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ヨーロッパの火薬庫(バルカン半島火薬庫)とは?歴史やその後の情勢を解説

「ヨーロッパの火薬庫ってなに?」
「どうしてヨーロッパの火薬庫と呼ばれるようになったの?」

列強諸国の対立戦争に巻き込まれたバルカン半島。立て続けに起こった小国の独立や、植民地戦争によりヨーロッパの火薬庫と呼ばれるほど、戦禍渦巻く土地となりました。

この記事ではヨーロッパの火薬庫の概要を解説し、そう呼ばれるようになった経緯、ヨーロッパの火薬庫が与えた影響などについてもご紹介していきます。

ヨーロッパの火薬庫とは?簡単に概要を解説

バルカン半島

ヨーロッパの火薬庫とは、20世紀初頭のバルカン半島の情勢を指した言葉です。他民族が入り混じる土地で、列強諸国が干渉しやすい位置にあったことで、多くの火種を生みました。

19世紀までバルカン半島はオスマン帝国が支配していました。しかし国内政治が停滞するに伴って、国力は弱体化していきます。

国力の低下に伴って、オスマン帝国内部から反乱が起き、さまざまな民族が独立を要求しました。独立戦争に近隣の列強国が手を貸したことで、バルカン半島の情勢は一触即発となっていったのです。

ヨーロッパの火薬庫と呼ばれるようになった経緯

現在のボスニア・ヘルツェゴヴィナ

1878年のベルリン条約

当時バルカン半島を支配していたオスマン帝国は、ロシアとの戦争に敗れバルカン半島に侵攻してきます。これに対し、バルカン半島に接するオーストリア=ハンガリー帝国とイギリスが強く反発したことで、両者の間は戦争の危機へと発展しました。

ベルリン会議の様子

そこでドイツ帝国が調停に乗り出し、ベルリン会議が開催、そして1878年にベルリン条約が締結されました。このベルリン条約では以下の4点が取り決められました。

  • オスマン帝国領のルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立を認める
  • ブルガリアは1/3の領土にする代わりに、自治国としての統治を認める
  • オスマン帝国領のボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアの行政権が認められる
  • オスマン帝国領のキプロス島はイギリスの行政権が認められる

オスマン帝国の衰退と小国の独立

露土戦争

露土戦争で敗北し、ベルリン条約によってオスマン帝国領は大幅に縮小・弱体化したことで、オスマン帝国は衰退の一途を辿りました。内政の混乱も続き、かつてのオスマン帝国の姿はそこにはなく、列強諸国からは「瀕死の病人」と揶揄されるほどでした。

オスマン帝国「瀕死の病人」を揶揄した風刺画

ベルリン条約によりバルカン半島では小国が独立していきます。この独立によって、国境をどこに定めるかということが問題になり、それが国同士の対立を深めていくことになりました。

オスマン帝国の弱体化

疲弊したオスマン帝国

パン・スラヴ主義

アルフォンス・ミシャ画『故郷のスラヴ人』

先のベルリン条約において、バルカン半島の領地を獲得できなかったロシアは、バルカン半島内のスラヴ系民族に目をつけます。彼らが独立のために動き出しているところを擁護し、後ろ盾になったのです。

これをパン・スラヴ主義と呼びます。現在におけるセルビアがスラヴ系の国家にあたります。

パン・ゲルマン主義

当時の列強諸国の関係性

この動きに感化され、オーストリア=ハンガリー帝国がゲルマン民族の統合を図ろうと呼びかけます。これをパン・ゲルマン主義といいます。

パン・スラヴ主義とは対立した動きを見せました。パン・ゲルマン主義の後ろ盾となっていたのはドイツ帝国です。

1908年:青年トルコ革命

青年トルコ革命の様子

オスマン帝国内で、近代化を目指して革命が発生します。これを「青年トルコ革命」と呼び、この運動によってオスマン帝国内の混乱はさらに強くなっていきました。

革命によって、ブルガリアは完全に独立します。さらに混乱に乗じて、オーストリア=ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合しました。

この動きに対し、周囲の列強国はオーストリアを批判します。特にバルカン半島を狙っていたロシアは強い怒りを示し、バルカン半島の緊張は高まっていきました。

小国同士の争いとそれをサポートする列強諸国

1911年:イタリア=トルコ戦争

イタリア=トルコ戦争

青年トルコ革命により、内政が混乱している最中、1911年にイタリアがオスマン帝国に宣戦布告します。そしてトリポリに侵攻し、領地を奪いました。

オスマン帝国は抵抗しましたが、翌年に起きた第一次バルカン戦争が始まり劣勢に立たされたことで、やむなく停戦に応じました。これにより正式にイタリアはトリポリおよび、キレナイカを自分のものにし、名称をリビアと変え植民地としました。

1912年:第一次バルカン戦争

ヤロスラフ・ヴェシン画『銃撃で
オスマン軍を突破するブルガリア軍を描いている

オスマン帝国内では弱体化した政府に見かねて、各地で反乱が起きます。1912年春、アルバニアでの反乱をきっかけに、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシアのバルカン半島諸国が同盟を組み、オスマン帝国に宣戦布告しました。これを「第一次バルカン戦争」と呼びます。

ロシアはバルカン同盟側につき、戦争はバルカン同盟軍の勝利に終わりました。翌1913年に、ロンドン条約が結ばれ、オスマン帝国はイスタンブルを除くヨーロッパの領土および、クレタ島を失い、バルカン半島の支配は終わりを告げました。

その後バルカン半島諸国は続々と独立していきます。独立の中で、民族運動に遅れが生じていたマケドニアは、近隣のセルビア、ブルガリア、ギリシアに目をつけられ侵略、領土を分割されてしまいました。

また第一次バルカン戦争によって勢力を強めたブルガリアは、戦後セルビアと対立します。そしてセルビアの後ろ盾となっていたロシアも、ブルガリアを警戒するようになっていきました。

1913年:第二次バルカン戦争

第二次バルカン戦争後のバルカン半島

第一次バルカン戦争後、マケドニアをセルビア、ブルガリア、ギリシアの三国で分割しました。しかし領土の分配に不満を持ったブルガリアは、1913年にセルビアとギリシアに対し戦争を起こしました。

ブルガリアの強大化を恐れたオスマン帝国および、近隣のモンテネグロ、ルーマニアがセルビアとギリシア側につきます。結果、圧倒的な武力差により約1ヶ月という短い期間でブルガリアは敗北しました。

ブカレスト条約が締結され、ブルガリアは各国に領土を分配したことで、領土は最盛期の半分ほどになってしまいました。そして復活を狙ったブルガリアは、列強国の一つであるオーストリア=ハンガリー帝国とドイツ帝国に近づきます。

ブカレスト条約により割譲されるブルガリア領

これによりブルガリアの後ろ盾にオーストリア、ドイツの2国が、セルビアやギリシアの後ろ盾にはロシアがつくことになりました。他にルーマニアやオスマン帝国などの国も変わらずバルカン半島に影響を及ぼしていました。

対立関係の激化

二度のバルカン戦争により、小国同士の対立が深まります。それだけでなく、バックに列強国がついたことで、小国間同士の戦争ではなく、大国間の争いにまで発展していきました。

大国間同士で列強と同盟を組んでおり、小国・大国問わずヨーロッパからバルカン半島までの多くの国家が関わり合うこととなりました。対立が激化していくことで、いつ戦争が起きてもおかしくないという、ピリピリした危険な情勢は、さながら「火薬庫」のような危険性を持っていたのです。

第一次世界大戦を引き起こす要因にもなった?

サラエボ事件

1914年、ボスニアでオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子が暗殺される、サラエボ事件が起きました。この事件は南スラヴの統一国家を目指す組織に所属してたセルビアの青年が主犯でした。

サラエボ事件の主犯であるガブリロ・プリンツィプ

この事件を受け、皇太子を失ったオーストリアはセルビア政府に責任を問います。そして同盟国のドイツを巻き込み、セルビアに対し宣戦布告したのです。

対してセルビアのバックについていたロシアが、セルビアの応援に出ると、今度はドイツがロシアと隣国のフランスに宣戦布告し、バルカン半島ならびにヨーロッパ諸国を巻き込んだ「第一次世界大戦」へと発展していきました。

ヨーロッパの火薬庫に関する風刺画がある?

「ヨーロッパの火薬庫」を皮肉った風刺画

この風刺画をご存知でしょうか。「バルカントラブルズ」と書かれた大釜に当時のヨーロッパ列強国が蓋をして吹きこぼれないように抑えています。

バルカン半島の争いは、いつ大国に飛び火してもおかしくない状況でした。この絵は、バルカン半島の問題によってヨーロッパ列強国が大火傷しないよう、必死に抑え戦争を避けている様子を皮肉っています。

残念ながらサラエボ事件を発端に、バルカン半島・ヨーロッパ列強国間での戦争が開始、第一次世界大戦は引き起こされてしまいました。

ヨーロッパの火薬庫に関するまとめ

ヨーロッパの火薬庫について解説してきました。ヨーロッパの火薬庫とは、当時のバルカン半島の危険な情勢を表した言葉だったのですね。

バルカン半島の多民族が入り混じる土地柄や、独立運動の最盛期が重なったことが契機となって、情勢が悪化していってしまったのです。さらに近隣のヨーロッパの列強がバックについてしまったことも、バルカン半島に影響を与えていました。

筆者もこの記事を執筆するにあたって、バルカン半島についてさらに理解を深められました。バルカン半島では、未だ民族間の争いが起こり、戦争が終結していません。

この記事を読んで、ヨーロッパの火薬庫やバルカン半島について、知っていただけますと幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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