「アクティウムの海戦ってどんな海戦?」
「何が原因で、どんな結末だったの?」
「その後、どんな影響があった?」
アクティウムの海戦は、ローマ帝国がエジプトを支配下に置くきっかけともなった海戦ですが、これは単純な征服戦争というわけではありませんでした。
恋に溺れたかつての東ローマを支配したアントニウスと、西方世界を支配した偉大な将軍オクタウィアヌスの一騎打ちに近いものでした。結果はオクタウィアヌスの勝利に終わりましたが、それぞれの思惑が複雑に絡み合って起きた戦争だったのです。
この記事ではアクティウムの海戦について概要や経過、海戦のその後を解説します。合わせてアクティウムの海戦に登場する主要な3人の人物と、覚え方なども合わせてお伝えしていきます。
ぜひ最後までご一読ください。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
アクティウムの海戦とは?簡単に概要を解説
アクティウムの海戦の概要
開戦日 | 紀元前31年9月2日 |
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場所 | イオニア海アクティウム沖 |
勝利 | オクタウィアヌス軍 |
交戦戦力 | プトレマイオス朝・アントニウス軍 VS オクタウィアヌス軍 |
指揮官 | マルクス・アントニウスーマルクス / ウィプサニウス・アグリッパ |
戦力 | 軍戦230隻、軍団兵20,000、弓兵2,000 – 軍戦400隻、軍団兵16,000、弓兵3,000 |
損害 | 戦死5000、撃沈200隻 – 戦死2,500 |
アクティウムの海戦が起きた原因は?
アクティウムの海戦の原因は、さまざまな問題が影響しているとされています。もともと対立していた2人ですが、言うなればオクタウィアヌスがアントニウスの弱みにつけ込み、ローマ統一に動いたという流れでしょう。
当時ローマの支配権は東方のアントニウス、西方のオクタウィアヌスに分かれていました。両雄はやがてローマ全土の支配権を巡り、対立し合うようになっていきます。
そんな中、アントニウスの妻オクタウィアに対して、アントニウスは離婚を迫る事件が起きました。それもクレオパトラと恋仲に陥ったから、離婚してほしいという一方的な手紙が送られてきたのです。
これを知ったオクタウィアの弟オクタウィアヌスは、アントニウスに強い反感を持ちます。そして元老院を説得し、紀元前32年7月、アントニウスとオクタウィアヌスの親戚関係を考慮し、クレオパトラ相手に戦争をしかけました。
アクティウムの海戦の経過
クレオパトラと共に出陣したアントニウスはエフェソス、サモス、アテネ、そしてアクティウムと都市を移動し、戦争準備を行いました。9月に入り、クレオパトラ・アントニウス軍とオクタウィアヌス軍は激突します。
しかしアクティウムの海戦に関する細かな記述はわかっていません。詩人の歌や残っている史料によると、戦争が始まってから何らかの理由によってクレオパトラを乗せた船が戦線を離脱。その後を追うようにしてアントニウスの船も離脱したとされています。
結果としては死者数、戦艦の撃沈数ともにオクタウィアヌス軍の圧勝でした。残されたクレオパトラ・アントニウス軍はオクタウィアヌス軍に降伏し吸収され、二人はアレクサンドリアに逃れます。
オクタウィアヌスは一度ローマに帰還し、新たに軍団を編成し、エジプト侵攻の手はずを整えました。その間にアレクサンドリアでオクタウィアヌスを迎え撃つ準備をしていたアントニウスですが、信頼していた部下に裏切られ失意の中自害します。
オクタウィアヌスは政敵のいなくなったアレクサンドリアに入城し、支配下に置きました。捕虜になることを嫌がったクレオパトラも、自ら命を絶ったと言われています。
アクティウムの海戦のその後
オクタウィアヌスは、エジプトを併合して属州化とした後、シリアやギリシアへ進軍し、オクタウィアヌスの同盟者としました。基本的には自治権を許可し、忠実だった者にはさらなる特権を与えるという寛容な支配でした。
こうして長年続いたローマの内乱は終結し、オクタウィアヌスの名の下に東方および西方領域が統合されたのです。オクタウィアヌスは反乱の目となりそうな人物は処刑し、ユリウス・カエサルの息子だったカエサリオンも例外ではありませんでした。
紀元前29年、長い戦いを終えたオクタウィアヌスはローマに帰還。アクティウムの海を見下ろす位置にあるアポロ神殿に、勝利の記念碑を建造し、またニコポリス別名「勝利の街」も建設しました。
この街ではこれ以降、オリンピア祭と同様に4年に1回の競技会が行われていたと言われています。