「安史の乱って何?」
「安史の乱は、いつ、どこで、誰が起こした反乱?」
「安禄山と玄宗、楊貴妃との関係とは?」
この記事にたどり着いたあなたは、このようにお考えではないでしょうか。
安史の乱とは、755年~763年にかけて唐の節度使である安禄山と部下の史思明が中心となって起こした反乱でした。強大な武力を持つ安禄山は都の長安を攻め落とし、時の皇帝玄宗は命からがら都から脱出します。
長安を攻め落とした安禄山は、洛陽で皇帝に即位し燕の建国を宣言します。757年に、安禄山が暗殺されると史思明が反乱軍を引き継ぎます。
その後、唐は異民族のウイグルの力を借りて安史の乱を鎮圧しました。しかし、8年にも及ぶ大乱は唐の屋台骨を大きく揺るがし、唐の社会を大きく変質させます。この記事では、安史の乱の原因と経緯、安史の乱後の社会変化、安史の乱を題材とした漢詩について解説します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
安史の乱とは何か
安史の乱とは唐の節度使である安禄山が部下の史思明とともに起こした反乱です。安史の乱とよばれるのは首謀者が安禄山と史思明だったからです。
反乱のはじまりは755年、反乱が終息したのは763年で実に8年に及ぶ大内乱となりました。
755年に安禄山は洛陽を占領して大燕皇帝を称しました。唐王朝と対決します。
唐の玄宗皇帝は討伐軍を派遣し反乱軍を鎮圧しようとします。しかし、討伐軍は反乱軍に大敗を喫してしまいました。驚いた玄宗皇帝は楊国忠の進言にしたがって都の長安を脱出し、蜀へと逃げ延びます。
安禄山は乱を起こした翌年に息子に暗殺されてしまいましたが、史思明が反乱軍をまとめ上げたため、内乱は継続します。
唐は自力で安史の乱を鎮圧できず、異民族のウイグルの力を借りてようやく反乱を鎮圧しました。安史の乱の鎮圧後、唐では社会が大きく変化します。
安史の乱が勃発した原因は?
強大化した節度使
6世紀半ばから8世紀にかけて、中国では国が所有する土地を農民に与える均田制が行われていました。均田制は唐の時代にも引き継がれます。
土地を与えられた農民は労役をはじめとする様々な税負担を課せられました。中でも重かったのが兵役です。均田農民を兵士として都や辺境を守らせる制度を府兵制といいます。
8世紀前半に玄宗が即位したころ、重い税負担に耐えかねた農民は土地を捨てて逃げ出します。均田制は十分におこなれなくなり、府兵制もうまくいかなくなりました。
そこで考え出されたのが兵士になりたい人を募集する募兵制です。募兵を指揮する役職を節度使といいました。
710年以降、節度使は各地に設置され、安史の乱の直前には十を数えました。節度使は辺境防衛の司令官というだけではなく、地域の行政権も与えられます。その結果、強大な地方権力に成長しました。
玄宗皇帝による安禄山への寵愛
712年に即位した玄宗は、武韋の禍で不安定化していた政治を安定化させるなど政治を引き締めました。そのため、玄宗の治世前半は「開元の治」と称えられます。
ところが、治世の後半になると政治への関心を急速に失いました。その原因とされるのが楊貴妃です。絶世の美女ともいわれる楊貴妃は、玄宗の子の后でした。玄宗は楊貴妃を見て一目惚れし、自らの後宮に迎えてしまいます。
玄宗は楊貴妃を溺愛し、彼女との生活におぼれていきました。この様子を見て、楊貴妃に気に入られることで出世しようと考えた人物がいました。それが、安禄山です。
安禄山はソグド人の血を引く将軍で、この時すでに平廬節度使の地位にありました。安禄山は楊貴妃のもとを訪れると、楊貴妃の養子になりたいと願い出ます。楊貴妃はおむつをした安禄山をお風呂に入れる遊びをして喜んだと伝わります。
ある時、安禄山は皇帝である玄宗よりも楊貴妃に先に挨拶をしました。玄宗が怒ると、安禄山は「異民族では父よりも母を尊敬します」と切り返し、かえって玄宗を感心させてしまいます。
玄宗皇帝と楊貴妃の寵愛を受けた安禄山は平廬のほかに范陽と河東の節度使も兼ねます。これで、安禄山は北西辺境で最強の軍団を保有することになりました。
安禄山と楊国忠の対立
安禄山以外にも玄宗や楊貴妃に気に入られて出世した人物がいました。楊貴妃の一族の楊国忠です。楊国忠はとんとん拍子に出世します。楊国忠は自分に従うものを出世させ、従わないものを左遷し権力を握ります。
出世した楊国忠にとって、安禄山は邪魔な存在でした。そのため、楊国忠はしきりに安禄山に対するネガティブキャンペーンを展開します。身の危険を感じ安禄山は范陽に去りました。
安禄山が范陽に去った後も、楊国忠は安禄山が反乱を起こすと主張し続けました。その後、安禄山に協力していた吉温が楊国忠に左遷させられたことを知り、安禄山は武力蜂起を決意します。
安史の乱の経緯・年表
755年 安禄山の挙兵
楊国忠との対立が激しさを増し、もはや妥協の余地がないと判断した安禄山は、部下の史思明とともに挙兵しました。安史の乱の始まりです。
3節度使を兼ねる安禄山は10万以上の兵を動かすことができました。その兵力で安禄山は都の長安に向けて進撃を開始します。
不意を突かれた唐軍は安禄山の反乱軍を防ぐことができません。安禄山は挙兵からわずか1か月で長安に次ぐ大都市の洛陽を占領しました。
洛陽を占領した安禄山は燕の建国を宣言し、皇帝に即位します。
756年 反乱軍の長安占領と玄宗皇帝の脱出
安禄山の挙兵を知った玄宗は直ちに討伐軍を差し向けます。唐軍は長安の東にある潼関(どうかん)を防衛拠点として安禄山軍を迎撃しました。
唐軍は雍丘の戦いで安禄山軍に勝利し、安禄山軍の長安進出を阻止します。しかし、756年6月に唐軍が大敗を喫すると、玄宗は楊国忠の進言にしたがって長安を脱出し南方の蜀に向かいます。唐の都長安は安禄山の手に落ちました。
玄宗一行が長安を出て馬嵬(ばかい)という場所に来た時、護衛の兵士たちは反乱の原因は楊国忠にあるとして楊国忠らを殺害しました。兵士たちは玄宗皇帝に、楊貴妃を殺すよう迫ります。
玄宗は「楊貴妃は反乱と無関係だ」と楊貴妃をかばいましたが、兵士たちは聞き入れようとしません。やむなく、玄宗は楊貴妃の殺害に同意。楊貴妃は玄宗側近の高力士によって縊死させられました。
757年 安禄山の暗殺
長安の占領した安禄山は健康を大きく損なっていました。757年の1月には視力を失います。体が思うように動かなくなった安禄山は粗暴な振る舞いが目立つようになりました。
しかも、安禄山軍による中国全土の掌握はうまくいっていませんでした。玄宗の子が粛宗として即位し、安禄山との戦いを継続したからです。
また、地方の太守たちの中には顔真卿のように頑強に抵抗する者も現れます。顔真卿は書架としても知られ、多くの作品が残されています。
加えて、自分の後継者として指名していた安慶緒の廃嫡を公然と口に出すようになると安慶緒は強く反発しました。
757年1月、安慶緒は安禄山を暗殺し、自ら皇帝となりました。史思明はこれに反発し、范陽に帰ってしまいます。その後、史思明は洛陽を攻め、安慶緒を滅ぼし皇帝となります。
757年 ウイグルへの援軍要請
皇帝となった粛宗は唐軍だけでは安史の乱を鎮圧できないため、756年に遊牧民族のウイグルに援軍を要請します。ウイグルの王(ハン)である葛勒可汗(かつろくかがん)は粛宗の要請に応じ援軍を派遣しました。
さらに、西方のアッバース朝のカリフであるマンスールも唐を支援するためにアラブ兵を派遣しました。当時の唐が中国だけではなく世界帝国だったことがわかりますね。
ウイグルなどの援軍を得た粛宗は長安奪還作戦を展開し、反乱軍から都を奪い返しました。長安奪還に協力したウイグルは唐の公主(皇帝一族の娘)を降下させるよう要求します。やむなく、粛宗は皇女をウイグルに嫁がせました。
763年 反乱鎮圧
史思明は洛陽を拠点として唐軍との戦いを継続していました。ところが、史思明も安禄山と同じく子と対立してしまいます。長男の史朝義よりも妾の子を溺愛し後継者にしようとしたからでした。
760年2月、史思明が殺害され、史朝義が燕の皇帝となりました。唐では皇帝を退位していた玄宗や皇帝の粛宗が相次いで亡くなり、代宗が即位します。
代宗はウイグルとともに洛陽の思朝義を総攻撃し、ついに洛陽を奪還しました。本拠地を失った思朝義は范陽に逃げて自殺。これにより、安史の乱は終結しました。
安史の乱で犠牲になった人々は少なく見積もっても1000万人以上、最大で3600万人に達したといいます。安史の乱後、唐は大きく変質しますが150年以上も存続しました。
安史の乱後の変化
均田制や租庸調制度の崩壊
安史の乱は唐の政治システムである律令制を完全に崩壊させました。安史の乱の前から、農民に土地を配り各種の税を負担させる均田制は行き詰まっていました。重い税負担に耐えかねて農民たちが逃げ出したからです。
安史の乱がおさまっても国力が低下した唐王朝に均田制を実施する力は残っていませんでした。安史の乱以後、土地は有力貴族や各地に出現した新興地主が所有します。彼らが所有する土地を荘園といいました。
均田制の崩壊は、均田制を前提としたほかのシステムもダメになることを意味します。均田農民が穀物や布を納め、労役や兵役を行う租庸調制は実施不可能となりました。
かわって行われるようになったのが両税法です。両税法とは資産額に応じて課される戸税と耕地面積に応じて課される地税を徴収する税法です。税金は年に2回、6月と11月に徴収すると定めました。
強大化した節度使が藩鎮を形成
安史の乱後、さらに力を増したのが節度使でした。安史の乱より前、節度使は国境沿いに設置されていました。安史の乱後、節度使は国内にも設置され、その数は40~50に達します。
節度使は数州を管轄し、軍事・財政・民政の権限を握りました。こうして、中央から独立する力を与えられた節度使は、藩鎮と呼ばれるようになります。
9世紀後半に唐を揺るがした黄巣の乱後、藩鎮はさらに力を増し、各地で独立政権を打ち立てました。唐の滅亡後、各地の藩鎮は自立し五代十国の乱世を迎えます。
安史の乱を題材とした漢詩
安史の乱で焦土と化した長安で杜甫が詠んだ「春望」
安史の乱は唐の全土を揺るがす大内乱で、たくさんの人が巻き込まれました。詩聖の名で知られる杜甫もその一人です。
安史の乱の直前、杜甫は中央政府の下級官吏の職に就きました。安史の乱が起きると杜甫は長安を脱出し、粛宗のもとに行こうとします。
しかし、脱出は失敗し、杜甫は捕えられ幽閉されてしまいました。「春望」は杜甫が幽閉中に詠んだ漢詩です。 冒頭の「国破れて山河あり」は、安禄山の乱で唐が荒れ果てても自然は残っているという意味です。
杜甫が生まれたのは玄宗皇帝の統治が盤石だった「開元の治」のころでした。安史の乱で唐の栄華は過去のもととなります。「春望」からは荒れ果てた長安を見ながら、家族からの手紙を宝物として持ち歩く初老の詩人の姿が見えてくるようです。
安史の乱から半世紀後に白居易が詠んだ「長恨歌」
白居易(白楽天)は、杜甫が誕生してから60年以上たって生まれた人物です。白居易は科挙に合格して官僚となりました。
安史の乱から50年以上がたった806年、白居易は長編の漢詩である「長恨歌」をつくりました。白居易は玄宗を漢の皇帝に置き換え、楊貴妃は楊家の娘とだけ書かれます。それでも、内容を見れば玄宗と楊貴妃の物語であることは明らかです。
玄宗に見初められ、寵愛される楊貴妃の様子や、楊貴妃のたぐいまれな美しさ、殺害された楊貴妃とそれを嘆く玄宗の様子がまるでそばで見ていたかのように綴られています。
安史の乱に関するまとめ
いかがだったでしょうか。
安史の乱は、唐の玄宗皇帝の時代におきた大反乱でした。首謀者である安禄山は洛陽を占領し燕の皇帝を称します。
安禄山の軍は唐軍を打ち破り、長安を占領します。玄宗は長安を脱出しましたが、逃避行の途中で兵士たちが楊国忠を殺害し、楊貴妃にも死を強要しました。
蜀に逃げた玄宗は退位し、子の粛宗が反乱軍と戦います。単独で安史の乱を鎮圧できなかった唐王朝はウイグルに助けを求めました。そのおかげで、763年にようやく安史の乱を鎮定することができました。
安史の乱とはどのような乱だったのか、安史の乱はいつ、どこで、誰が起こした反乱だったのか、安禄山と玄宗・楊貴妃との関係はどうだったのかなどについて、「そうだったのか!」と思える時間を提供できたら幸いです。
それでは、長時間をこの記事お付き合いいただき、誠にありがとうございました。