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【年表付】幕末とはどんな時代だった?歴史の流れ・出来事・人物まとめ

「幕末ってどんな時代だったのかな」
「流れや主な出来事、活躍した人を知りたい!」
「幕末の英雄たちは、相互にどのような関係だったのだろう」

幕末という言葉は、単に幕府の末期をあらわすだけでなく、さまざまな考え方の個性的な人物が活躍した時代でもありました。

日本史においては、戦国時代とならぶ混沌期のため、幕末をテーマに多くの小説や映画が生み出されてきました。

この記事では、日本史の中でも特に幕末を愛する筆者が、政治史を中心に幕末の流れを追いつつ、主要な人物や出来事にスポットをあててご紹介いたします。

幕末とはどのような時代か

幕末の幕開け

ひとことでいうと、日本の近世がおわり、近代がはじまったときで、江戸幕府の末期にあたることから「幕末」とよばれています。

日本史の時代区分については、幕藩体制の江戸時代(=近世)と、明治維新以後第二次大戦終結まで(=近代)、そして第二次大戦後から現在まで(=現代)と大まかに理解することができます。

この、近世の最終ステージである「幕末」のはじまりについては、一般に、1853(嘉永6)年のペリー来航と考えられています。また「幕末」の終わりについては、1867年の大政奉還時、1868年の江戸開城時、1869年の函館戦争終結時、1871年の廃藩置県実施時と諸説があります。

このわずか20年たらずの期間が「幕末」と呼ばれる時代です。この間、日本は文字通り国の大もとから激震が起こり、上は天皇・将軍から下は庶民にいたるまで、激動の二文字が吹きすさぶ乱世となったのでした。

以下では、まず政治史上のできごとと鍵となった組織・人物を概観し、文化史についても触れつつ、年表に沿ってできごとを追っていきたいと思います。

政治史上のできごと

ペリー来航

「ペリー来航」とは

ペリーが来航したことで、日本の歴史が動きはじめた

1853年7月、アメリカ海軍のペリー提督が軍艦(黒船とよばれる)4隻を率いて浦賀に来航した事件です。ペリーは大統領の親書を幕府側に手渡すと、琉球へと移動しました。そして翌1854年2月に再度、軍艦9隻を率いて横浜沖に迫り、日本に開国を求めました。

背景

当時、アメリカは採油のためさかんに捕鯨を行っていました。そうした漁船に必要となる燃料や食料の補給を行いたいという事情がありました。当初の開港地が下田(神奈川県)と函館(北海道)であったのはそうした事情によります。また、東アジアとの貿易ルートを確保したいとの思惑もありました。日本をそのための拠点としたいと考えていたのです。

結果、どうなった?

幕府は蒸気機関を積んだ軍艦(いわゆる黒船)という世界でも最新の技術を見せつけられ、ペリーの巧みな交渉術とつよい態度に圧倒され、日米和親条約に調印しています。この条約により、下田と函館の二港を開港することになります。また、1853年に大船建造の禁止が解かれ、1855年には長崎に海軍伝習所が設立されるなど、遅まきながら、日本は海軍建設をいそぐこととなりました。

安政の大獄

「安政の大獄」とは

安政の大獄で処刑された橋本左内

1858(安政5)年にはじまる、江戸幕府(大老・井伊直弼)による尊王攘夷派に対する厳しい弾圧をさします。弾圧の対象は水戸藩関係者が多く、徳川斉昭、徳川慶篤、一橋慶喜などは自邸での謹慎処分を受けてしまいます。また、鵜飼吉左衛門、吉田松陰、頼三樹三郎、橋本左内らは打ち首されるなど死刑に処せられました。

背景

朝廷と幕府の摩擦が遠因としてありました。1つは日米修好通商条約を勅許なく調印してしまったこと。もう1つは将軍後継問題で一橋慶喜が期待されていたところ、大老に就任した井伊直弼が紀州・徳川慶福を後継指名してしまったことです。これに対し、朝廷は水戸藩に攘夷を命じる「戊午の密勅」を下しますが、幕府の知るところとなり、厳しい弾圧へとつながりました。

結果、どうなった?

当時、すでに尊王攘夷は一般に知られた概念で「徳川家といえども天皇の臣下」とする考え方が在野世論を中心に育っていました。これは弾圧で抑え込めるようなものではなく、却って火に油をそそぐも同然でした。尊王攘夷派の憎しみを一身に集めてしまった井伊直弼は、桜田門外の変で排除されることとなります。

桜田門外の変

「桜田門外の変」とは

桜田門外の変を描いた絵画(月岡芳年・作)

1860(安政7)年3月、幕府の大老・井伊直弼が、江戸城桜田門外において水戸浪士を中心とする18名の襲撃をうけ、討ち取られてしまいました。

背景

大老・井伊直弼の専横が原因とされています。それには3つの出来事がありました。1つめは、日米修好通商条約の締結。2つめは、つぎの14代将軍を誰にするかという問題。朝廷をはじめ有力大名たちの多くは水戸の徳川慶喜を推していました。それにも関わらず、井伊直弼の強引な介入で紀州の徳川慶福(家茂)を次期将軍に据えてしまいます。そして3つめは反対派を弾圧した「安政の大獄」でした。

結果、どうなった?

ときの大老が白昼に暗殺されるという事件は、単に井伊直弼の理想とする老中や大老がリーダーとなってすすめる政治が失敗したというだけでなく、幕府の権威そのものを著しく失墜させることになりました。同時に、以後の尊王攘夷運動過熱の一大要因となります。

皇女和宮の降嫁

「皇女和宮の降嫁」とは

江戸へむかう和宮の行列

1860(安政7)年4月、幕府は、孝明天皇の妹・和宮の降嫁を朝廷に願い出ます。第14代将軍徳川家茂の正室、つまりお嫁さんとして迎えるためでした。孝明天皇はいったんは断りますが、たび重なる願い出により降嫁が決定します。その際に幕府は「10年内の攘夷実行」などを約束しています。

背景

天皇の許しなく締結した日米修好通商条約により高まる幕府批判をかわすため、幕府内部で「公武一和(合体)」論が浮上。要するに、幕府は政略結婚(による朝廷の後ろ盾)を求めたのでした。

結果、どうなった?

和宮は徳川家茂の正室となります。当初、この縁談に拒絶反応しかなかった和宮ですが、自身と同様に政治に振り回される同年代の家茂に親近感をもち、ふたりは仲睦まじい夫婦となりました。しかしその生活も家茂の病死により、足掛け5年という短いものとなりました。

八月十八日の政変

「八月十八日の政変」とは

「七卿落之図」

1863(文久3)年8月、公武合体派の公卿が、尊王攘夷派の公卿七名(三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉)を朝廷から排除した事件です。七名の公卿は、長州藩を頼って都落ち(京都から出ていくこと)したため、「七卿落ち」と呼ばれました。

背景

長州藩を中心とする尊王攘夷派の画策により、この年の5月10日が攘夷実行の期限となりました。同日、長州藩が下関海峡で外国艦船に砲撃を加えますが、他藩はつづきませんでした。業を煮やした格好の長州藩は、将軍自ら陣頭に立ち攘夷の実行をさせるため、天皇の親征(大和行幸)を計画します。しかし、この計画が公武合体派に露見、天皇の耳にも入り、長州藩とその勢力(攘夷派の公卿を含む)を排除せよとの密命が下ったのです。

結果、どうなった?

禁門警備の任を解かれた長州藩は、巻き返しを図ることに心血を注ぐようになります。しかし、表立った動きはけん制され、朝廷工作にも手段を欠くこととなり、自然クーデターないしは武力による威嚇行動に頼るようになりました。

池田屋事件

「池田屋事件」とは

太秦映画村の「池田屋」セット

1864(元治元)年6月、京都三条木屋町の旅籠「池田屋」に集結していた尊王攘夷派のグループを新選組(京都守護職・松平容保(=会津藩主)の預かる浪人組織)が襲撃し逮捕・殺傷した事件です。

背景

八月十八日の政変後、尊王攘夷派は巻き返しの機会をうかがっていました。こうした情報をしった新選組は、炭薪商の古高俊太郎を逮捕。拷問により、御所への放火、要人暗殺、天皇動座といった計画を掴みます(古高の自白内容には異説あり)。新選組は隊を分散させ、ローラー作戦で池田屋を探り当てました。

結果、どうなった?

新選組活躍の代名詞的事件であり、かつ幕府の威勢なお盛んであることを印象づけた出来事です。一方の尊王攘夷派は、吉田稔麿・宮部鼎蔵・大高又次郎らの名だたる人物を喪うこととなりました。特に長州藩は、京都での尊王攘夷運動を衰退させただけでなく、藩そのものが追い詰められてゆくこととなります。

禁門の変

「禁門の変」とは

禁門の変を描いた絵画、右側の軍勢が長州軍

1864(元治元)年7月長州軍が京都に侵攻し、幕府・朝廷は会津・薩摩などの連合軍でこれを阻止した事件です。なお、禁門とは禁裏(朝廷のこと)の門のことで、最大の激戦地が蛤御門であったことから「蛤御門の変」とも呼ばれています。

背景

八月十八日の政変で京都での主導権をうばわれた長州藩では、朝廷への陳情(追放された七卿と藩主親子の冤罪を訴える)のため軍隊を派遣すべしとする急進派と、様子をみるべきという自重派に割れていました。そこへ池田屋事件の報がとどき、急進派の主張どおり派兵が決定してしまいます。

結果、どうなった?

長州軍は、各地で敗退します。それだけでなく、御所に発砲したことで朝敵とみなされることになりました。また、撤退する長州藩士が藩邸に火を放ち、会津藩等も探索のため民家を焼くなどしたため、京都の町に戦火が広がり、2万7000世帯が焼失しています。

第一次長州征伐

「第一次長州征討」とは

長州征討の軍勢

1864(元治元)年7月、朝廷は、この直前におきた禁門の変をうけ、幕府に対し長州追討を命じます。幕府は長州藩主・毛利敬親と定広親子への問責のため諸藩からなる連合軍を編成し、五つの道(芸州口、石州口、大島口、小倉口、萩口)から侵攻を開始しました。これに対し長州藩では恭順派が藩政を掌握、12月に征長軍に降伏します。

背景

直接の原因は、同じ月の直前におきた禁門の変が原因です。朝廷よりの立場で尊王攘夷を説いてきた長州藩ですが、さすがに京都で戦争を仕掛けたばかりでなく、御所にむけて発砲したことで、長州藩は、それまで誰よりも慕ってきた孝明天皇本人から「朝敵」と認定されたことが原因です。

結果、どうなった?

禁門の変の戦後処理ですから、禁門の変の指揮した三家老(国司親相、益田親施、福原元僴)の切腹と四参謀(宍戸真澂、竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛)の斬首が行われました。また、五卿(三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修)の追放も取りざたされましたが、こちらは紆余曲折の末、太宰府天満宮の別当・延寿王院に移ることになりました。

薩長同盟

「薩長同盟」とは

薩長同盟締結の約定書に、坂本龍馬が「相違ない」旨を朱筆で裏書

1866(慶應2)年1月、薩摩藩と長州藩は、元土佐藩士の坂本龍馬らの仲介により、相互協力を約束する内容の同盟を締結しました。幕末きっての雄藩である薩摩と長州が手を結んだことで、幕末の時代はさらに変化のスピードを加速させることになりました。

背景

薩摩藩、長州藩の利害が一致したことが理由です。長州藩は、八月十八日の政変、禁門の変と京都から一掃され、その後四国艦隊との敗戦と長州征討を経て、満身創痍の状態でした。一方の薩摩藩は、当初公武合体(公議政体論)派として幕政改革を志向したものの、幕府がフランスに接近し幕府権力の維持に固執する様に失望し、また危機感をいだいていました。

結果、どうなった?

1866年7月にはじまる第二次長州征討に、薩摩藩は参加しませんでした。逆に、ヨーロッパ式の銃の購入を長州藩にあっせんするなど、同盟に沿った協力姿勢をみせます。当初には倒幕を意識するまでには至っていなかった薩長同盟ですが、大政奉還後方針を転換しました。その後の戊辰戦争以降も両藩は協力体制を維持しています。

大政奉還

「大政奉還」とは

二条城にて大政奉還の意向を示した徳川慶喜(邨田丹陵・筆)

1867(慶應3)年、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は朝廷に対して政権を返上しました。大政奉還は、坂本龍馬が考案し、土佐藩執政・後藤象二郎に伝えたとする説があります(異説あり)。徳川慶喜は、二条城で在京諸藩の意向を確認したのち、10月14日、朝廷に対し大政奉還の意向を伝えました。

背景

第15代将軍となった徳川慶喜は、第二次長州征討の結果から幕府の衰えを実感していました。少なくとも薩摩藩・長州藩といった有力諸藩が武力倒幕に傾く可能性を予見していたこと、内乱が起これば諸外国につけいる隙を与える結果になりかねないこと、仮に政権を返上しても朝廷には政権担当力がなく(明治天皇は幼少であることから)、徳川家が存続しうる可能性があることなどから、大政奉還にふみきったと考えられています。

結果、どうなった?

1867(慶應3)年12月9日、王政復古の大号令が発せられました。これにより、同年10月24日の大政奉還に対し勅許がなされ、京都守護職・京都所司代、江戸幕府が廃止されたほか、摂政・関白が廃止され、あらたに総裁・議定・参与の三職が新設されました。

戊辰戦争

「戊辰戦争」とは

鳥羽伏見の戦いを描いた絵画(歌川国広・筆)

1868(慶應4/明治元)年、王政復古により樹立した明治新政府軍(実体は、薩摩・長州・土佐各藩の連合軍)と、旧幕府軍(主に会津・桑名両藩と奥羽越列藩同盟、新選組など)が戦った内乱。この年の干支にちなんで「戊辰戦争」と呼ばれ、緒戦は鳥羽・伏見での戦闘をさします。

背景

王政復古の大号令の直後、開催された小御所会議において、徳川慶喜は招集されず徳川家の辞官納地が議題となりました。結果的に、徳川家200万石を返上することが決定しますが、徳川方も新体制確立までの政治執行権を盾に諸外国との折衝や朝廷工作を重ね、新政府への参画をもくろみました。これに対し、薩長勢力は、徳川への挑発行為(庄内藩士の屯所への発砲など)を重ね、ついに幕府の命により江戸薩摩藩邸が焼き討ちされるという事態に至りました。

結果、どうなった?

各地の戦いに勝利した明治新政府が旧幕府勢力を退け、日本国内を統一するとともに、日本を統治する政権であると国際的な承認を受けました。

幕末の鍵となった主な組織と人物

次に、幕末世間の耳目を集めた組織、人物をまとめてみます。

幕末の人物相関図

幕府

威容をほこる江戸城

幕府は、ペリー来航により従来の鎖国・攘夷が叶わないことを悟ります。征夷大将軍の「征夷」が絵空事であると気付いた幕府は公武合体に賭けますが、「安政の大獄」「長州征討」など朝廷や諸藩を抑える意図がつよく、そのことが却って求心力を失ってゆく原因にもなっています。この時期の各将軍もリーダーシップを発揮することが出来ず、幕政は失速をつづけました。

徳川家慶(1837年~1853年)

徳川家慶

江戸幕府第12代将軍。老中に水野忠邦を登用し天保の改革を行わせました。言論統制を行い蘭学者の弾圧(蛮社の獄)を行っています。ペリーが浦賀に来航した1853年6月に薨去。熱中症による心不全が死因とされています。

徳川家定(1824年~1858年)

徳川家定

江戸幕府第13代将軍。徳川家慶の四男です。幼いころから病弱であり、将軍就任後も健康面の不安から老中が政務を取り仕切っていました。鷹司任子や一条秀子、近衛忠煕の養女・敬子(天璋院)と三度も正室を迎えていますが世継ぎはなく、将軍後継問題が先鋭化するきっかけとなりました。1858年に35歳で薨去しています。

徳川家茂(1846年~1866年)

徳川家茂

江戸幕府第14代将軍。紀州派(徳川慶福)・一橋派(一橋慶喜)とで争われた将軍後継問題の勝者として14代将軍に就任(家茂と改名)。公武合体策のため皇女和宮を正室に迎えました。229年ぶりの上洛、孝明天皇への攘夷の約束、大政委任の明確化など精力的に政務にあたりますが、1866年7月重篤な脚気を患い、21歳の若さで薨去しました。

徳川慶喜(1837年~1913年)

徳川慶喜

江戸幕府第15代将軍。1862年に14代将軍・家茂の将軍後見職となり、1864年には禁裏御守衛総督に就任しています。将軍就任前から京都を中心に活動を重ねる一方、慶應の改革など幕政改革を行いました。大政奉還を行った将軍、戊辰戦争が開始される中、大坂城を抜け出し江戸に戻った将軍として有名です。

井伊直弼(1815年~1860年)

井伊直弼

彦根藩第15代藩主。1858年に老中から大老に昇格。日米修好通商条約の無勅許調印で有名ですが、井伊本人は勅許のない中での条約調印には反対でした。戊午の密勅(孝明天皇から水戸藩に下された幕政改革指示する勅書)を経て、幕府は取締を強化(安政の大獄)へと進展しますが、1859年の桜田門外の変により暗殺されました。

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勝海舟(1823年~1899年)

勝海舟

幕末期に活躍した幕臣。長崎海軍伝習所で学び、咸臨丸で渡米します。軍艦奉行並として、神戸に海軍操練所を開設し坂本龍馬を塾頭としました。1868年に開始された戊辰戦争で新政府軍がせまると、江戸総攻撃を回避するため幕府方を代表して交渉し、江戸を戦火から守りました。

朝廷

京都御所

朝廷の立場は、幕府よりもいっそう苦しいものでした。政治の実権は幕府にあり(委任した形ではありますが)、幕府にとってかわって政権を運営する能力も、またそのための施設も持ってはいません。望むべきは、再度の鎖国でしたが、攘夷攘夷と沸騰する在野世論とりわけ過激な長州藩への対応にも悩んでいました。

孝明天皇(1831年~1867年)

孝明天皇

第121代天皇。異人嫌いとして知られ、鎖国の継続・攘夷実行を望みつつも、考え方としては公武合体派で妹・和宮を14代将軍の徳川家茂の正室として降嫁させました。過激な攘夷思想の持ち主である長州及び長州と繋がりの深い公家を危険視し、八月十八日の政変を承認しています。1867年に崩御。疱瘡が死因とされますが、毒殺説もあります。

和宮(1846年~1877年)

皇女・和宮

仁孝天皇の第8皇女。和宮は幼名で1861年の内親王宣下以降は「親子(ちかこ)」と名乗りました。1851年に有栖川宮熾仁親王と婚約しますが、1860年に幕府より降嫁の奏請がなされ、紆余曲折の末、将軍家へ降嫁することになりました。和宮は、当初降嫁を嫌がりましたが、将軍・家茂の心遣いに触れたり、自身と同様に政治に翻弄される同年代の青年のすがたにしだいに心を寄せ合うようになりました。

三条実美(1837年~1891年)

三条実美

幕末期の公卿で正一位右大臣三条実万の子。父は安政の大獄で辞官落飾となり、そうした経緯もあって尊攘派の中心人物となりました。1863年の八月十八日の政変で京都を追われると長州に、ついで太宰府に移転。王政復古後は副総裁に就任するなど返り咲いています。

岩倉具視(1825年~1883年)

幕末期の公家・堀川康親の子。岩倉具慶の養子となり岩倉姓をつぎました。基本的な視座を王政復古に置きつつ、そのための公武合体を推進しています。和宮降嫁の推進者として江戸城に随行しています。この問題で一時出家しますが、やがて政界復帰を果たします。薩摩の西郷や大久保、土佐浪士の坂本龍馬とも交流がありました。

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水戸藩

水戸城の御三階櫓

水戸藩は、斉昭の先代から藩主後継問題を抱え、斉昭が藩主となったのちも藩内の抗争が絶えませんでした。水戸学とよばれるほど尊王攘夷に熱心であった水戸藩。しかし、藩内抗争から「天狗党」と呼ばれる集団が発生(天狗党は上洛を目指して進軍し諸藩との交戦ののち降伏)するなど内紛粛清の連鎖で人材が亡失し、出身者が活躍することはできませんでした。

徳川斉昭(1800年~1860年)

徳川斉昭

第9代の水戸藩主。藤田東湖などの人材を登用し天保期に藩政改革を行いました。1853年にペリーが来航すると幕府海防参与になりますが、日米修好通商条約締結問題で井伊直弼と対立します。安政の大獄で永蟄居処分を受け政界を去りました。

長州藩

毛利氏の居城・萩城址

幕末、一貫して尊皇攘夷の立場を鮮明にし続けた長州藩。これには、関ヶ原敗戦後に減封を命じられた立藩の経緯や「そうせい侯」と渾名されるほど藩主・毛利敬親の姿勢がゆるやかであったことと、無縁ではありません。

吉田松陰(1830年~1859年)

吉田松陰

幕末期に活動した長州藩士・志士。9歳にして藩校で教鞭をとるなど若き俊秀として知られました。山鹿流軍学師範などを務め、佐久間象山に師事します。1854年のペリー再来日に乗じて渡米を計画するも失敗、収監されます。その後、故郷で松下村塾をひらき、後進の育成を行いました。日米修好通商条約を違勅とし、老中暗殺を企てたとして安政の大獄にて刑死しています。

久坂玄瑞(1840年〜1864年)

久坂玄瑞

幕末期に活動した長州藩士・志士。松下村塾出身で、高杉晋作とともに双璧と目されていました。師の松蔭没後、長州藩を尊王攘夷に方向づけ、イギリス公使館焼討ち、下関での異国船砲撃など尊攘活動に尽力しました。禁門の変には慎重論を唱えるも参戦し、長州軍の潰乱が相次ぐ中、鷹司邸にて自刃しました。

高杉晋作(1839年~1867年)

幕末期に活動した長州藩士・志士。松下村塾に学び、久坂玄瑞とともに俊英と評されました。下関戦争における奇兵隊の創設や四国艦隊砲撃事件の戦後処理で活躍しました。また、第一次長州征討がせまると功山寺で挙兵し藩政を掌握するクーデターを起こしました。第二次長州征討における幕軍との戦闘を勝利に導くなど、その後の長州藩の方向性を定めました。1867年肺結核のため病死しています。

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桂小五郎(1833年~1877年)

桂小五郎(木戸孝允)

幕末~明治期に活動した長州藩士・志士、政治家。藩医の次男として生まれ、松下村塾に学びました。のち長州藩を主導する立場となり、薩摩との薩長同盟を締結するなどしています。王政復古に際しては「五箇条の御誓文」の草案をおこし、版籍奉還や廃藩置県にも関わりました。岩倉使節団に加わりますが、帰国後は征韓論で西郷と、内政面でも大久保と対立し、明治10年に病死しています。

薩摩藩

鹿児島のシンボル・桜島

幕末の薩摩藩では、公武合体派として幕政に干渉した島津斉彬が知られています。藩主の父(国父)として活動を継承した島津久光も、その延長で公儀政体論を唱えますが、四侯会議が瓦解すると倒幕を企図するようになります。島津氏は、もともと関ケ原の合戦でも西軍に属していたこともあり、徳川家に対してはドライでした。また薩英戦争を通してイギリスと接近したことも大きく影響しています。

島津斉彬(1809年~1858年)

島津斉彬

第11代薩摩藩主。幕末の名君といえばまず考えられるのが島津斉彬です。早くから日本を取り巻く海外情勢に通じ、集成館を設立するなど藩政改革を断行します。また養女の篤姫を第13代将軍・徳川家定の正室とするなど幕政への影響力を持ち、第14代将軍に一橋慶喜を擁立しようと企図しました。1858年に志半ばで急逝します。

島津久光(1817年~1887年)

島津久光

島津斉彬の異母弟。斉彬亡き後、息子の忠義が藩主の座につくと自らは「国父」と称して藩政の実権を掌握します。1862年に卒兵上京を果たすと、藩の尊攘派を弾圧(寺田屋事件)する一方、朝廷に働きかけ幕政改革を迫りました。直後おこした生麦事件により1863年にはイギリスと交戦(薩英戦争)。公武合体派として参与会議にも加わりますが、欧化政策を嫌い明治後も要職(内閣顧問、左大臣など)を辞してしまいます。

西郷隆盛(1827年〜1877年)

西郷隆盛

薩摩藩士・志士。維新三傑のひとり。下級士族の出身ながら、島津斉彬に見出され藩政に参画します。島津久光と折り合いが悪く、奄美大島等に流罪となったのち帰藩。禁門の変、第一次長州征討に対応します。のち、藩論を回転させ薩長同盟を結びました。戊辰戦争では勝海舟と江戸城無血開城を実現。明治後は参議・陸軍大将など要職に就きますが、征韓論を機に下野。明治10年、西南戦争にやぶれ自刃しました。

大久保利通(1830年〜1878年)

大久保利通

薩摩藩士・志士。維新三傑のひとり。下級士族の出身ながら、島津久光に接近。要職に就きます。1867年には討幕の密勅を引き出すことに成功しました。維新後は参与・大蔵卿・内務卿などを歴任しており、岩倉使節団にも加わりますが、征韓論で盟友・西郷と対立。西南戦争ののち、1878年に東京・紀尾井坂にて暗殺されました。

土佐藩

高知・桂浜から大海原を臨む

土佐藩は、藩祖・山内一豊が土佐20万石に抜擢されたことから徳川家に対して恩義があり、そのため他藩のようにドライに構えることができなかった面があります。土佐勤皇党を主導した武市半平太は、長州の志士にも引けを取らない存在でしたが、藩の弾圧により切腹。結局は薩長に協力するものの、最後まで徳川への義理立てを行いました。

山内豊信(容堂)(1827年〜1872年)

山内豊信(容堂)

第15代土佐藩主。四賢公のひとり。吉田東洋を参政職に抜擢し藩政改革をすすめる一方、将軍後継問題で幕政にも関与。藩内で攘夷の機運が高まると静観しつつ八月十八日の政変を境に弾圧。公武合体派を自認し王政復古後も徳川家擁護の論陣を張った。

武市半平太(瑞山)(1829年〜1865年)

武市半平太(瑞山)

土佐藩士・志士。坂本龍馬と同じく郷士の出身。剣術修行として江戸出府、九州外遊の中で勤皇にめざめ、帰国後土佐勤王党を結成。対立する参政・吉田東洋を暗殺。藩主・山内豊範を擁して上洛、攘夷督促の副勅使に随行しています。1865年山内容堂による勤王党弾圧をうけ、切腹。

岡田以蔵(1838年~1865年)

岡田以蔵の墓地

土佐藩士・志士。江戸で剣術を学び、武市半平太の土佐勤皇党に参画。思想的に対立する佐幕派人物を天誅と称して殺害し「人斬り以蔵」と呼ばれました。1864年に土佐藩捕吏に捕らえられ、1865年斬罪に処せられています。

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坂本龍馬(1836年~1867年)

坂本龍馬

元土佐藩士・志士。江戸で剣術(北辰一刀流)を学び、帰国後土佐勤皇党に参加。のち脱藩し、当時軍艦奉行の職にあった勝海舟の知遇を得て、神戸海軍操練所の塾長となりました。操練所が解散されると、長崎において同士と亀山社中(のちの海援隊)を結成し1866年には薩長同盟を仲介しています。武力倒幕を回避するため、後藤象二郎と船中八策(大政奉還)をとりまとめました。1867年大政奉還直後、京都・近江屋において暗殺されます。

坂本龍馬とはどんな人?生涯・年表まとめ【暗殺理由や名言、性格も紹介】

中岡慎太郎(1838年~1867年)

元土佐藩士・志士。土佐勤皇党に参画したが、藩論が公武合体に傾くと脱藩し長州藩内で活動し禁門の変にも参軍。坂本龍馬とともに薩長の和解工作に奔走します。のち土佐藩への帰藩を許され陸援隊体長となりました。1867年、坂本龍馬とともに近江屋にて暗殺されました。

中岡慎太郎とはどんな人?龍馬と歩んだ生涯を死因や性格、名言と共に紹介【年表付】

後藤象二郎(1838年〜1897年)

後藤象二郎

叔父で参政の吉田東洋に抜擢され、郡奉行・普請奉行などをします。吉田東洋暗殺後失脚。のち藩政に復帰し、大監察として勤王党弾圧の任に就きます。1867年、坂本龍馬に接近し、大政奉還を建白するよう山内容堂を動かしました。

佐賀藩

佐賀城

佐賀藩は、当時突出して西洋文明を受容した藩として有名です。近代兵器や洋式軍隊を備えました。戊辰戦争では、新政府側につき参戦しました。

鍋島直正(閑叟)(1814年〜1871年)

鍋島直正(閑叟)

第10代佐賀藩主。藩財政の改革を行うとともにいち早く西洋技術を取り入れ、蒸気船やアームストロング砲などを生産できるほどになります。幕末の薩摩藩主・島津斉彬は従兄弟。開明君主として有名ですが、藩の方針として幕末の政争と距離をおいたことから「佐賀の妖怪」と呼ばれました。

会津藩

桜の季節の若松城

会津藩の運命を大きく変えたのは、藩主・松平容保の京都守護職就任でした。八月十八日の政変や禁門の変では、薩摩と並んで活躍します。しかし、その後戊辰戦争では恭順した徳川慶喜の代わりに目の敵とされ、会津戦争後も下北半島に移封されるなど、不遇に見舞われました。

松平容保(1836年〜1893年)

晩年の松平容保

会津藩第9代藩主。1962年京都守護職に任じられ、孝明天皇の信任を得ました。王政復古後、一時は徳川慶喜とともに大坂入ります。鳥羽伏見の戦いで戦端がひらかれると、慶喜と共に海路江戸へ脱出。奥羽越列藩同盟の盟主となるも会津戦争で敗北し、身柄は鳥取藩を経て和歌山藩に預けられました。

長岡藩

長岡城

譜代大名の牧野氏が治める長岡藩(7万4千石)は、幕末の戊辰戦争がはじまると、奥羽越列藩同盟に参加しています。敗戦後、2万4千国に減封されたのち廃藩しました。

河合継之助(1827年〜1868年)

河合継之助

長岡藩士・家老。江戸をはじめ中国・九州と遊学し、佐久間象山、山田方谷らに師事。尊王佐幕に沸騰する時勢にあって局外中立構想を打ち立てました。藩邸の資財を売り、ガトリング砲を入手し武装を強化します。最終的に中立は叶わず、北越戦争に突入します。奪われた長岡城を奪還するなど戦果をあげますが、戦死しました。

新選組

新選組が屯所をおいた壬生村の八木邸

表向きは上洛する将軍警護のためと称して結成された浪士隊(その実は尊皇攘夷派)が、上洛後に分裂し、残留組が壬生浪士組、のちの新選組となりました。後ろ盾を求めて京都守護職の預りとなり、池田屋事件で活躍します。京都の治安を守るため市中警護にあたったほか、禁門の変、鳥羽伏見の戦いにも参加しました。

近藤勇(1834年〜1868年)

幕臣・新撰組局長。武蔵国多摩出身。天然理心流第4代家元。浪士隊に参加し上洛、のち壬生浪士組(新選組)を結成しました。池田屋事件では攘夷派志士と死闘を繰り広げました。戊辰戦争に参加し、鳥羽伏見・甲州勝沼で敗退し、再起を期して流山駐屯中に捕縛、斬罪に処せられました。

新撰組局長!近藤勇とはどんな武士?生涯・年表まとめ【性格や死因についても紹介】

土方歳三(1835年〜1868年)

幕臣・新撰組副長。武蔵国多摩出身。近藤勇とともに浪士隊に参加し新撰組の実権を握る。近藤勇捕縛後は幕軍とともに転戦。1868年五稜郭を占拠し陸軍奉行並となるも、箱館戦争において戦死しています。

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アメリカ

幕末という時代の幕をひらいた張本人のアメリカ。むろんそれはアメリカの国益に沿ってのことでしたが、1861年にはじまる南北戦争のため、条約締結後の日本への関与は低調となりました。

マシュー・ペリー(1794年〜1858年)

マシュー・ペリー

アメリカ海軍軍人。1852年東インド艦隊司令長官となり、日本の開港をもとめるため翌1853年浦賀に来航。翌年再度来航し、日米和親条約締結を実現しました。

タウンゼント・ハリス(1804年〜1878年)

タウンゼント・ハリス

アメリカ・外交官。1856年、駐日総領事として下田に着任。1857年12月に将軍・徳川家定に謁見。1858年の日米修好通商条約締結後は元麻布の善福寺に公使館をおきました。

フランス

レオン・ロッシュ

幕末のフランス(第二帝政)は、レオン・ロッシュ(1809年〜1901年)を駐日総領事とし、日本の政権主体を徳川幕府と見、日本での権益を拡大したい目論見から幕府を支援します。しかし1867年に徳川幕府、1870年には第二帝政いずれも政権崩壊の局面を迎えることになりました。

イギリス

ラザフォード・オールコック

幕末のイギリスは、ラザフォード・オールコック(1809年〜1897年)を駐日総領事とし、フランスとは対照的に日本の権力構造上、朝廷(天皇)が上位であると見ていました。とりわけ1863年の薩英戦争後は、朝廷に影響力をもつ薩摩藩、長州藩に接近してゆきます。

オランダ

幕末、日本が諸外国との条約により開国した結果、オランダは、対日貿易国という特別な地位から転落します。が、両国の関係は良好でした。それを象徴するように、オランダからスンビン号(1855年、のちの観光丸)、ヤパン号(1857年、のちの咸臨丸)といった2隻の艦船がもたらされ、幕末期に活躍しています。

その他

松平慶永(春嶽)(1828年〜1890年)

松平慶永(春嶽)

越前・福井藩主で四賢公(他に、島津斉彬、山内容堂、伊達宗城)のひとり。将軍後継問題で一橋慶喜擁立に尽力しますが、安政4年に幕府から隠居を命じられ引退。その後、1862年には政事総裁職として幕政に参画しました。明治政府では議定、大蔵卿などを歴任しました。

伊達宗城(1818年〜1892年)

伊達宗城

伊予・宇和島藩藩主で四賢公(他に、島津斉彬、山内容堂、松平春嶽)のひとり。将軍後継問題で安政4年隠居後も活動し、公武合体(公儀政体論)派として参与会議の一員となりました。維新後は議定、民部卿、大蔵卿などを歴任しています。

佐久間象山(1811年~1864年)

佐久間象山

信州松代藩士・思想家。江戸に遊学し、儒学ついで朱子学、砲術を学びます。老中となった松代藩主・真田幸貫に「海防八策」を建白しています。砲術については多くの弟子をもち、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬など有名人が集まりました。幕府に開国を進言したこともあり、そのために1864年、攘夷派の人斬り・河上彦斎により暗殺されます。

文化史上のできごと

幕末期の文化の特徴は、それまで極めて限定的だった西欧文化の流入が開国によって著しくなる点にあります。これが本格化するのは、明治以降ですが、幕末においてもすでにその曙光がみられます。

絵画

絵画の分野において、西洋との交流が起こります。いわゆる「ヒロシゲブルー」の歌川広重の絵は、かのゴッホモネといった画家たちに影響を与えました。また、歌川国芳は、洋風画の技巧を浮世絵に導入するなどしています。以下、主な分野と画家、作品を列挙します。

浮世絵

歌川広重(1797年〜1858年)

「江戸名所百景」より「大はしあたけの夕立」
「富士三十六景」より「東都一石ばし」

歌川国芳(1798年〜1861年)

「赤澤山勇士相撲之図」

大和絵

浮田一蕙(1795年〜1859年)

「米艦浦賀渡来図」

障壁画

冷泉為恭(岡田為恭)(1823年〜1864年)

京都御所小御所襖絵

歴史画

菊池容斎(1788年〜1878年)

「関ヶ原合戦図屏風」

建築

建築においても、幕末すでに西洋風建築が現れています。代表的な建築として、函館の五稜郭、長崎の大浦天主堂を挙げます。

大浦天主堂(日本二十六聖殉教者天主堂)長崎県長崎市

大浦天主堂

日本に現存する最古のキリスト教建築として有名な大浦天主堂です。フランス人宣教師のジラール神父が命じ、同じく神父のフューレが現地で主導しました。1862年着工、1865年竣工。

この天主堂建築には、1597年豊臣秀吉のキリシタン禁教令によって刑死した26名(日本二十六聖人)に捧げるという意味がありました。その後、(キリスト教の禁教令は続いていましたが)天主堂を訪れた人々がいます。彼らこそ250年余りの間隠れキリシタンとして密かにキリスト教を信仰した人々でした。このことは「信徒発見」という奇跡譚として遠くローマ法王へと伝えられました。

五稜郭(亀田役所土塁)北海道函館市

五稜郭

江戸幕府が函館防衛の拠点として築いた日本初の西洋城郭です。五芒星の形で知られています。1854年に新設された箱館奉行の奉行所として計画され、1855年来航したフランス籍コンスタンティーヌ号の副艦長から指導を受けつつ武田斐三郎(伊予大洲藩出身の旗本)が設計。1857年着工、1864年竣工。

1868年、旧幕軍を率いる榎本武揚が占拠・蝦夷政府と称し、新政府軍と交戦(箱館戦争)します。一時はロシアと連携して独立の気勢を示した蝦夷政府でしたが、1869年5月に降伏しました。

写真

新しい文化の伝来もありました。その際たるものは写真です。幕末期、3人の写真師が現れます。

上野彦馬(1838年〜1904年)

上野彦馬

写真機をはじめて輸入した上野俊之丞の子。島津斉彬を撮影した父に対し、彦馬は1862年に長崎で写真館を開業しました。高杉晋作、坂本龍馬、伊藤博文らを撮影し、金星の太陽面通過や西南戦争の記録写真も撮影しています。日本写真師の始祖と呼ばれます。

下岡蓮杖(1823年〜1914年)

下岡蓮杖

伊豆下田生まれの下岡蓮杖は、アメリカ総領事ハリスの通訳ヒュースケンやアメリカ人写真家ウンシンから写真の技術を学びました。1862年横浜に写真館を開いています。また画家としても活躍し、乗合馬車事業を手がける実業家でもありました。

鵜飼玉川(1807年〜1887年)

鵜飼玉川

横浜でアメリカ人写真家オリン・エラスタス・フリーマンに師事し、1861年に江戸の薬研堀で写真館を開業しています。晩年には東京・谷中に撮影した写真を埋めて写真塚を築いたことでも知られています。

学問

幕末以前の日本人にとって洋学といえば蘭学でした。しかし開国後、オランダ一辺倒の構造はくずれ、西欧各国からの文明輸入がはじまりました。まず重視されたのが、各国の言葉を日本語に置き換える翻訳です。また、西欧とわたりあうための軍事・医学も喫緊の課題でした。

江戸では、従来の蛮書和解御用を1856年に蕃書調所と改称し、洋書の翻訳と外国語教育の機関としています(さらに1862年に洋書調所、のちに開成学校となりました)。その一方で、1860年私設だった種痘所を官設機関としています(さらに1861年に西洋医学書と改称、のちに医学校となりました)。開成学校と医学校は現在の東京大学(の一部)となります。

「東京第一大学区開成学校開業式之図」(二代歌川国輝1873・明治6年)

長崎では、1855年に海軍伝習所が作られます。航海術や砲術だけでなく、天文学や数学、地理学といった分野までをフォローしていました。

長崎海軍伝習所

海軍伝習所に赴任したオランダ軍医・ポンペ(ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト、1829年~1908年)は体系的な近代医学の授業をおこなったほか、1861年の長崎養生所の設立にも尽力しました。また、1858年に英語伝習所が設立されています。

幕末の歴史年表

1853(嘉永6)年:ペリーの来航、幕末史の幕開け

黒船(サスケハナ号)
  • 2月、マシュー・ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航
  • 6月、12代将軍徳川家慶、死去
  • 9月、幕府が大船建造の禁を廃止
  • 10月、徳川家定、江戸幕府第13代将軍に就任

1854(安政元)年:日米和親条約に調印

日米和親条約調印地(横浜港開港広場)
  • 1月、マシュー・ペリーが軍艦9隻を率いて浦賀に再来航
  • 3月、幕府が日米和親条約に調印(8月に日英、12月に日露との同様の条約にも調印)

1855(安政2)年:安政江戸地震発生

安政の大地震絵図
  • 10月、安政江戸地震が発生。幕府、長崎に海軍伝習所を開設。
  • 12月、幕府が日蘭和親条約に調印

1856(安政3)年:ハリスの着任

下田開国博物館(静岡県下田市)
  • 2月、幕府が蕃書調所(のちの開成所)を開設
  • 4月、幕府が講武所開設
  • 7月、米国総領事タウンゼント・ハリスが下田に着任
  • 12月、徳川家定、島津斉彬の養女・篤子と結婚

1857(安政4)年:幕府、軍制改革をいそぐ

萩の松下村塾
  • 4月、築地・講武所に軍艦操練所設立
  • 11月、吉田松陰、萩の松下村塾を引き継ぐ
  • 12月、日米修好通商条約の交渉はじまる

1858(安政5)年:日米修好通商条約に調印

日米修好通商条約(外務省外交史料館蔵)
  • 3月、孝明天皇が日米修好通商条約勅許を拒否する
  • 4月、幕府、井伊直弼を大老に就任させる
  • 6月、幕府、日米修好通商条約に調印
  • 7月、安政の大獄はじまる。第13代将軍徳川家定が死去。
  •    幕府、蘭・露・英との修好通商条約に調印。
  • 8月、朝廷、水戸藩に勅書(戊午の密勅)
  • 10月、徳川家茂、江戸幕府第14代将軍に就任

1859(安政6)年:ついに開港

開港当時の横浜港
  • 6月、幕府、神奈川・長崎・函館の三港を開港
  • 10月、幕府、橋本左内、吉田松陰を処刑

1860(安政7/万延元):井伊大老、暗殺される

ワシントン海軍工廠での使節団
  • 1月、幕府、万延元年遣米使節を派遣(咸臨丸同行)
  • 3月、桜田門外の変により井伊直弼が暗殺される
  • 12月、幕府、日普修好通商条約に調印

1861(万延2/文久元)年:和宮の花嫁行列

使節団(オランダにて)
  • 10月、皇女和宮が降嫁
  • 12月、幕府、文久遣欧使節を蘭・仏・英・普などに派遣

1862(文久2)年:薩摩藩、幕政改革を働きかける

現在の寺田屋
  • 1月、坂下門外の変により、老中・安藤信正襲撃される
  • 2月、皇女和宮と将軍家茂の婚儀
  • 4月、薩摩藩(島津久光)が藩兵を率い上洛、三事策を提唱。寺田屋事件(島津久光、在京の過激尊攘派薩摩藩士を弾圧)おこる。
  • 8月、幕府、京都守護職(会津藩主・松平容保)を設置。生麦事件(島津久光、行列を横切った英国人4人を殺傷)おこる。

1863(文久3)年:対外戦争と七卿落ち

連合国によって占拠された長府の前田砲台
  • 2月、徳川家茂、上洛のため江戸を発つ
  • 3月、壬生浪士組(のちの新選組)結成
  • 4月、将軍家茂、孝明天皇に攘夷決行期限を5月10日と約束
  • 5月、下関戦争(長州藩が下関で外国船を砲撃)おこる
  • 7月、薩英戦争(薩摩藩V.S.英国)おこる
  • 8月、八月十八日の政変により七卿落ち(朝廷から攘夷派公卿が一掃)
  • 12月、一橋慶喜と有力藩諸侯らが朝議参与に任じられる

1864(文久4/元治元):長州藩の転落

坂本龍馬によって作成されたとされる長州征討の図
  • 1月、徳川家茂が再度の上洛
  • 3月、天狗党の乱(首謀者は水戸藩執政・武田耕雲斎)
  • 5月、幕府、神戸海軍操練所を設置
  • 6月、池田屋事件おこる
  • 7月、禁門の変(長州藩V.S.薩摩・会津などの連合軍)おこる
  • 8月、馬関戦争(英仏蘭米の連合軍V.S.長州藩)おこる
  • 11月、幕府、第一次長州征討(長州藩V.S.幕府・諸藩連合軍)を開始、長州藩は恭順
  • 12月、高杉晋作、下関で挙兵(功山寺挙兵)し藩論を倒幕に転換

1865(元治2/慶應元)年:土佐藩の大粛清

サー・ハリー・スミス・パークス
  • 5月、土佐藩(山内豊信)、土佐勤皇党を弾圧。英公使ハリー・パークス着任

1866(慶應2)年:薩長同盟、成立

薩長同盟所縁之地石碑(京都市上京区)
  • 1月、坂本龍馬らの仲介により、薩長同盟が成立
  • 6月、幕府、第二次長州征討を開始(長州藩V.S.幕府・諸藩連合、但し薩摩藩の出兵拒否)。幕府、日白(ベルギー)修好通商条約に調印
  • 7月、幕府、日伊修好通商条約に調印。第14代将軍徳川家茂、死去
  • 8月、幕府(小栗忠順)、仏公使ロッシュの仲介によりフランスから600万ドル借款
  • 9月、幕府、長州藩との間で講和が成立
  • 12月、徳川慶喜、江戸幕府第15代将軍に就任。幕府、日丁(デンマーク)修好通商条約に調印。フランス軍事顧問団が来日、幕府陸軍の訓練を開始。孝明天皇崩御。

1867(慶應3)年:王政復古の号令下る

聖徳記念絵画館壁画「王政復古」(島田墨仙画)
  • 1月、明治天皇、即位
  • 3月、徳川慶喜、各国公使を謁見し兵庫開港を約束する
  • 4月、高杉晋作、死去
  • 5月、四侯(島津久光、松平慶永、山内豊信、伊達宗城)会議が開催される
  • 6月、坂本龍馬、大政奉還・船中八策を後藤象二郎に示す 
  • 9月、長州藩(毛利敬親)倒幕を決断、薩摩藩(島津久光)もこの時期までには倒幕を決断
  • 10月、土佐藩(山内豊範)、徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出。徳川慶喜、大政奉還を上奏。
  • 11月、近江屋事件(坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺)おこる
  • 12月、王政復古の大号令(徳川慶喜の職群職辞職を勅許、江戸幕府廃止など)、小御所会議

1868(慶應4/明治元)年:戊辰戦争、各地で相次ぐ

北越戦争を描いた浮世絵。時の政府に配慮して上杉景勝・景虎の家督争い(御館の乱)に見立てて描かれている。
  • 1月、鳥羽・伏見の戦い(薩長軍V.S.幕府軍)おこる、戊辰戦争はじまる。
  • 3月、幕府陸軍総裁・勝海舟、西郷隆盛と会談。五箇条の御誓文、五榜の掲示発布。
  • 4月、江戸城無血開城。新政府軍は白河に侵攻、会津戦争はじまる。
  • 5月、新政府軍は長岡藩の中立を認めず、北越戦争はじまる。上野戦争(彰義隊)おこる。
  • 7月、江戸を東京と改称
  • 9月、会津藩・庄内藩降伏、奥羽越列藩同盟軍の敗退。
  • 12月、榎本武揚(旧幕府)軍、函館を平定し、蝦夷共和国成立

1869(明治2)年:戊辰戦争の終結

榎本武揚
  • 5月、蝦夷共和国(榎本武揚)、新政府軍に降伏し函館戦争が終結し戊辰戦争おわる

幕末はなぜ人気なのか?

幕末という時代は現代においても多くのファンがいます。幕末はなぜこんなに人気なのでしょうか?その理由を考えてみましょう。

理由1:いい意味でも悪い意味でもタガが外れた時代性

時代背景に理由があった

日本史の中で特に人気のある時代が戦国時代と幕末です。この二つの時代に共通するのは、時代の変革期だという点です。戦国は中世以来の権威が金属疲労を起こすように崩壊します。朝廷、寺社、室町幕府。下克上という言葉が生まれたように、約束のない明日がさまざまな歴史のIFを生み、魅力的な人物が群がり現れました。

同じことが幕末にも言えます。さらに言えば、世界史と日本史の邂逅もあり規模が膨らんだこと、背景に尊王攘夷という思想が絡み、そのために登場人物の対立関係が理解しやすいことが要因と考えられます(この点、戦国時代は良くも悪くも武家同士もしくはその連合体の勢力争いに終始したといえます)。

理由2:とても身近な存在であること

幕末を題材にした作品は数多い

もう一つ。比較的現代との時間的隔たりが少なく、そのために記録が残されており、歴史小説やドラマ、映画などのテーマになりやすかったことも影響しています。

例えば、漫画原作の作品が、映画化やゲーム化をされることで、相互に販促広報効果を発揮することを「クロスメディア戦略」と呼びますが、「幕末」は様々な小説や映画・ドラマのテーマとなることで、自然発生的に「クロスメディア」されてきたといえます。「幕末」とは、現代を生きるわれわれにとって、ひときわ身近な歴史であると言えるのです。

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長崎海軍伝習所にもうけられた医学伝習所。ポンぺから医学を授かる奥御医師の松本良順を描く、司馬遼太郎の歴史小説です。当時の医療がどうであったかの様子とともに、蘭方医と漢方医の関係、将軍侍医の役割とくに徳川家茂の臨終など興味深い点が怒涛のように飛び込んできます。

松本良順はその後、奥羽越列藩同盟に軍医として参加しますが、戊辰戦争が集結すると明治政府の陸軍軍医総監となりました。幕末医学に携わった若者たちの青春譚としても魅力深い一冊です。

峠(上) (新潮文庫)

つづけて司馬遼太郎作品から。幕末の越後・長岡藩で家老となった河井継之助を描く歴史小説です。前半の継之助は、諸国をあるいて勉学にいそしむのですが、さながら修行のようでもあり、読みつつも(この先、どう展開するのだろう)と期待が膨らみます。

印象的なシーンは、継之助が新政府軍の軍監・岩村精一郎に談判にいくところ。決裂後も諦めきれない継之助に、彼と長岡藩の運命を予感します。しかし直後の急転、奥羽越列藩同盟への参加から八丁沖の戦いと電撃的なラストシーンへ向かって突き進む様は、感動のひと言しかありませんでした。

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井伊直弼暗殺を描く「桜田門外ノ変」です。ペリー来航が外交面での衝撃だとしたら、内政面での衝撃がこの桜田門外の変でしょう。ときの大老が白昼に暗殺されたこの事件は、幕末を拳銃に例えれば、引き金に相当するものだと感じられます。

主演の大沢たかおさん(関鉄之助)、長谷川京子さん(妻ふさ)の夫婦役はちょっと端正すぎる気もしますが、伊武雅刀さん(井伊直弼)、北大路欣也さん(徳川斉昭)の重厚な存在感があり、華やかさと重たさがいい意味で共存しています。

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幕末の壬生といえば、新選組です。当初将軍警護のために上洛した際に壬生の新徳寺を拠点としたことから壬生浪士組(新選組の前身)と呼ばれました。そこに加入した吉村貫一郎が主人公です。南部藩出身の貫一郎は、すさまじい剣技の持ち主であると同時に、非常に深い家族愛の持ち主でした。

この主人公のもつ人間味は、言ってみれば珍しいものでもなんでもなく、きわめて平凡な人間の情というものなのですが、こと歴史をみる視点では忘れられがちなものではないでしょうか。彼らは決して冷酷でも残酷でもなく、今を生きるわれわれと同じ「人間」であったのだと痛感させられます。

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物語は、幕末編と明治維新編の二部構成となっていました。西郷と大久保という薩摩の二大巨頭。一心同体になって奔走していた幕末から、一転、互いに人が変わったように反目しあう明治。しかし、ふたりとも「薩摩士族の反乱は起こさせない」という共通の目的だけは最後まで共有していたように感じられます。

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幕末の大奥が舞台となる大河ドラマ『篤姫』は、薩摩藩主・島津斉彬の養女となった篤子が、第13代将軍・徳川家定に嫁ぐ物語です。もちろんそれは政略結婚であり、島津斉彬は篤姫を介して次期将軍職を水戸徳川家の徳川慶喜にと運動します。対立する勢力は紀州徳川家の徳川慶福をと争い、ドロドロした政治抗争が描かれます。

しかし、そこに家定と篤姫との愛情があることに、不思議と安堵している。そんな自分に少し戸惑います。笑いと涙とが、ほかの一般的な家庭と同様、このふたりにもあったのだと知ることで、将軍や御台所といった役職ではなく、人間ドラマとして見ることができると思うのです。

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幕末のスーパースター・坂本龍馬といえば、今や押しも押されぬ存在ですが、意外にも司馬遼太郎の『竜馬がゆく』以前はそれほど有名ではなかったそうで、歴史小説というものの存在感に驚かされます。土佐を舞台とする大河ドラマ『竜馬伝』は、土佐特有の事情(上士と下士(郷士)や徳川家への恩など)を知るのに最適です。

土佐勤皇党のメンバーはもちろん、龍馬を筆頭とする亀山社中(海援隊)の面々も、それぞれふつうの若者であったことがよく分かります。迷い、悩み、それでも行動し、次々と命を失っていく志士たち。幕末という時代に憤りや喪失感を感じつつ、今を生きるわれわれと同じなのだという「共感」が強く得られます。

幕末に関するまとめ

今回は、「幕末」という時代について、政治史や文化史を概観しつつ、年表に沿って時系列に整理しました。また、幕末の魅力について考え、あわせて幕末をテーマとした書籍・映画・ドラマをご紹介しました。

日本が鎖国体制にあった江戸時代。世界は大航海時代や産業革命を経験し、文明の力関係は歴然としたものとなっていました。幕末、最終的には「尊王攘夷」というスローガンのもと、明治維新というクーデターが実行されますが、その過程においては「佐幕」「勤皇」「攘夷」「開国」とさまざまな思想がはげしく衝突・相剋していました。

その渦中に生きたのは、英雄でも豪傑でもなく、ごくごく普通の人びとだったことは、もっと認識されて良いかと思います。わずか150年あまり昔の日本という国の話です。この記事をきっかけとして、今一度「幕末」という時代に思いを馳せていただけたら嬉しいです!

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