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ヨーロッパの火薬庫(バルカン半島火薬庫)とは?歴史やその後の情勢を解説

「ヨーロッパの火薬庫ってなに?」
「どうしてヨーロッパの火薬庫と呼ばれるようになったの?」

列強諸国の対立戦争に巻き込まれたバルカン半島。立て続けに起こった小国の独立や、植民地戦争によりヨーロッパの火薬庫と呼ばれるほど、戦禍渦巻く土地となりました。

この記事ではヨーロッパの火薬庫の概要を解説し、そう呼ばれるようになった経緯、ヨーロッパの火薬庫が与えた影響などについてもご紹介していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

ヨーロッパの火薬庫とは?簡単に概要を解説

バルカン半島

ヨーロッパの火薬庫とは、20世紀初頭のバルカン半島の情勢を指した言葉です。他民族が入り混じる土地で、列強諸国が干渉しやすい位置にあったことで、多くの火種を生みました。

19世紀までバルカン半島はオスマン帝国が支配していました。しかし国内政治が停滞するに伴って、国力は弱体化していきます。

国力の低下に伴って、オスマン帝国内部から反乱が起き、さまざまな民族が独立を要求しました。独立戦争に近隣の列強国が手を貸したことで、バルカン半島の情勢は一触即発となっていったのです。

ヨーロッパの火薬庫と呼ばれるようになった経緯

現在のボスニア・ヘルツェゴヴィナ

1878年のベルリン条約

当時バルカン半島を支配していたオスマン帝国は、ロシアとの戦争に敗れバルカン半島に侵攻してきます。これに対し、バルカン半島に接するオーストリア=ハンガリー帝国とイギリスが強く反発したことで、両者の間は戦争の危機へと発展しました。

ベルリン会議の様子

そこでドイツ帝国が調停に乗り出し、ベルリン会議が開催、そして1878年にベルリン条約が締結されました。このベルリン条約では以下の4点が取り決められました。

  • オスマン帝国領のルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立を認める
  • ブルガリアは1/3の領土にする代わりに、自治国としての統治を認める
  • オスマン帝国領のボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアの行政権が認められる
  • オスマン帝国領のキプロス島はイギリスの行政権が認められる

オスマン帝国の衰退と小国の独立

露土戦争

露土戦争で敗北し、ベルリン条約によってオスマン帝国領は大幅に縮小・弱体化したことで、オスマン帝国は衰退の一途を辿りました。内政の混乱も続き、かつてのオスマン帝国の姿はそこにはなく、列強諸国からは「瀕死の病人」と揶揄されるほどでした。

オスマン帝国「瀕死の病人」を揶揄した風刺画
出典:Wikipedia

ベルリン条約によりバルカン半島では小国が独立していきます。この独立によって、国境をどこに定めるかということが問題になり、それが国同士の対立を深めていくことになりました。

オスマン帝国の弱体化

疲弊したオスマン帝国

パン・スラヴ主義

アルフォンス・ミシャ画『故郷のスラヴ人』

先のベルリン条約において、バルカン半島の領地を獲得できなかったロシアは、バルカン半島内のスラヴ系民族に目をつけます。彼らが独立のために動き出しているところを擁護し、後ろ盾になったのです。

これをパン・スラヴ主義と呼びます。現在におけるセルビアがスラヴ系の国家にあたります。

パン・ゲルマン主義

当時の列強諸国の関係性

この動きに感化され、オーストリア=ハンガリー帝国がゲルマン民族の統合を図ろうと呼びかけます。これをパン・ゲルマン主義といいます。

パン・スラヴ主義とは対立した動きを見せました。パン・ゲルマン主義の後ろ盾となっていたのはドイツ帝国です。

1908年:青年トルコ革命

青年トルコ革命の様子

オスマン帝国内で、近代化を目指して革命が発生します。これを「青年トルコ革命」と呼び、この運動によってオスマン帝国内の混乱はさらに強くなっていきました。

革命によって、ブルガリアは完全に独立します。さらに混乱に乗じて、オーストリア=ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合しました。

この動きに対し、周囲の列強国はオーストリアを批判します。特にバルカン半島を狙っていたロシアは強い怒りを示し、バルカン半島の緊張は高まっていきました。

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1 COMMENT

匿名

ありがとうございました。
うーん、今はどうなっているのかなぁ、と思って探していました。平和になったのですかね。
昔CNNで毎日の様にクロアチアの観光宣伝をしていて、元妻が行きたいとか言いましたが、壁とかにデカい銃痕がたくさんあったりしたらイヤだな、と思って行きませんでした。
セルビア系アメリカ人が「小学生の時にはセルビア人と結婚すると思っていて、実際にセルビア人と結婚した」と言っていました。いや、そこまでこだわりがあるんだ、と思いました。なんかイメージが民族浄化だったので、うーん、でしたが、その人物は温厚でしたね。
フランス人女性と飲みに行って、お前の旦那はモンテネグロ人だからセルビア人が勤勉で真面目なのを知っているだろう?と私にそうだと言わせようとしましたが、シカトされていました。

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