生まれた順で言えば次男でしたが、兄であった長丸が早逝していたため、祖父である家康と同じ「竹千代」の幼名を与えられ、世継ぎとして扱われることになったそうです。

しかし幼少の家光は内気かつ病弱で吃音があり、容姿もあまり良くない子供だったようで、父である秀忠の関心は、2年後に生まれた弟の国松(徳川忠長)に移っていきました。

その影響で家光と忠長には家督継承争いが起こっていたようですが、この争いには大御所である家康が介入。兄である家光に家督を継がせるように秀忠に厳命したことによって、家光は名実ともに次期将軍となることが決定しました。

その後、1620年に元服を行った家光は、3年後の1623年に父と共に上洛。正二位内大臣の役職に任じられるとともに、江戸に戻ると同時に正式に江戸幕府の三代将軍に就任。同年の12月には有力な公家の家系である鷹司孝子と婚姻を結び、三代将軍として幕政を開始しました。

幕政開始当初こそ、大御所として権利を持ち続ける父との二元政治を行っていた家光ですが、1632年の父の死以後は、彼自身の色の強い政策を数多く展開。

旗本を中心とした直轄軍の再編や、「老中」「奉行」などの幕府を支える役職と役職間の上下関係の明確化。武家諸法度を改定して、諸大名への参勤交代の義務付けや、ポルトガルとの断交やオランダ商館の出島への移転などの「鎖国」体制の整備などを行いました。

家光はそのような「武断政治」と呼ばれる強権的な政策を行いましたが、その一方で朝廷との関係の再建に着目。これによって国内政治は安定し、江戸幕府の長い繁栄が形作られることになりました。

しかし、ようやく幕府の屋台骨が安定し始めたところで、国内では寛永の大飢饉、国外では明(みん)の滅亡と清(しん)の進出が重なり、1640年代後半ごろからは、せっかく築いた体制の再編を行う羽目に。

そしてこれらの心労が祟ったのか、1650年に病に倒れた家光は、1651年6月に江戸城内で死去。享年は48で、死因は記録から読み取れる分には脳卒中であるという説が有力です。遺体は遺言通りに東叡山寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られました。

徳川家光の性格

あまり知られていないが、家光の性格を示すエピソードは数多く残っている

「江戸幕府の統治体制を完成させた」という功績が語られる家光ですが、彼自身がどのような性格の人物だったかは、実は意外と知られていません。

少年時代の記録を見ると、家光は「非常に内気な少年」で「非常にどんくさく思い詰めやすい」「吃音があり容姿も良くなく、人の上に立つ器とは思えない」「弟である忠長の方が将軍にふさわしい」などの記載が見られ、かなり酷評を受けています。

後世の創作の可能性が高い部分ですが、12歳のころには忠長と自分を比較して自殺を図ったというエピソードも残っており、そうした部分からも、彼の幼少期の性格が見えてくるでしょう。

しかしその一方、将軍となった家光の性格は文字通りに一変。遠乗りや諸大名の屋敷に赴くことを好むアウトドア派なエピソードが残るほか、柳生新陰流の免許を得る剣の腕前だったとか、重臣との宴を好んでいたとか、かなり幼少期とは印象の違うエピソードが数多く遺されています。

他にも将軍になってからの晩年には、自分の非を認めず逆ギレしているような記録もいくつか残っており、徳川家光は良くも悪くも、幼少期とそれ以降で大きく印象の変わる人物となっているのです。

徳川家光が影響を受けた人物

徳川家光は、過剰なまでに祖父である家康をリスペクトしていたとか

徳川家光の生涯には、非常に多くの人物から影響を受けたと思しき記録が多く残っています。

特に祖父である家康には、自身の将軍就任の後押しとなってもらったことも手伝って、非常に強いリスペクトがあったらしく、家光は家康が眠る日光東照宮に、生涯通じて10回のお参りを行った記録が残っているほか、「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」と書かれた紙をお守りにいれていたりと、若干狂気じみて見えるほどの尊敬ぶりが記録されています。

他にも、将軍としては致命的な「ある問題」の解決に尽力してくれた春日局を実母以上に慕っていたという話も残っており、現在でも異説として「徳川家光の実母は、江ではなく春日局である」という説も、一定の支持を集めている状況です。

また、春日局と並んで「鼎の脚」と謳われる柳生宗矩(やぎゅうむねのり)、松平信綱に対しても強い信頼を寄せていたことが伝わっており、特に兵法指南役である宗矩とは生涯を通じて良好な師弟関係を築き、彼以外の兵法指南役を生涯受け入れなかったことが記録されています。

また、立花宗茂や伊達政宗などの、戦国を知る老将との交流も好んでいたようで、伊達政宗を「伊達の親父殿」と呼んで、戦国時代の祖父や合戦の話をせがんでいたというかなり微笑ましい話も残されています。

ザっとまとめるだけでもこの長さですが、彼の生涯に影響を与えた人物はまだたくさん存在するのが現状。とはいえ徳川家光という人物が、多くの人物の関わりの中で成長した人物であることは、これだけでも読み取っていただけるでしょう。

徳川家光の死因

晩年の家光には、歩行障害があったのだという

徳川家光の生涯はあまり長くなく、彼は1651年に48歳で逝去することになりました。家光の死の直前については明確な記録が残っており、彼は献上品の茶碗を眺めていたところで震えが止まらなくなり、そのまま昏倒。そして翌日には帰らぬ人となったのだといいます。

晩年の彼は不安神経症を患っていた形跡が記録のそこかしこに見受けられるほか、死の直前には歩行障害があったことも記録されているため、死因については心労やストレスに伴った脳卒中であると考えられています。

遺体は遺言通りに東叡山寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られました。尊敬していた祖父が眠るのと同じ地で、家光は今も日本の姿を眺めつづけているのです。

徳川家光がしたことは?政策や功績を紹介

江戸幕府の統治体制を完成させた

江戸幕府による安定した統治の屋台骨を作ったのは、間違いなく家光の功績

徳川家光の功績として語られるのは、まず間違いなくこの部分でしょう。武家諸法度の改定や、幕府直轄軍の整備、「老中」「奉行」「若年寄」などの幕府内の役職の整備と関係性の明確化など、後の15台に至るまで続く徳川政権の礎を作ったことは、間違いなく彼の功績であると言えます。

また、将軍就任当初に起きた”紫衣事件”以降冷え切っていた朝廷と幕府の関係を、晩年には多少譲歩する形で安定させるような政策も行っており、そのような部分からも彼が「江戸幕府による国内統治の安定」を真に願う為政者であったことが読み取れます。

参勤交代の制度を制定した

参勤交代には莫大な費用が掛かるため、
継続的にそれを行わせることで幕府への反抗を防いだとされる

おそらく徳川家光の政策の中で、最も有名なのはこの部分です。家光は武家諸法度の改定によって「幕府への服属儀礼」に過ぎなかった参勤を数年単位で義務化。幕府への軍役奉仕を名目に、各藩に莫大な費用を使わせ、幕府への反抗手段を諸大名から削いでいきました。

とはいえ、江戸幕府からしても藩が財政破綻してしまえば本末転倒のため、「そこまで気合を入れた行列にするのではなく、身分相応の行列で来るように」という触れ書きを出していた形跡も残っています。そのため現在では「諸藩の力を削ぐために参勤交代の制度が行われた」という説には、実は異論も呈されているのが現状です。

また、参勤交代によって日本各地の文化が江戸に集結することになり、それによって様々な独自の文化の発展が生まれる事にもなりました。

功の面でも罪の面でも語られることの多い参勤交代ですが、実は意外と謎の多い制度だと言えそうです。

鎖国体制をスタートさせた

家光の代以降、外国との貿易は長崎の出島に限定されることになり、長い鎖国体制が幕を開けた

「鎖国体制をスタートさせた」という点も、家光の行なった政策として外すことはできません。ポルトガルとの断交と、オランダとの貿易を長崎の出島に限定するこの政策は、江戸時代の日本を象徴する政治体制として有名です。

一般に「あまり良くない政策」と言われることの多い”鎖国政策”ですが、家光のこの政策には「国際紛争を避ける」というしっかりとした目的がありました。1633年よりこの鎖国体制への移行は始まっていましたが、1637年には天草四郎で有名な島原の乱が起こっており、こうした内乱の発生も、家光が鎖国を急いだ理由なのかもしれません。

とはいえ、家光がキリシタンや外国嫌いであったことも事実ではあるようで、元々彼が苛烈なキリスト教弾圧を行っていたことは、否定のしようのない事実でもあります。

そのため、単純な「良い」「悪い」ではなく、その必要性や加減について論ずることが、鎖国体制を語るうえで最も必要な議論なのではないでしょうか。

徳川家光に対する後世の評価は?

家光に対して肯定的な評価を残している大久保忠教

江戸幕府の礎を完成させた徳川家光ですが、実は後世に残る評価には酷評されている部分が多々見受けられます。

徳川家臣だった大久保忠教は「家康に通じる人物」と高評価を残していますが、その評価についても身内びいきの部分は否めず、後世に残る評価としては「重要なことは全て重臣任せにしていた」などの酷評がどうにも目に付きます。

実際の所、キリシタンへの過剰な弾圧や「バラマキ」ともとれる多くの浪費、あまり公平とは言えない家臣への扱いなど、確かに酷評されても仕方ない部分は数多く見受けられ、このような部分も”徳川家光”という人物が、いま一つ有名になり切れない一因となっている印象です。

とはいえ、行なった政策にはきちんとした理由や妥当性が存在した以上、「暗君」と酷評するには優秀な人物である家光。皆さんも是非「良い点」「悪い点」の両方を見たうえで、徳川家光と言う人物の評価をしていただけると幸いです。

徳川家光の名言

皆に誉められる人間は、決して立派ではない

将軍就任時、集まった諸大名に対して放ったとされる一言です。皆から「いい人」と称えられる人間は、”自分”というもののない八方美人である。だから自分は臣下の顔色ばかりを窺わず、時に自分の考えを断行するという旨の言葉でした。

正しい正しくないを論じると評価の分かれそうな言葉ですが、時として自分を貫き通すことは必要。そういう意味では、多少なりと心に留め置くべき言葉だと言えそうです。

植えるのは木ではない、忠誠心である

植木が趣味の家光に、家臣たちがこぞって植木を送ってきたときの言葉です。大量の植木を理に適ったうえ方に植えようとする庭師に対し、「自分の部屋の窓から見えるところに植えてほしい」と言った家光が、理由としてこう述べたのだといいます。

大名たちからの忠誠などの上下の関係を大事にし、江戸幕府の繁栄の礎を作り上げた家光。そんな彼の考え方が、この言葉には表れているような気がします。

徳川家光にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「実は男色家だった?」

当時、男色は文化的なものでもあったが、家光の場合はそれだけでもなかったようで…

実は徳川家光は、元々男色を好んでおり、女性に興味を示すことができない性質の持ち主だったことが分かっています。

当時の男色は文化的にさほど珍しいことではなく、家光も将軍でさえなければそれでよかったのですが、彼の立場は江戸幕府を背負って立つ将軍。後継者を残すことが義務付けられた存在である以上、女性との間に子を残すことに興味がないのは致命的でした。

そして、その問題解決に尽力したのが、乳母である春日局。春日局は各地から集めた美女を家光と対面させ、家光が女性に興味を持つように誘導。そしてこれが功を奏し、家光は側室であるお振の方との間に、長女の千代姫を儲けました。

そしてそれ以降、家光は女性にも興味を持つようになり、多くの側室を寵愛。そしてこの春日局の行動が、現在もドラマなどで度々描かれる”大奥”制度の根幹となっていくのです。

都市伝説・武勇伝2「武芸を好む武人であり、芸術を好む風流人だった……のか?」

「徳川家光作・ウサギ」……ウサギ?

政治家としての一面が強い家光ですが、アウトドアや剣術を好む人物だったことは、先のトピックで少し書かせていただいた通りです。

他にも、能などの踊りを交えた宴を好んでいた事も記録されており、兵法指南役だった柳生宗矩に能の難曲を舞わせたりと、若干フリーダムな能の好み方をしていたことが残っています。とはいえ宗矩の方も、同僚の屋敷に押し入っていきなり全力で舞を始めたという少々意味不明なエピソードを残す人物なので、ある意味こう言ったフリーダムさの部分は似た者師弟だったのかもしれません。

そして何より有名なのは、あまりにも独特過ぎる「絵」の腕前。先に示したウサギもそうですが、いわゆる「ヘタウマ」なのか単純に「下手」なのか判断に迷う部分は、実は昔の人々も感じていたようで、家光の絵に関しては当時の人々からも「奇画」という評価が付けられています。

以下がその代表作たちです。

妙に味のある表情の「ミミズク」
どう見てもスズメか何かにしか見えないが、「鳳凰」とのこと

ちなみに徳川家綱も、非常に独特の絵を残しているため、興味がある方は家綱の方も調べてみていただけると、おそらくひと笑いできるかと思います。

都市伝説・武勇伝3「独特過ぎる〈家光式健康法〉」

風邪を引いた時は、「布団をかぶって寝る」のが一般的な養生の方法だが…?

軽い風邪を引いた時、おそらく大抵の人は「薬を飲んで温かくして寝る」という方法で風邪を直そうと試みるものだと思います。しかし徳川家光は、今の価値観からすると一風変わった健康法で風邪を治そうと試みていたようです。

その健康法というのも、風邪を引いた時には「布団を五枚ほど重ねてかけ、その下でさらに厚着をして寝る」というもの。現代にも通じる部分はありますが、流石に限度があるというか、むしろ病状を悪化させかねない方法で、彼は養生を試みていたことが記録されています。

家光はその健康法を完全に信じ込んでいたらしく、その方法で風邪が悪化した場合も、断固としてその健康法を行い続けたのだとか。色々な意味で頑固で我が強いエピソードが残る家光の中でも、その性格を示す最たるエピソードだと言えそうです。

徳川家光の簡単年表

1604年 - 0歳
江戸城西の丸にて誕生
戦国の終末期であるこの年、徳川家光は江戸城西の丸にて誕生しました。父は二代将軍の徳川秀忠、母は浅井三姉妹の三女である江。幼名は家康と同じ”竹千代”でした。

兄である長丸が早逝していたこともあって嫡男として扱われた竹千代ですが、幼少の彼は鈍くさく内気な少年であり、後に生まれた弟の忠長と比較されては嘲笑される、辛い幼少期を過ごしたようです。

1615年? - 11歳
次期将軍としての立場が明確化
何かにつけて弟と比較され、次期将軍の立場すら危ぶまれていた竹千代でしたが、この頃に家康の言葉によって、次期将軍としての立場が決定づけられることになりました。そしてこれ以降、竹千代は家康の事を大層リスペクトするようになり、その傾向は晩年まで続いています。

この時の家康の行動には、竹千代の乳母である春日局の進言があったからだという説もありますが、あくまでも家光の死後に流れた風説であるため、「創作」だという考え方の方が一般的です。

1616年 - 12歳
年寄衆や家臣団を持つ
この年の5月に、竹千代付きの年寄衆が3人任じられ、9月には60名弱の少年たちが小姓として竹千代の指揮下に入りました。

また、予定通りであれば竹千代の元服もこの年に行われる予定だったようですが、タイミング悪く大御所である家康が逝去したため、彼が元服するのは少しお預けとなります。

しかし2年後の1618年には、公式の場に出席している記録が見られ、竹千代は元服こそまだしていないものの、着々と次期将軍としての経験を積んでいきます。

1620年 - 16歳
元服と任官
家康の死によって延期になっていた元服の儀が行われ、竹千代は晴れて”家光”と名を改め、朝廷から官職に任官を受けました。

「家光」という名前は、家光の家康に対するリスペクトを鑑みた金地院崇伝の選定によるものであり、これ以降徳川家は代々、”家”の一字を受け継いだ名前を名乗っていくことになりました。

1623年 - 19歳
第三代将軍として着任
父である秀忠と共に上洛を行い、家光は上位の役職に叙任。そして江戸にもどると同時に、父である秀忠は西の丸に隠居し、代わりに家光が本丸入り。父から将軍の位を受け継いだことで、徳川家光はこの年に正式に第三代将軍となりました。
1626年 - 22歳
二元政治の中での上洛
第三代将軍となった家光ですが、父である秀忠は隠居の身でありながら権力を持ち続け、実質的な「二元政治体制」が続いていました。

それを示すように、この年の上洛に際しても、現職の将軍である家光のものよりも、大御所である秀忠の方が豪奢で強力な行列を組織したため、家光はここでも暗に辛酸をなめさせられることになりました。

1627年 - 23歳
紫衣事件が勃発~冷え込む幕府と朝廷の関係~
幕府によって禁じられていた紫衣の授与を朝廷が一方的に無視して行ったことで、朝廷と幕府の関係性が深刻に冷え込むことに。

これによって沢庵宗彭(たくあんそうほう)などの僧侶が流刑などの処罰を受けており、幕府と朝廷の関係は以降数年の間、ほぼ断絶状態になってしまいました。

1632年 - 28歳
父の死により親政がスタート
年初めに秀忠が逝去したことで二元政治体制が終了し、家光による親政がスタート。彼はまず直轄軍の再編を行い、祖父や父の代ではうやむやになっていた部分にメスを入れ始めました。
1633年 - 29歳
鎖国令の発布と、統治体制の明確化
この年、家光は長崎奉行に対して『鎖国令』を発布。この年のものは貿易の管理や統制を目的とする命令でしたが、2年後の1635年にはより厳しい命令を発布し、これによって東南アジア諸国と日本の国交は断絶。以前より続いていた朱印船貿易は、ここで終了することになりました。

またこの年には、幕府内の職掌や立場などを明確に制度化。「老中」「奉行」「若年寄」と言った形の職掌や、それぞれの関係性を明確に示すことで、100年以上続く江戸幕府の統治体制の礎を作り上げました。

1634年 - 30歳
上洛を行い、国内政治の安定化を図る
ほぼ断絶レベルに冷え切った朝廷との関係を重く見た家光は、この年に上洛を行い、後水尾上皇と謁見。彼の院政を認める形で朝廷に歩み寄り、朝廷と幕府の関係性の再建に尽くしました。
1635年 - 31歳
『参勤交代』の義務化を行う
家光はこの年、武家諸法度の改訂を行い、大名たちの参勤交代を義務化。これによって戦費を消費させられた大名たちは、嫌でも反乱を起こすことが難しくなり、結果として江戸幕府の統治体制が長くにわたって続く要因ともなりました。

また、この頃には中国人、ポルトガル人の長崎への隔離が進められ、厳密な「鎖国」こそ行われていないものの、後の「鎖国」に繋がるような状況が着々と整えられていきました。

1636年 - 32歳
激しさを増すキリスト教弾圧
キリスト教徒への弾圧が激しさを増していき、この年には多くのキリシタンが処刑されたことが記録に残っています。鋸引きや水磔などの惨たらしい処刑の記述も数多く見られ、徳川家光という人物の”暗部”を象徴するような時期が、この時期だと言っていいでしょう。
1637年 - 33歳
島原の乱、勃発
九州の島原、天草の民が、天草四郎を大将に据えて大反乱を開始。「知恵伊豆」と名高い松平信綱を派遣してこれを収めた家光は、ポルトガルとの断行を決意。ポルトガルに頼らずに、中国経由で生糸の輸入が可能であることを確かめると、ポルトガルとの断交に向けて動き始めました。
1639年 - 35歳
ポルトガルとの断交
ポルトガルとの断交の準備を整えた家光は、長崎奉行や九州地方の大名たちに、ポルトガル人やポルトガル船の追放を支持する『第五次鎖国令』を発布。これによってポルトガルとの交流は完全に途絶え、日本は着々と鎖国に向けて歩んでいくことになりました。
1641年 - 37歳
鎖国体制の完成
この年にオランダ商館を出島に移転させたことで、外国との貿易の窓口が長崎の出島に一元化。これによって鎖国体制が完成し、幕府が外国との貿易を一手に管理する体制が整うことになりました。
1642年 - 38歳
寛永の大飢饉
この頃になると、一応は幕府の統治体制が安定してきた頃でしたが、この年には「寛永の大飢饉」と呼ばれる未曽有の飢饉が勃発。各地の大名や百姓が壊滅的な被害を受け、連鎖的に幕府の財政も苦しめられることになってしまいました。

この窮状に、家光は『田畑永代売買禁止令』を発布し、これによって幕府は内部組織のみならず、農民らの統制にも注力することになったようです。

1650年 - 48歳
病に倒れて逝去
寛永の大飢饉などによる心労が祟ったのか、歩行障害などを患った家光はこの年に突如として昏倒。昏倒した翌日に、そのまま帰らぬ人となってしまいました。

死因としては脳卒中という説が一般的であり、彼の遺体は遺言に基づいて、日光の輪王寺に葬られました。

徳川家光の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

江戸人物伝 徳川家光

歴史好きの間ではおなじみの『コミック日本の歴史』シリーズの徳川家光版です。

若干家光の事を綺麗に描きすぎている部分は見受けられ、少々異説や解釈ミスなども存在していますが、「まず大筋で徳川家光について知りたい!」という方には非常にわかりやすい参考書だと思います。

参勤交代の真相

徳川家光の行った政策の代表である「参勤交代」について深掘りした一冊です。

制度について「良い」「悪い」の観点ではなく、単純な事実とそれにまつわるエピソードを中心に据えて書かれているため、自分なりの意見や、創作などではあえて描かれない部分なども知ることができる、非常に有益な一冊となっています。

気軽に読めるタイプの本ではありませんが、学術書にしては短く読みやすい本ですので、そう言った本にチャレンジしたい方にお勧めの一冊です。

将軍の血

”徳川家光”という人物のどす黒い部分をかなり誇張して描き、えげつないストーリーに仕立てたエンタメ作品です。

エログロナンセンスな人を選ぶ描写が多く、史実に即しているとも正直なところ言い難い作品ですが、「歴史の新解釈」として見るには非常に興味深く、ハマる人にはとことんハマる作品です。

まずはAmazonなどであらすじを確認し、そこから興味を持ったら読んでみてほしい作品となっています。

おすすめの映画

将軍家光の乱心 激突

「7人の浪人VS家光の命を受けた刺客たち」というシンプルな構造が特徴の、アクション時代劇作品です。この作品における家光は、我が子の命を狙うサイコパス気味な悪役として登場します。

基本的に殺陣などのアクションがメインであり、ストーリー性は二の次の作品ですが、見ていると意外と引き込まれる不思議な魅力のある作品です。騙されたと思って、ぜひ一度ご覧になってください。

おすすめドラマ

大河ドラマ 葵 徳川三代

家康・秀忠・家光の徳川三代将軍を中心に据えた大河ドラマです。とはいえ、メインどころは主に家康と秀忠に集約されてしまうため、家光はあくまでも「未来を担う者」として描かれている印象がありました。

とはいえ、そう言った部分を差し引いても非常に面白いドラマであることは変わりないため、江戸初期好きや、徳川幕府に興味がある方は、まずはこの作品から徳川幕府について学び始めることをお勧めいたします。

大河ドラマ 春の坂道

家光の兵法指南役である、柳生宗矩を主人公に据えた大河ドラマの最終回です。映像データが失われてしまっている作品のため、最終回しか見られないのが惜しい所。

この最終回においては、家光はかなりの「暗君」として描かれてしまっています。しかしここで視点を転換して、「何故家光は”悪”として描かれてしまうのか」という部分を考えてみると、より深く様々な作品や歴史を楽しむ足がかりとなれるのではないでしょうか。

関連外部リンク

徳川家光についてのまとめ

徳川幕府の三代将軍として、江戸幕府の屋台骨を築き上げた徳川家光。その政策や振る舞いに対しては、非常に賛否の声が分かれるものの、江戸時代という長い平和な時代の礎を築き上げた功績は、間違いなく評価すべきところだろうと思います。

筆者にとって徳川家光は、「悪人」「暗君」と言ったイメージで描かれている印象が強い、「徳川家の求心力の衰退の象徴」のようなイメージを勝手に持っていた部分があったのですが、子の執筆にあたって調べてみると、彼の絵のような意外と面白い部分も多く、もっと歴史の前面に取り上げられてほしい人物だと感じました。

と、このように一人の人物から様々な側面が発見できるのも、歴史という分野の非常に面白い所。今回はこの形に纏めさせていただきましたが、機会があれば家光の文化人的な部分なんかも纏めて行ければいいなと思います。

それでは、この記事におつきあいいただきまして、誠にありがとうございました。

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