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アクティウムの海戦とは?原因や海戦場所、覚え方もわかりやすく解説

「アクティウムの海戦ってどんな海戦?」
「何が原因で、どんな結末だったの?」
「その後、どんな影響があった?」

アクティウムの海戦は、ローマ帝国がエジプトを支配下に置くきっかけともなった海戦ですが、これは単純な征服戦争というわけではありませんでした。

恋に溺れたかつての東ローマを支配したアントニウスと、西方世界を支配した偉大な将軍オクタウィアヌスの一騎打ちに近いものでした。結果はオクタウィアヌスの勝利に終わりましたが、それぞれの思惑が複雑に絡み合って起きた戦争だったのです。

この記事ではアクティウムの海戦について概要や経過、海戦のその後を解説します。合わせてアクティウムの海戦に登場する主要な3人の人物と、覚え方なども合わせてお伝えしていきます。

ぜひ最後までご一読ください。

アクティウムの海戦とは?簡単に概要を解説

アクティウムの海戦

アクティウムの海戦の概要

開戦日紀元前31年9月2日
場所イオニア海アクティウム沖
勝利オクタウィアヌス軍
交戦戦力プトレマイオス朝・アントニウス軍 VS オクタウィアヌス軍
指揮官マルクス・アントニウスーマルクス / ウィプサニウス・アグリッパ
戦力軍戦230隻、軍団兵20,000、弓兵2,000 - 軍戦400隻、軍団兵16,000、弓兵3,000
損害戦死5000、撃沈200隻 - 戦死2,500

アクティウムの海戦が起きた原因は?

アントニウスとクレオパトラ

アクティウムの海戦の原因は、さまざまな問題が影響しているとされています。もともと対立していた2人ですが、言うなればオクタウィアヌスがアントニウスの弱みにつけ込み、ローマ統一に動いたという流れでしょう。

当時ローマの支配権は東方のアントニウス、西方のオクタウィアヌスに分かれていました。両雄はやがてローマ全土の支配権を巡り、対立し合うようになっていきます。

そんな中、アントニウスの妻オクタウィアに対して、アントニウスは離婚を迫る事件が起きました。それもクレオパトラと恋仲に陥ったから、離婚してほしいという一方的な手紙が送られてきたのです。

これを知ったオクタウィアの弟オクタウィアヌスは、アントニウスに強い反感を持ちます。そして元老院を説得し、紀元前32年7月、アントニウスとオクタウィアヌスの親戚関係を考慮し、クレオパトラ相手に戦争をしかけました。

アクティウムの海戦の経過

地図

クレオパトラと共に出陣したアントニウスはエフェソス、サモス、アテネ、そしてアクティウムと都市を移動し、戦争準備を行いました。9月に入り、クレオパトラ・アントニウス軍とオクタウィアヌス軍は激突します。

しかしアクティウムの海戦に関する細かな記述はわかっていません。詩人の歌や残っている史料によると、戦争が始まってから何らかの理由によってクレオパトラを乗せた船が戦線を離脱。その後を追うようにしてアントニウスの船も離脱したとされています。

結果としては死者数、戦艦の撃沈数ともにオクタウィアヌス軍の圧勝でした。残されたクレオパトラ・アントニウス軍はオクタウィアヌス軍に降伏し吸収され、二人はアレクサンドリアに逃れます。

現在のアレクサンドリア

オクタウィアヌスは一度ローマに帰還し、新たに軍団を編成し、エジプト侵攻の手はずを整えました。その間にアレクサンドリアでオクタウィアヌスを迎え撃つ準備をしていたアントニウスですが、信頼していた部下に裏切られ失意の中自害します。

オクタウィアヌスは政敵のいなくなったアレクサンドリアに入城し、支配下に置きました。捕虜になることを嫌がったクレオパトラも、自ら命を絶ったと言われています。

アクティウムの海戦のその後

ニコポリス

オクタウィアヌスは、エジプトを併合して属州化とした後、シリアやギリシアへ進軍し、オクタウィアヌスの同盟者としました。基本的には自治権を許可し、忠実だった者にはさらなる特権を与えるという寛容な支配でした。

こうして長年続いたローマの内乱は終結し、オクタウィアヌスの名の下に東方および西方領域が統合されたのです。オクタウィアヌスは反乱の目となりそうな人物は処刑し、ユリウス・カエサルの息子だったカエサリオンも例外ではありませんでした。

紀元前29年、長い戦いを終えたオクタウィアヌスはローマに帰還。アクティウムの海を見下ろす位置にあるアポロ神殿に、勝利の記念碑を建造し、またニコポリス別名「勝利の街」も建設しました。

この街ではこれ以降、オリンピア祭と同様に4年に1回の競技会が行われていたと言われています。

アクティウムの海戦の登場人物

アクティウムの海戦

オクタウィアヌス

オクタウィアヌス
全名ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス
生没年紀元前63年ー紀元前14年

義理の父ユリウス・カエサルの意思を受け継ぎ、ローマならびに地中海統一を成し遂げました。彼はその功績を讃えられ、ローマ帝国初代皇帝となりました。

彼はアウグストゥスとも呼ばれますが、これはラテン語で「尊厳ある者」という意味を表しています。他にもインペリアル・カエサル(唯一の大将軍)、国家の父など、多くの呼び名があります。

アウグストゥス廟

オクタウィアヌスはローマ帝国統一後も精力的に政治に参加し、公共事業や都市計画、政治体制の編成に代表される多くの功績を残しています。晩年は胃腸を悪くし、紀元前14年に崩御、彼の遺灰はローマ市内に葬られました。

アントニウス

アントニウス
全名マルクス・アントニウス
生没年紀元前83年ー紀元前30年

マルクス家は由緒正しい貴族の家系で、アントニウスの父や祖父は執政官や監察官を経験した実力者でした。跡を継いだアントニウスはユリウス・カエサルの部下として華々しい活躍を残し、この功績を認められ執政官にまで上りつていったのです。

三頭政治の一角として、東方を任されたアントニウスは遠征を繰り返し、各国を侵攻していきました。遠征資金を調達するために、近隣にあったエジプト王国のクレオパトラと接近します。

これによってクレオパトラと密接な関係になったアントニウスは、クレオパトラとの間にできた子どもたちに、自分の持っている土地や領土を分け与えました。ローマで帰りを待っていた貞淑な妻オクタウィアに書面で離婚を迫ってしまうのです。

オクタウィア

アントニウスはエジプト女に骨抜きにされてしまったと、ローマの貴族たちはこう思ったそうです。結果アクティウムの海戦が引き起こされ、アントニウスは滅亡の道を辿ることとなりました。

クレオパトラ

クレオパトラ7世
全名クレオパトラ7世フィロパトル
生没年紀元前69年ー紀元前30年

世界三大美女の一人とも言われているクレオパトラは正式にはクレオパトラ7世のことです。容姿だけでなく、人を魅了する話術と美しい声を持っていたともされています。

紀元前51年プトレマイオス朝の慣例に則り、弟のプトレマイオス13世と結婚して、共同統治者になりました。しかしプトレマイオス13世とクレオパトラは政治方針の違いにより、対立します。

クレオパトラはユリウス・カエサルに取り入ることで、プトレマイオス13世との争いに勝利します。プトレマイオス13世の死後、プトレマイオス14世と婚姻しました。

カエサルとクレオパトラ

しかしながらプトレマイオス14世は、カエサルの後ろ盾により王位についたということもあり、ほぼ傀儡政権であったと言われています。この間にクレオパトラはカエサルとの間の子であるカエサリオンを出産しました。

カエサルが暗殺され、プトレマイオス14世も立て続けに亡くなると、クレオパトラはまだ幼いカエサリオンを共同統治者に任命します。そしてアントニウスと接近し、彼と恋仲になったのです。

クレオパトラの死

アクティウムの海戦に敗北し、アントニウスの死を看取ったクレオパトラは、ローマ帝国の捕虜になることを拒みます。クレオパトラの正確な死因ははっきりしていませんが、贈答品の中に紛れ込ませていたコブラに自分を咬ませて自殺したと伝えらえています。

アクティウムの海戦の覚え方

覚え方

アクティウムの海戦は語呂合わせで覚えるのがおすすめです。2つの語呂合わせをご紹介します。

  • あんた(アントニウス)にくれよ(クレオパトラ)と頼んだ前菜(紀元前31年)、お口(アクティウム)に合わないわ
  • アクティウム、最(紀元前31年)終盤の決戦だ

どちらも年代を覚えることができます。関わっている人物についても覚えたい場合は、上の語呂合わせの方が良いですね。

アクティウムの海戦にプトレマイオス朝はどう関係している?

古代エジプト イメージ

アクティウムの海戦によって、プトレマイオス朝は滅亡しました。というのもプトレマイオス朝の王であったクレオパトラ7世が自殺し、その後オクタウィアヌスによってエジプト王国は属州化されたからです。

クレオパトラ7世の息子であるカエサリオンはオクタウィアヌスによって処刑されてしまい、さらに他の息子たちは消息不明となりました。プトレマイオス朝を受け継ぐ者もおらず、完全に長きに渡って続いてきた王朝は途絶えたのです。

属州化されたエジプトには総督が置かれ、ローマ帝国領エジプトとなりました。エジプトは地形的に他の諸外国と交流しやすかったこともあり、エジプトの交易は大いに発展しました。

そしてローマ帝国を財政的な面で支えることとなったのです。

アクティウムの海戦に関するまとめ

アクティウムの海戦について解説しました。いかがでしたでしょうか。

ローマ帝国の長きに渡って続いた内戦は、アクティウムの海戦を最後に終結しました。エジプト王国も巻き込んだ戦いは、当時の地中海一帯を大きく変革させた事件でもありました。

この戦争は、ローマ帝国の繁栄のために必要な戦いだったのだと思います。「ローマは一日にしてならず」という言葉がありますが、アクティウムの海戦はローマ帝国の苦難の歴史の一つだったのです。

ローマの歴史の中には多くの事件や戦争が起きています。ぜひ他の出来事にも興味を持っていただけますと幸いです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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