小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

世界で最も悲惨な戦争「独ソ戦」とはどんな戦争?【戦争の理由や経緯、特徴やその後の影響まで紹介】

「独ソ戦ってなに?どのような戦争?」
「独ソ戦はなぜ起きて、結果はどうなったの?」

この記事にたどり着いたあなたは、このようにお考えではないでしょうか。独ソ戦は、第二次世界大戦中にドイツとソ連の間で起きた戦争で、ヒトラーのロシアに侵攻してドイツの植民地にしようという野望によって起こりました。

独ソ戦は、20世紀を代表する独裁者である「ヒトラーとスターリン」の直接対決です。このときソ連に占領された国は戦後に共産主義国になり、独ソ戦は冷戦にも影響を及ぼしています。

第二次大戦時のヨーロッパ

4年あまり続いた独ソ戦は、人類史上最大規模の地上戦といわれており、死者の数は3000万人以上。これが独ソ戦を史上最悪の戦争という理由です。

ヨーロッパ史においては重要な出来事だった独ソ戦ですが、日本ではそれほど馴染みがないですよね。そこでこの記事では、独ソ戦の特徴や開戦の経緯、戦後への影響や年表などを紹介していきたいと思います。

独ソ戦とはどんな戦争だったのか?

独ソ戦の戦場

独ソ戦を一言で表すなら、「史上最悪の戦争」という言葉が当てはまります。第二次大戦中の1941年6月から1945年5月まで、約4年にわたって繰り広げられました。

ドイツでは第二次大戦の戦域の1つとして「東部戦線」と呼ばれ、ソ連ではナポレオンのロシア侵攻を指す祖国戦争をさらに上回る戦争として、「大祖国戦争」と呼ばれました。

独ソ戦は、ドイツによるソ連侵攻をきっかけにはじまったもので、ヒトラーとスターリンという20世紀を代表する2人の独裁者が激突した戦争でした。ロシアをドイツの植民地にし、ロシア人を奴隷化するというヒトラーの特殊なイデオロギーのもと、多くの残虐な行為も行われ「絶滅戦争」「収奪戦争」ともいわれます。

独ソ戦には、ドイツ、ソ連だけでなく、その同盟国や支配地域など多数の国と地域の人々が参加しました。軍人や民間人などすべてをあわせた死者数は3000万人以上といわれ、人類史上最悪の戦争といえます。

独ソ戦ならではの特徴とは?

ヒトラーとスターリン、2人の独裁者の戦い

ヒトラー(左)とスターリン(右)

独ソ戦は、ナチスドイツのアドルフ・ヒトラー、ソビエト連邦のヨシフ・スターリンという、20世紀を代表する2人の独裁者の直接対決となった戦争です。独ソ戦が起きる大きな要因となったのが、ヒトラーによるロシア征服の野望でした。

2人とも強い権力をもっていたと同時にクセの強い人物で、独ソ戦では軍の動きに口を出すことも多くありました。そのために、独ソ両軍はしばしば軍事的合理性に反する行動をとることがあり、その結果、無用な犠牲を出すことになったのも独ソ戦の1つの特徴といえるでしょう。

独ソ戦はドイツとソ連によるやるかやられるかの戦いで、この戦争がなければ2人の独裁者はさらに長くその座にとどまっていたことでしょう。

3000万人を越える膨大な犠牲者

戦争で破壊されたソ連の街

独ソ戦の2つめの特徴は、「人類史上未曾有の犠牲者を出した戦争」です。ドイツ軍の死者は390万人、ルーマニア・ハンガリーなど枢軸同盟軍の死者95万人、ソ連軍の死者1200万人。

さらに民間人の死者が1500万人ほどとされ、合計の犠牲者はで3000万人以上になります。民間人の死者に関しては正確な数字もわかっていません。単純計算すると、独ソ戦の期間中、1日当たり2万人の死者が出ていたことになります。

特に、ソ連の軍人・民間人をあわせた死者数が2000万以上で、兵役に当たる20代男性の3人に1人が死亡。ソ連の死者数は、第二次大戦のすべての交戦国のなかで最も多く、歴史上すべての戦争・紛争の中で最も多い死者数となっています。

これを、第二次大戦における日本の死者数と比較すると、日本の死者数は軍人230万人、民間人80万人となっています。これと比べると、独ソ戦の死者数が文字通り桁違いであることがわかります。

ロシアの絶滅を目的とした戦争であった

民間人の処刑を行うドイツ兵

ヒトラーにとっての独ソ戦の目的は、通常の戦争のように軍事力によって相手国を屈服させ、外交問題を解決するというものではなく、豊富な資源と農地をもつロシアを、「生存圏」としてドイツの植民地にすることでした。

そして、劣等人種とみなしていたロシア人は奴隷にするか、役に立たない者や邪魔になる者は殺害することになっていました。

東部戦線には、占領地からの略奪や住民の殺害を行う特別行動隊(アインザッツグルッペン)も存在し、多数の民間人がドイツ軍の手によって殺害され、ドイツの容赦のない態度が戦争の犠牲者を増大させました。

ソ連は団結し、パルチザンが活躍

ソ連のパルチザン

独ソ戦では、ロシア人のレジスタンス活動であるパルチザンが活発に行動し、ドイツ軍の活動を妨害していました。パルチザンとは、ドイツに降伏することを拒んだ元ソ連兵や、ドイツ軍の支配に反発する民間人が武器をとったものです。

ソ連国内に共産主義やスターリンの独裁体制に反感をもっている人々もたくさんいました。しかし、ドイツ軍の占領政策があまりにもひどかったため、多くのロシア人は戦争に自発的に協力するようになり、ドイツ占領地の住民からも多くのパルチザンが生まれていきました。

ドイツの侵攻は、ドイツの考えに反して、ロシア人のナショナリズムを呼び覚ます役割を果たしました。ドイツ軍が取り締まろうとすればするほど、余計にロシア人は団結し、ドイツに抵抗するようになっていきました。

独ソ戦の開戦までの経緯

独ソ不可侵条約を結ぶ

独ソ不可侵条約に調印するソ連外相モロトフ

独ソ戦が起こる前、ドイツとソ連はお互いの利害の一致により、不可侵条約を結んでいて外交的には友好関係にありました。ヒトラーは反共産主義を掲げていたため、独ソ不可侵条約締結のニュースは世界に衝撃を与えました。

ヒトラーがこの条約を結んだ目的は、当時標的にしていたポーランドに手を出すと、英仏との戦争が起きると予想されたため、ソ連と同盟を結んで背後の安全を確保することでした。

一方、スターリンも、英仏の宥和政策がドイツを抱き込んでソ連にけしかけるためではないかと疑っていました。そこで、ドイツとの戦争を回避し、英仏の思惑通りにさせないため、スターリンもこの条約を結んだのです。

ヒトラーの野望だったロシア征服

ヒトラーの著作「我が闘争」

ロシアの広大な土地を征服して植民地帝国を築くことは、ヒトラーのかねてからの野望でした。ドイツ民族が将来にわたって繁栄するため、豊富な資源と食料をもつ「生存圏(レーベンスラウム)」としてロシアを手に入れる必要があるというのがヒトラーの考えだったのです。これは、著書である『我が闘争』にも書かれていて、ヒトラーはロシア征服のチャンスを狙っていました。

第二次大戦がはじまって約1年が経過した1940年夏、ドイツ軍はヨーロッパの大部分を絵占領下におさめていました。最大のライバルだったフランスも降伏し、あとは海の向こうのイギリスが抵抗を続けているのみで、周囲に敵はいません。

さらに、ソ連赤軍では大粛清によって多くの優秀な人材がいなくなり、冬戦争での無様な戦いぶりのように、弱体化しているのが誰の目にも明らかでした。この状況をみて、最大のチャンスが巡ってきたと考えたヒトラーは、ソ連侵攻を決意するのです。

ドイツ軍のソ連侵攻計画とは

作戦会議を行うヒトラー

ドイツ軍が作成したソ連侵攻計画「バルバロッサ作戦」は、かなり甘い予測に基づくものでした。これは、独ソ戦を長期化させドイツを破滅させる原因にもなります。

独ソ戦はヒトラー個人の野望によって引き起こされたといわれることもありますが、ドイツ軍内部には以前から、ソ連に侵攻して潜在的な脅威を排除しようという考えがあり、多くの将軍たちもヒトラーの考えに賛同していました。

作戦名になっているバルバロッサとは、ドイツの英雄である新生ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世の通称「赤ひげ」のことです。

ドイツ軍は北方軍集団・中央軍集団・南方軍集団の3つに分かれてソ連への侵攻。アルハンゲリスクとアストラハンを結ぶA・Aラインを最大進出線として、それより西でソ連軍の主力を殲滅する作戦でした。ですがこの作戦は、ソ連の戦力を過小評価したり補給計画が杜撰であったりと問題の多いものでした。なにより最大の問題点は、ソ連の首都モスクワを占領するかどうかが明確に決定していなかったことでした。

ソ連赤軍は大粛清で弱っていた

大粛清の犠牲者になったミハイル・トハチェフスキー元帥

この時期のソ連軍が大粛清によって大きく弱体化しており、ヒトラーにソ連との戦争を決意させる原因にもなりました。大粛清とは、1937年からはじまったスターリンによる校内の大規模な弾圧のことをいいます。

独裁体制を築いてからも、スターリンは周囲の人間に対する不信感を無くすことができずにいました。強迫観念に駆られたスターリンは、秘密警察を使って、共産党幹部や官僚、軍人たちを次々と逮捕・処刑していきます。ソ連軍では、ミハイル・トハチェフスキー元帥のような優秀な軍人を含む3万人以上が犠牲になりました。

軍を指揮する優秀な将校がいなくなってしまったソ連軍は、1939年のフィンランドとの冬戦争で大きな損害を出しています。さらに、独ソ戦序盤でもドイツ軍に手も足も出ず、大きな損害を出すことになりました。

独ソ戦開戦にまつわる謎・秘密

独ソ戦最大の謎「スターリンが警告を無視した理由」

ソ連の独裁者ヨシフ・スターリン

独ソ戦最大の謎とされるのが、なぜスターリンは開戦直前にあった、ドイツの侵攻を知らせる予兆を無視して、みすみす侵攻を許すようなことをしたのかということです。

スターリンのところには、国境の部隊や海外のスパイから毎日のようにドイツの侵攻計画を知らせる警告が送られていましたが、何の対策もとろうとはしませんでした。

ソ連は先にドイツを攻撃しようとしていた?

独ソ戦勃発前 1930年代のソ連軍

奇襲を許した理由として、実はこの時、ソ連もドイツに対して侵攻を企てていたからといわれたこともあります。

スターリンの目的はヒトラーを利用してヨーロッパの秩序を破壊することで、弱った欧州諸国を征服して共産主義国に変えるつもりでした。ソ連軍が序盤で大打撃を受けたのは、軍に攻撃態勢をとらせていたのでドイツ軍の攻撃に対処できなかったからです。

しかし、実際はソ連が先制攻撃を計画していた痕跡はなく、ソ連軍は大粛清のダメージから立ち直ろうとしていたところでした。とても他国に侵攻する余裕はありませんでした。そのため、この説は現在では誤りとされています。

スターリンを欺いたヒトラーの秘密書簡

ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー

ほかには、ヒトラーからスターリン宛てに送られた秘密書簡によって、スターリンがヒトラーのことを完全に信用しきっていたからともいわれます。

この書簡には、「国境にいるドイツ軍はイギリスを攻めるための部隊で、イギリスの空襲を避けるためポーランドに集結しているのだ」ということや、「ドイツの将軍たちのなかには、ソ連との戦争を望む者もいるので、戦争の口実を与えないため、どんな挑発も無視してほしい」といったことが書かれていました。側近のジューコフ将軍によると、スターリンはこの書簡をかなり信頼していたそうです。

この書簡には偽文書ではという見方もありますが、スターリンは開戦直前まで軍に「ドイツの挑発には乗るな」という指示を出していたため辻褄が合います。もし秘密書簡の存在が事実なら、独ソ戦直前のスターリンは、完全にヒトラーの掌で踊らされていたといえます。

人肉食が行われた街

包囲下のレニングラード

戦争中、ドイツ軍によって長らく包囲されていたレニングラードでは、深刻な食糧不足が起こり、人肉食まで行われたといわれます。

ソ連の北の大都市だったレニングラードは900日近くにわたって包囲され、市内には多くの市民も取り残されていました。市民たちを特に苦しめたのが食糧の不足で、特に肉はほとんど手に入りませんでした。

そのため、レニングラードでは、道端の死体の肉を食べる者が出たり、人肉を売る店まで出現したといわれます。子供の肉は柔らかくて特に美味しかったとされ、街では子供の誘拐が多発したということです。

独ソ戦はティムールの呪いだった!?

ティムールの肖像画

独ソ戦に関する伝説の一つに、独ソ戦はティムールの呪いによって引き起こされたというものがあります。ティムールは、自らチンギス・ハンの子孫と称し、14世紀に中央アジアやイランと中心とした広大なティムール帝国を築きました。

開戦直前、ソ連ではティムールの墓の発掘調査が行われていました。ティムールの棺は、ソ連の一部だったウズベク・ソヴィエト社会主義共和国サマルカンドの「グーリ・アミール廟」に奉られていました。ティムールの墓を暴くと、世界に災いをもたらす呪いが降りかかるという言い伝えがあって、棺には「墓を暴いた者は、私よりも恐ろしい侵略者を解き放つだろう」という文字が刻まれていました。

そして、発掘調査が開始された1941年6月21日の翌日、ドイツ軍の侵攻がはじまったのです。独ソ戦の転換点となったスターリングラードの戦いにソ連が勝利できたのは、直前に再びティムールの棺を埋葬して呪いがおさまったためともいわれます。

独ソ戦に対して日本が起こした行動

日独伊三国同盟を結ぶ

日本で行われた日独伊三国同盟締結の祝賀行事

第二次大戦中、日本とドイツ、イタリアの三国は同盟関係を結んでいました。日本陸軍にとってソ連は以前からの仮想敵国だったため、日本にとって独ソ戦は、同盟国と仮想敵国同士の戦争でした。日本もドイツに協力してもよさそうに思えますが、独ソ戦は日本にとって少し困った出来事でした。

日本がドイツに接近したのは、反共産主義のヒトラーと手を結んでソ連を牽制しようとしたためです。しかし、独ソ不可侵条約の締結によってその思惑は崩れます。

そこで今度は、日ソ中立条約を結び、ソ連を三国同盟に引き入れようとしました。日独伊ソの四国同盟により、アメリカを牽制しようとしたのです。ところが、独ソ戦の勃発により、またも日本の思惑は裏切られることになります。

関東軍特種演習でソ連を牽制

関東軍特種演習

独ソ戦が起きると関東軍特種演習という大規模な動員を行います。関東軍はソ連との戦争を望んでおり、関特演も実際は対ソ戦の為の準備でした。ドイツの侵攻を見て、国内では日本もこの機会にドイツとともにソ連を攻撃するべきだという議論が起こります。

ですが、この頃日本は資源を求めて東南アジアへ進出する方針を決めていたため、ソ連との戦争が起きることはありませんでした。日本で活動していたソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲは日本が北進を断念したという情報をモスクワへ送ります。

これを見たスターリンはシベリアの部隊を転戦させてモスクワ防衛に投入することができました。そのため、関東軍特種演習のソ連に対する牽制効果は限定的でした。

上手くいかなかった独ソ和平工作

独ソ和平工作を推進したとされる石原莞爾

日本にとって理想の展開は、ソ連を枢軸に引き入れ四国同盟によってアメリカやイギリスに対抗することだったため、独ソ戦は厄介な問題でした。太平洋戦争開始後、元関東軍参謀の石原莞爾が推進して、何度か、日本を仲介役にしたドイツとソ連の講和が計画されます。

1942年には、ドイツに和平仲介を提案するための代表使節団として、陸軍の山下奉文、海軍の山本五十六らを派遣する計画もありました。しかし、日本の動きを察知したドイツは、ソ連との講和を拒絶します。

結局、独ソ和平工作も四国同盟構想は最後まで実現することはありませんでした。このように、日本にとって独ソ戦はほとんどメリットのない戦争だったといえます。

独ソ戦の結末と影響

独ソ戦の勝敗は、ソ連の勝利に終わる

ベルリンの国会議事堂に掲げられる赤旗

独ソ戦は当初、ドイツ軍有利に進みました。しかし、南部の工業地帯占領を優先したドイツ軍は冬将軍の訪れによってモスクワ攻略に失敗。翌年のスターリングラードの戦いでは、包囲されたドイツ軍が降伏して大敗し、戦局は徐々にソ連有利になっていきました。

1943年、クルスクの戦いで敗北したドイツ軍は完全にイニシアティブを失い、ドイツに侵略された国土を取り戻したソ連軍は、今度はドイツ本土へと侵攻します。1945年5月、ドイツの首都ベルリンがソ連軍の手によって陥落し、独ソ戦はソ連の勝利に終わりました。直後、ドイツは連合軍に対して降伏し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦も終結します。

この頃ドイツは連合軍によって西からも侵攻を受けていましたが、ベルリンを落としたのは、アメリカやイギリスではなくソ連軍でした。ヨーロッパにおける第二次大戦は、実質的に独ソ戦によって終結したといえます。

ドイツが勝てる方法はあったのか

ソ連に侵攻するドイツ軍

独ソ戦でドイツに勝つチャンスはあったか、という問いの解答として、よくいわれるのが最初にモスクワを攻略しておくべきだったというものです。

戦後、ドイツの将軍たちの多くは、ヒトラーが軍をキエフに転進させず、早めにモスクワ攻略を行っていれば、ドイツが負けることはなかったと主張しました。ですが、モスクワが陥落してもソ連が降伏するという保証はありません。

さらに、独ソ戦の期間中、ソ連の軍事生産力はドイツを上回っていました。1943年以降は、ウラル山脈の西に疎開していた工場が本格的に操業をはじめ、ソ連の軍事生産はさらに向上していきます。工業力の面からみれば、戦争が長引くほど独ソのパワーバランスはソ連有利になっていきます。

時間が経つほど自国優位になるのであれば、モスクワが陥落してもソ連が降伏する可能性は低いでしょう。短期的にも、長期的にも、ドイツが独ソ戦に勝利できる可能性はほぼなかったといえます。

戦後にも影響を与えた独ソ戦

冷戦下のヨーロッパ

独ソ戦の影響は戦後にもおよび、独ソ戦の結果によって冷戦時代のソ連の勢力圏が決まりました。戦後、ソ連の勢力圏となった東側の共産主義諸国は、独ソ戦後半にソ連軍によって占領された国々でした。ソ連も、戦争終盤になると戦後を見据えて戦略を立てるようになっています。

戦域がソ連の領土外に移るバグラチオン作戦からは、ドイツの同盟国となっている東欧諸国を占領することで、これらの国々を共産主義化することも考えられるようになりました。ドイツの同盟国の中には、ルーマニアのように途中からソ連とともに戦い、戦後は共産主義国家になった国もあります。

敗北したドイツでは、ヒトラーの死によってナチスドイツ政権が崩壊し、連合軍の占領下の置かれることになります。ドイツは、1989年にベルリンの壁崩壊が起こるまで、西ドイツ・東ドイツという2つの国家に分かれることになりました。

独ソ戦の年表

1939年「独ソ不可侵条約とポーランド侵攻」

ポーランド戦終了後に握手を交わす独ソの将校

1939年8月24日、ドイツとソ連との間で独ソ不可侵条約が結ばれました。それまで敵対しあっていた2国の接近は世界中を驚かせます。

この条約には、秘密条項としてポーランドの分割やバルト三国をソ連の勢力下とすることが決められていました。9月にドイツがポーランドへ侵攻して第二次大戦がはじまると、ソ連軍は東からポーランドへ攻め込みました。

この時はポーランドで握手を交わした独ソ両軍ですが、急ごしらえの同盟関係は長続きせず、やがて独ソ戦の勃発によって終わりを迎えることになります。

1939年「フィンランドとの冬戦争でソ連軍の弱体化が明らかに」

冬戦争のフィンランド軍

冬戦争は、ソ連の領土要求が原因となり、1939年11月にソ連とフィンランドの間で起きた戦争です。結果自体はソ連の勝利に終わりました。しかし、当時、世界屈指の軍事力を誇っていたソ連が小国のフィンランド相手に、5倍の損害を出すという大苦戦を強いられました。

大粛清によってソ連赤軍が弱体化していることは明らかで、これを見たヒトラーに今がソ連を倒すチャンスだと思わせ、独ソ戦勃発の一員となりました。

1940年「ドイツのソ連侵攻を遅らせたバルカン侵攻」

枢軸軍のユーゴスラビアへの侵攻経路

独ソ戦に先立ち、ドイツは侵攻作戦の拠点と補助戦力にするため、バルカン半島の国々と軍事同盟を結んで枢軸国に取り込んでいきました。

そのうち一つのユーゴスラビアでクーデターが発生し、枢軸同盟からの離脱を宣言したばかりか、ソ連との同盟まで結んでしまいます。ソ連侵攻に支障が出ると考えたドイツはユーゴスラビアへの侵攻を行うと、さらに、南のギリシャも占領してしまいます。バルカン半島からドイツに反抗する国は一掃されました。

ですが、このためにバルバロッサ作戦は、丸1か月遅れることになりました。この遅れは、後々、冬の到来という形で独ソ戦に響いてくることになります。

1941年「バルバロッサ作戦により独ソ戦が開始」

ソ連へ侵攻するドイツ軍

1941年6月22日午前3時15分、300万を超えるドイツ軍の奇襲攻撃により独ソ戦がはじまりました。史上最も有利な進攻軍といわれたドイツ軍は破竹の勢いでソ連領内へ侵攻。白ロシアの首都ミンスクやスモレンスクを次々に陥落させ、北ではレニングラードを包囲。ソ連の敗北は時間の問題に見えました。

ですが、ソ連軍が予想以上に激しい抵抗を見せたことや舗装された道路が少なく補給が上手くいかなかったことからドイツの計画は徐々に狂い始めます。

さらに、ヒトラーが南部の工業地帯占領を優先させたため、モスクワ攻略が一か月遅れることに。ドイツ軍はウクライナの首都キエフを占領しますが、この遅れはドイツにとって致命的なものになりました。

1941年「失敗に終わったドイツ軍のモスクワ攻撃」

タイフーン作戦

10月2日、モスクワ攻略「タイフーン作戦」がはじまります。モスクワ戦は最初順調に進みました。しかし、冬将軍といわれるロシアの厳しい冬が到来すると、ドイツ軍の進撃は停滞していきます。冬までに決着をつけるつもりでいたドイツ軍は、零下40度の極寒の中で、夏用の薄い軍服のまま戦っていました。

それでもドイツ軍はモスクワまで30キロの距離に迫り、最大進出地点に到達した部隊は、赤の広場にあるクレムリンの尖塔を遠望することができました。しかし、補給不足と疲労によりドイツ軍の前進は限界に達していました。

こうして、短期間でソ連を打ち負かすというドイツ軍の侵攻計画はモスクワを目前にして挫折したのです。

1941年「ソ連軍の冬季大反攻」

ソ連軍の冬季攻勢

ドイツ軍の息切れをみたソ連軍は、大規模な反攻作戦を開始。スターリンはこの機会にドイツ軍を徹底的に叩くよう命じます。ソ連軍にはまだ大反撃を行う余力はなく、ジューコフら部下たちは反対でした。ですが、ドイツ軍は崩壊寸前と信じていたスターリンにより、大反攻作戦が強行されます。

焦ったヒトラーは、退却を禁止する「死守命令」を出しました。その頃、ソ連軍では将軍たちの心配通り、戦力の消耗により攻撃力は急激に鈍り、今度はソ連軍が息切れを起こし冬季大反攻は尻すぼみに終わります。

ドイツ軍が崩壊を免れたのは死守命令のおかげと勘違いしたヒトラーは、以降、戦局が不利になるほど無謀な死守命令を繰り返すことになります。

1942年「ドイツ軍二度目の快進撃となったブラウ作戦」

ブラウ作戦によるドイツ軍の進撃

バルバロッサ作戦の失敗で短期決着構想が崩れたドイツは、翌年、長期戦を意識したブラウ作戦を計画します。

ブラウ作戦で広大なロシアを進撃するドイツ軍

ブラウ作戦の目標は、ソ連南部コーカサスにある油田地帯です。ここには産油量世界最大のバクーや、グロズヌイ、マイコプといった油田が集中していました。5月にブラウ作戦が発動されると、ソ連がドイツの目標をモスクワだと見誤っていたこともあり、進撃は順調に進みました。

ドイツ軍は、コーカサスの大部分を占領しますが、南部ではソ連軍の激しい抵抗に遭って進撃が滞ります。広大なコーカサスでは補給も十分には届かず、ドイツ軍による油田地帯の占領は不可能になってしまいました。

1942年「独ソ戦の転換点となったスターリングラードの戦い」

スターリングラード市街戦

ブラウ作戦の停滞をみて焦ったヒトラーは、ヴォルガ河沿いの都市スターリングラードの占領を命じました。スターリンの名前のついた街を占領すれば、世界中に大きな宣伝効果が期待できます。独ソ両軍は激しい戦闘を展開し、ドイツ軍は街の9割を占領します。

スターリングラードのドイツ軍指揮官フリードリヒ・パウルス元帥

しかし、11月19日、ウラン(天王星)作戦を発動したソ連軍は、同盟国が守っている弱い戦線を突破し、スターリングラードを攻撃していたパウルス上級大将のドイツ第6軍を包囲することに成功します。

パウルスがヒトラーの死守命令を守ったことで救出作戦も失敗し、1月31日、第6軍は降伏。無敵ドイツ軍の大敗北は世界に衝撃を与え、スターリングラードの戦いは独ソ戦の転換点になりました。

1943年「第三次ハリコフ戦で逆転に成功したドイツ軍」

第三次ハリコフ戦のドイツ軍

勢いに乗るソ連軍は、ブラウ作戦で占領された地域のほとんどをドイツから奪い返します。しかし、ドイツ軍でもマンシュタイン元帥の指揮下で戦線の立て直しをはかっていました。

第三次ハリコフ戦を成功に導いたマンシュタイン元帥

マンシュタインは「後手からの一撃」といわれる反撃を計画。戦略的撤退によってソ連軍を戦線の奥深くへと引き込み、補給線が伸びきったところで一気に反撃をかけました。ドイツ軍は総崩れになっていると考えていたソ連はまんまと罠にはまります。

第三次ハリコフ戦はドイツの勝利に終わり、ハリコフを再占領することができました。ドイツ軍はブラウ作戦開始時点の占領地のほとんどを取り戻すことができ、戦線は再び1942年春の状態へと戻りました。

1943年「史上最大の戦車戦 クルスクの戦い」

クルスクの戦い

1943年7月、ドイツ軍はクルスク奪還を目的としたツィタデレ(要塞)作戦を発動します。スターリングラードの敗北による衝撃で、枢軸同盟国の離反を恐れたドイツは、マンシュタインもさらなる攻勢を望んだこともあり、クルスク奪還作戦を計画。

クルスクの戦いは、両軍あわせて6000両の戦車が激突する史上最大の戦車戦となりました。失敗を許されないドイツ軍が何度も作戦を延期したため、攻撃を察知したソ連軍側は入念な準備を整えることができました。

ドイツ軍は北と南の2方面からクルスクを目指しますが、ソ連軍の激しい抵抗の前にクルスクを占領することはできず、連合軍のシチリア島上陸を受けてツィタデレ作戦は中止されました。

1943年「ウクライナの戦いで敗北を重ねるドイツ軍」

ウクライナの戦いにおけるドイツ軍

クルスクの戦いに勝利し、ドイツ軍乾坤一擲のツィタデレ作戦を頓挫させたソ連軍は、完全に独ソ戦の主導権を握りました。勢いに乗るソ連軍は各地の戦線で大攻勢を開始します。

まず目標となったのはウクライナのドイツ南方軍集団でした。第四次ハリコフ戦でハリコフを奪還すると、逃げるドイツ軍を追ってドニエプル河を渡ります。11月にはウクライナの首都キエフを解放。

南方軍集団は、コルスン包囲戦とフーベ包囲戦で2度もソ連軍による大規模な包囲に遭って大打撃を受けました。指揮官のマンシュタインも退却を許さないヒトラーと対立して更迭され、ドイツ軍はウクライナから駆逐されてしまいます。

1944年「ソ連軍の大攻勢 バグラチオン作戦」

バグラチオン作戦でのソ連軍の進撃

ウクライナを奪い返したソ連軍は、レニングラードの包囲を解き、さらにクリミア半島も解放します。北と南を片付けたソ連軍の次の目標は、白ロシアの中央軍集団でした。

中央軍集団は、これまで大きな戦いもなく戦力を温存しており、ソ連にとっても手強い相手でした。ソ連軍は兵力250万人、戦車6000両、大砲45000門、航空機7000機という大攻勢バグラチオン作戦を準備します。

バグラチオン作戦で進撃するソ連軍

バグラチオン作戦は、ノルマンディー上陸作戦を上回る規模でした。中央軍集団の兵力は70万でしたが、ソ連の攻撃がはじまると戦線は崩壊。7月には白ロシアの首都ミンスクが奪還され、ドイツ軍はソ連領内から追い出されます。戦線はポーランドへ後退し、独ソ戦前の状態に戻りました。

1944年「脱落するドイツの同盟国」

ルーマニアの首都ブカレストに入城するソ連軍

バグラチオン作戦の成功によって、もはやドイツの勝ち目がないことが明らかになると、ドイツの同盟国では、枢軸から離脱する動きが起こります。

もともとこれらの国は、ドイツの勝利すると考えて同盟を結んでおり、独ソ戦がドイツの勝利で終わった後、協力した見返りがもらえることを期待していたのです。

最初に脱落したのは、東欧のルーマニアです。ソ連軍が本土に侵攻を開始すると、ルーマニアはソ連と講和した上、今度はソ連と同盟を結び、ドイツと戦いはじめました。さらに、同じく東欧のブルガリア、冬戦争での失地を奪還するためドイツと手を結んでいた北欧のフィンランドも相次いで枢軸陣営から脱落していきました。

1945年「ハンガリーで最後の反撃を行うドイツ軍」

春の目覚め作戦でのドイツ軍戦車部隊

ドイツの同盟国のうち、ハンガリーだけは最後まで一緒に戦い続けることになりました。ソ連軍はハンガリーにも容赦なく侵攻し、首都ブダペストは包囲されて7万のドイツ・ハンガリー連合軍が壊滅します。4月にはハンガリー全土がソ連軍の手に落ちました。

ハンガリーは石油やボーキサイトを産出するドイツにとって大切な資源国でした。ハンガリーを守るため、ヒトラーはドイツ軍最後の攻勢となる春の目覚め作戦を発動。

将軍たちは、首都ベルリンを守るための強力な戦車部隊をハンガリーに差し向けることに反対しますが、戦争経済を重視するヒトラーは攻撃を断行。ですが、すでにドイツ軍に攻撃力は残されておらず作戦は失敗に終わりました。

1945年「ベルリンが陥落して独ソ戦が終わる」

ソ連軍の攻撃で破壊されたベルリンの国会議事堂

1945年1月から、ソ連軍はポーランド、東プロイセンを占領し、首都ベルリンまで目前のところに迫っていました。4月上旬にオーデル川を渡ったソ連軍は、4月24日にベルリンを包囲します。

脱出を拒否したヒトラーは、ベルリンで最後を迎えます。4月26日からベルリンへの本格的な攻撃が始まりました。4月30日、ヒトラーは総統地下壕で愛人のエヴァ・ブラウンとともに自殺を遂げます。

5月1日にはベルリンのドイツ軍が降伏し、ベルリンが陥落しました。5月8日にはドイツも連合軍に降伏し、約4年にわたった独ソ戦も集結しました。戦後のドイツは東西に分断され、連合軍の占領下に置かれることになります。

独ソ戦に関する関連作品

おすすめの本・書籍

[新版]独ソ戦史 ヒトラーvs.スターリン、死闘1416日の全貌 (朝日文庫)

独ソ戦の開戦前から終結までの一連の流れを解説する本で、独ソ戦初心者に最適な入門書です。内容は戦闘に関する記述が中心で、いつどのような戦いが起こり、どのような結果になったのかがよくわかります。

戦況図が豊富に載っているのも特色で、ロシアの地名はよくわからないという人でも理解しやすいでしょう。独ソ戦に興味がある人に最初に手に取ってほしい1冊です。

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

こちらも独ソ戦全体の通史を扱った本で、タイトルからもわかる通り、こちらのほうはドイツの行っていた絶滅戦争に関する記述が豊富です。

ドイツはどのようなイデオロギーをもっていて、独ソ戦をどのように捉えていたかを知りたい人におすすめです。戦闘の解説も、最新の学説をもとに書かれているので、独ソ戦史と読み比べてみるのも面白いかもしれません。

どくそせん

1941年から1945年までの5年間を5つの章に分けて、独ソ戦の戦いを解説している本です。表紙に美少女キャラのイラストが描かれているので、大丈夫なのかと心配になるかもしれませんが内容はしっかりとしていますし、戦闘に関する記述はむしろ上記2冊よりもマニアックです。

戦闘にスポットを当てた本なので、開戦の経緯など政治に関係する事柄の記述は少ないのですが、独ソ戦の戦史部分を詳しく知りたいという方におすすめの本です。

スターリングラード 運命の攻囲戦 1942-1943 (朝日文庫)

独ソ戦の転換点となったスターリングラードの戦いをテーマにしたノンフィクション。著者は第二次大戦に関する著作を数多く刊行して高い評価を受けており、この本も世界23か国で翻訳されたベストセラーです。

バルバロッサ作戦発動からスターリングラードでドイツ軍が敗北するまで、数多くの証言や個人の手紙、日記といった資料をもとにして、戦いの様子を克明に描き出しています。

当時の人々が何を考え、どのように戦っていたのか、詳しく知りたい方はぜひ読んでみてください。同じ著者の「ベルリン陥落」もおすすめです。

おすすめ映画

ヨーロッパの解放

ソ連時代に作られた戦争映画で、ソ連の一兵士の視点からクルスクの戦いからベルリン陥落までがソ連視点で描かれます。ソ連が国家事業として3年をかけて製作した超大作映画で、上映時間は驚異の7時間16分。

ソ連による宣伝映画という側面もあるため、ヒトラーやスターリンといった実在の人物も多く登場しますが、史実をそのまま描いたものではありません。それでも、独ソ戦の流れや、当時の戦闘の様子などがよくわかるため、独ソ戦に興味がある人には一度見てほしい作品です。

なお、パッケージのアニメキャラはただのコラボなので、本編には登場しません。

炎628

ヒトラーの絶滅戦争のもと、ドイツがロシアで行っていた残虐行為を描いた作品です。タイトルの628とは、現在のベラルーシにあたる白ロシアでドイツ軍によって燃やされた村の数を示しています。

物語はパルチザンに参加する主人公の視点を通して描かれ、ドイツ軍による村人の虐殺など凄惨なシーンもあるため、見るのに少し覚悟のいる映画です。ですが、独ソ戦の重要な側面を描いている貴重な映画ですし、パルチザンの活動についてもよくわかるので、興味のある人は一度見てほしい作品です。

独ソ戦に関するまとめ

今回は、第二次大戦中に起きたドイツとソ連の戦争である独ソ戦についてご紹介しました。

独ソ戦は、ヨーロッパの二大軍事大国の戦争というだけでなく、ヒトラーとスターリンという20世紀を代表する独裁者のぶつかり合いでした。独ソの衝突は、多くの国や人々を巻き込んで史上最悪ともいえる惨禍を引き起こしました。

独ソ戦の大きな特徴が、ヒトラー個人のイデオロギーが大きく影響を及ぼす絶滅戦争という特殊な性格をもっていたことで、多数の犠牲者を出した原因の一つにもなっています。

日本ではあまり知られていないかもしれませんが、戦後の国際情勢や冷戦にも影響を与えた重要な歴史的事件といえます。今後、再び人類にこのような惨禍が起こってほしくはないものですね。

コメントを残す