北条早雲をよく知れるおすすめ本6選【伝記から解説書、小説や漫画まで】

「北条早雲って、有名な武将だけど、どんな人物だったんだろう?」
「北条早雲について詳しく知りたいんだけど、おすすめの本はないのかな?」

北条早雲は、関東を支配した戦国大名・北条家の始祖となった人物で、戦国大名の草分けともいわれます。かつては、一介の浪人から戦国大名にまで上り詰めた下剋上の典型例とされていましたが、近年の研究で、室町幕府の要職を務めた伊勢氏の出身であることがわかり、この説は否定されています。

それでも、早雲が伊豆の攻略や小田原城を奪って本拠地にするなど北条氏の基礎を築き、関東が戦国時代を迎えるきっかけになった重要人物であることには変わりありません。しかし知名度に対して、早雲を扱った本は数が少なく、初心者にはどれを読めばいいのか分かりづらいかもしれません。

ここでは、北条早雲について学べる本を伝記、解説書、小説、漫画などにわけて紹介していきます。

伝記

北条早雲: 新しい時代の扉を押し開けた人

読んでみて

歴史の教科書で有名な山川出版社から出ている、日本の歴史をワンテーマに沿って解説したシリーズの1冊。早雲の生涯と業績が100ページほどの本にコンパクトにまとめられていて、解説は簡潔でとても分かりやすく書かれています。

早雲について興味をもった初心者はもちろん、早雲についてある程度知っている人でも、知識の確認や整理をするために持っておいて損のない本です。関連書籍の少ない早雲の貴重な基礎的な本としておすすめの1冊です。

みんなのレビュー

北条早雲のコンパクトな評伝。幕府奉公人が出自で、関東では外来者だった早雲だが、地震や津波といった天災を奇禍として、伊豆・相模に進出したいったのではないかという点は面白かった。また早雲自身の他に重臣層にも京下りの「外来者」が多く、それ故にしがらみを排して百姓を検地などで直接把握する体制が築けたとするのも興味深い。百姓との向き合い方を評価に入れるのが、著者らしいと感じる。

読書メーター

戦国北条記 (PHP文芸文庫)

読んでみて

合戦と外交という戦国時代で重要な2つの観点をもとに、北条氏の興亡を描いたノンフィクションです。早雲が礎を築いた北条家のその後の歴史にも興味がある方にはこちらがおすすめ。

著者の手によりドラマチックな物語になっているので、初心者でも読みやすいです。最新の研究成果が盛り込まれマニアックな知識も知れるので、戦国時代に詳しい人でも楽しめるでしょう。

戦国大名北条氏に興味がある人は、まずこの本を手に取ってみてください。

みんなのレビュー

戦国時代の歴史小説を多く手掛けてきた著者が、伊勢盛時(早雲庵宗瑞)から始まる後北条五代100年の外交や軍事戦略を描き出すノンフィクション。関東の戦国史は様々な勢力が絡み合い複雑で分かりにくいが、応仁の乱から書き起こし秀吉の小田原征伐まで、後北条氏を視点の中心に据えることで流れがわかりやすかった。まえがきにもあるように軍事面に重点を置いているので、「万民哀憐、百姓尽礼」の領国統治や、家督争いがなかった一族の団結力について更に知りたくなった。

読書メーター

解説書・研究書

戦国北条氏五代 (中世武士選書)

読んでみて

大河ドラマ「真田丸」の時代考証も務めた北条史研究の第一人者による、北条家全体を扱った解説書です。北条氏は早雲の死後も隆盛し、約100年にわたって戦国大名として関東地方を支配しました。

この本では、早雲による伊豆攻めから豊臣秀吉との小田原合戦までを扱っており、北条氏の歴史を学ぶことができます。学者による著作のため、少し難しいところもありますが、最新研究にも基づいて北条氏を解説しているおすすめの通史です。

みんなのレビュー

★★★★☆わずか250ページ程度の本ながら、比較的詳しく小田原北条5代について書かれている。早雲から氏直までの5人の当主それぞれバランスよく書かれているし、小田原征伐後のその後の北条氏と家臣団がどうなったか書かれてあったのも良い。個人的な見解で言えば、氏綱・氏康の2人(特に氏綱)が小田原北条の基礎を作ったのかなと思う。またこの2人の時代が一番良かったのかもしれない。氏政は決して暗愚とは思わないが、北条氏自体が大きくなりすぎたのと、組織が硬直してきたこと、さらに時代がとても難しい時だったのが不幸だった。

読書メーター

大いなる謎 北条早雲への旅─人生の真実とゆかりの地をたずねて

読んでみて

人気の歴史小説家として活躍する著者が、早雲ゆかりの地を巡りながら、その生き様と謎に迫っていく本です。早雲ゆかりの場所へ出かけるためのガイドブックとしても役立つ1冊。

幼少期の実像から、如何にして戦国大名になっていったかなど、早雲の生涯にまつわるテーマごとに旧説と新説を一つ一つ検証していくことで新しい早雲像を描き出します。早雲の生涯を分かりやすく解説している上だけでなく、多様な説や見解を知ることができるためおすすめです。

みんなのレビュー

泉秀樹先生の確かな筆で、小田原北条氏創業者である北条早雲こと伊勢宗瑞の生涯と数々の事績を辿る一冊。荒無稽な一介の素浪人による国盗りなどあろうはずもなく、室町幕府要職を務める名家の出であり、動乱の時代に持ち前の器量と家柄のアドバンテージを利用して世に出るべくして出た人物だったことがよく分かる。引用される古文書の文章の直後にその現代語訳を付けてくれて大変読みやすく、また挿入されるコラムは生誕地を始め現代に残る彼の足跡やゆかりの場所を踏査した紀行文も楽しい、躍動的な人物伝である。

読書メーター

小説

北条早雲(中公文庫)

読んでみて

北条早雲を主人公に幼少期から戦国大名として名を上げていく姿を描した小説です。室町幕府の役人に過ぎなかった早雲が、戦国大名になり北条家の基礎を築いていく様子は、まるで大河ドラマのようで読みごたえがあります。

最新の研究をもとにしつつフィクションも織り交ぜ、独自の早雲像を描き出しています。当時の農民の生活など時代描写は細かいところまできっちりとしていながら、ところどころに少年漫画のような熱い展開もあって、まるで冒険小説を読んでいるようなワクワク感があります。

史実の早雲とは少し異なっている部分もありますが、難しい歴史書よりも面白い小説が読みたい方にぜひおすすめしたい本です。

みんなのレビュー

いやぁ、面白いですね。 この時代の歴史小説は、ほとんどないので、雰囲気だけでも、勉強になりますが、話の展開も、ちょっとジャンプ風で良い感じです。(ほとんどが創作だとは思いますが) 作者の力量がわかります。おすすめです。

読書メーター

戦国人物伝 北条早雲 (コミック版日本の歴史)

読んでみて

日本の歴史を学べるコミックシリーズの1冊。各巻ごとに戦国時代の人物を扱っているなかの北条早雲の巻で、戦国大名の先駆けとなった早雲の人生を漫画で分かりやすく学ぶことができます。

子供時代の早雲が経験した応仁の乱、戦国大名への道を拓いた伊豆攻めや小田原への進出など、重要なエピソードがバランスよく描かれています。漫画なので読みやすいですし、北条早雲に興味をもった初心者がはじめに手にとる1冊としておすすめです。

みんなのレビュー

北条早雲の本は何冊も読んでいますが、茶々丸や三浦氏の居城や韮山城のイラストを初めて目にして、自分の想像とかけ離れた城構えに驚きました。たまにはコミック版で読むのもいいもんだ。

読書メーター

まとめ

一介の浪人から下剋上によって戦国大名にまで成り上がった戦国時代の典型のような人物という早雲像は、すでに過去のものとなり、歴史のロマンが否定されてしまったようで残念な気になります。

ですが、北条氏が戦国大名の走りとなった一族であることと基礎を築いた早雲の功績が変わることはありません。北条早雲は今でも戦国史の重要人物なのです。

ぜひ、ここで紹介した本を参考に、早雲と北条氏についての知識を深めてみてください。以上、北条早雲に関する本のまとめでした。

16 COMMENTS

清水勝也(号・一風)

三重県松阪市射和(昔の伊沢)住民です。「相州兵乱記」に早雲の出身地とされています。今回、地元から見た早雲の実像を書いた「北条早雲の真実」が完成しました。A4の203頁です。黒田基樹氏の発見によって伊勢宗瑞(早雲)の享年が64歳となって歴史の読み方が変わります。彼が伊沢に隠された年が11歳であり、官位のない幼名で呼ばれていたことが「応仁記」と足利義視の「都落記」で判明しました。興味を持たれたら「歴史研究」の本社(東京都西五反田2-14-10-504・TEL 03・3779・3127)に問い合わせください。一風。

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清水勝也

 ゆうきまさみの「新九郎奔る」を読むと、彼の幼名を「千代丸」としている。これは早雲の子孫が多く「〇〇千代」とあることからの推察と思われる。私は近年、黒田基樹氏が提唱された早雲享年64歳説に基づき、すべての資料を初めから読み直した。すると、今出川殿(足利義視公=将軍義政公の弟君)が愛童と共に伊勢に隠棲した時、小倭という所の聖住寺、又は近くの山の上にて義視公「袖に吹け都の秋の風の伝手」と前句を詠み、侍らす児に「脇を」(詠め)と促した。児は取り合えず「紅葉や便り君に合いける」と返した。この名童を「宮千代丸」とある。彼こそ11歳で未だ元服前の伊勢新九郎盛時(後の伊勢宗瑞)である。「応仁記」・「応仁別記」及び足利義視公の日記「都落記」より推察する。一風。

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清水勝也 号一風

 前項の京葉様、ぜひ、私の「北条早雲の真実」をお読み頂き、「目から鱗」を落としてください。貴女のような歴女が「相州兵乱記」に書かれた「伊勢國住人新九郎宗瑞、伊沢と云所ノ人也。」をご存知ないとは思われません。必ずやどこかで目にしているはずです。また、「応仁記」を詠まれたなら、伊勢に下った足利義視公と小倭の聖寿寺で歌を詠み交わす名童「宮千代」も記憶のどこかにあると思います。しかし、俗説の88歳説に洗脳され(私も同然)ていたため、まさか、34,5歳の(はず)新九郎盛時(元服前であり名乗らず)が宮千代であるわけが無い、との先入観に捕らわれ見逃したと思います。実は、彼はこの時11歳の童子だったことが、黒田基樹氏の早雲没・64歳の発見によって明らかになったのです。この年齢で今までの資料を検めて読み直すと、伊勢系図や伝説のほとんどが正鵠を得ていることが判明したのです。ぜひ、貴女にこれを読んで頂き、心のもやもやを吹き飛ばして頂きたいと思います。A4で203頁の大作で読み応えがあると信じます。一風。

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匿名

 一昨年、「北条早雲の真実」を発表しましたが、上梓を急いだ為漏れた部分や、新しく見つかった資料から伊勢での彼の行動が、より詳しく浮かび上がりました。射和に隠棲してから数年が経ち、彼は玉丸城で元服をしたのです。烏帽子親は国司の命で、彼らの護送を引き受けた向井長春が行ったと思われます。その時、名を城下の玉川村から採り玉川新九郎と改めたようです。数年後、恩師の向井長春が同じ海賊衆の荒木一族といざこざが生じ、彼らが籠る志摩の富屋城を攻め滅ぼす事になるのです。その時、彼は恩義から向井軍に加担したのです。これが彼の初陣でありました。この戦いで荒木一族は壊滅し、大将は命からがら船で兵庫に遁れたのです。その時、捕虜となった中に、後に早雲の家来となる荒木兵庫介と在竹兵衛が居ました。彼は凱旋して後、射和の商家「多気屋」の娘と懇ろになり、一女を儲けます。一同が大志を抱き東国を目指した時、妻に向かって「別れは辛いが俺には大望が有り、今より駿河に向かう。成人したら娘には婿を取らせ後継ぎとせよ。」云い残し、慕ってきた前野村の間宮信高と広瀬村の馬場護国を同志として、四人を引き連れ先ずは義母の郷である尾張赤目に向かいます。途中伊勢の関に立ちより、古い一族の山中才四郎を仲間に入れ、船で祖父の親元でもある赤目城に着きます。ここでしばらく居候をして、今後の抱負を親族と語り合い、将来は北条を名乗り、「ミツウロコ」の家紋を掲げ、再び家を興すことを堅く誓うのです。やがて岡崎からも彼を慕って多米権兵衛が仲間に入ります。そこに京都の伊勢貞藤から、駿河の今川義忠公に嫁いだ姉に男子誕生との知らせが届いたのです。彼はお祝いと仕官を願い、同志と共に船で駿河へと向かったのです。これが伊勢での知られざる彼の行動でした。一五歳まで幼名の宮千代、元服して名を玉川とした為、今まで世に名が出なかったのです。これが北条早雲の前半の真実です。その後は、皆さんご存知の太田道灌と龍王丸を巡る交渉や、今川義忠の伯父、小鹿範満と戦いの火ぶたが切られていくのです。一風。 

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匿名

 前項の中で、明らかな誤りが見つかり訂正させていただきます。立木望隆氏の著書、「北条早雲素生考」のなかで、福原源九郎氏(神戸市須磨区)のご尊父にあたる「会下山人」著の「多紀郷土史話」から、福原氏が立木氏に送付された文中に、「志摩国」を伊勢新九郎が攻めたとあり、私は当然「伊勢志摩」であると早合点したのです。今、「多紀郷土史話」を取り寄せ、詳しく精査すると、この志摩国は、どうやら備後の「志摩利」のことで、そこにあったとされる「冨屋城」の可能性が高いことがわかりました。多分、寛正時代に備中伊勢氏(平井氏、または、岡山県荏原市にある高越山城主の伊勢新左衛門隆資?)と荒木氏との間に戦いがあり、荒木氏が兵庫に敗走した事実があったのでしょう。それを澤山(荒木)氏の子孫が、のちに関東の雄となった北条早雲に攻められたとした方が、世間の聞こえがよく系図を改ざんしたと思われます。最近の早雲64歳没で言えば、寛正時代は4~9歳であり、これも88歳説に沿った改ざんであったことがわかります。その他は伊勢説に沿った定説です。一風

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清水一風

 伊勢宗瑞(北条早雲)の調査は一応打ち切り、今は宗瑞の父、並びに祖父について調べています。父盛定や祖父とされる盛経についても64歳説で解くと、種々の誤りが見つかりました。まず、養父とされる伊勢新左衛門尉行長は「法泉寺」寺記によると、「享徳二年(1453)伊勢駿河守(新左衛門トモ)ナル人物、伊勢國ヨリ備中園井荏原へ入部ス。」とあり、当初彼が盛定の前名であり、宗瑞(新九郎)の実父とされたのです。しかし、この行長は養父の貞高(貞道)と判明したのです。そして、京徳二年は長禄二年(1458)の間違いであるとほぼ確定しました。新九郎(幼名宮千代)はこの時3歳で、貞道の養子となったのです。この養子問題にはいくつかの要素が絡んでいたのです。一つは貞道の継子が病で亡くなり、盛定次男の宮千代を養子にした。そして、荏原の領地を引き継いだことを、「荏原へ入部」としたのである。つまり、盛定が荏原の領地を隆資、または、兄の貞興と二分したが、領米が京都に届かず、これを取り戻す策として本家筋の養子とし、貞道が強権で徴収したと思われるのである。早雲没、88歳説と、入部の年号間違い、そして、さらに名前の世襲制と不在地主のことが、研究から抜けたことで混乱に拍車をかけたと思われる。一風研究より。

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匿名

 今回は伊勢宗瑞の先祖について調査を行った。結論を先に述べると、備中伊勢氏の経久は京都伊勢氏(尾州の横井北条家出身)の①、左衛門尉盛経を猶子にして領地を与え分家させた。盛経はこの義父の恩に報い、伊勢家の菩提寺である「祥雲寺」とは別に、西荏原に「法泉寺」を建てて菩提を篤く弔った。彼には当初男子がなく、弟の新左衛門盛継を猶子として法泉寺の建立を引き継がせた。しかし、盛経42歳のころ、②、盛時(後の盛定、早雲の実父)が生まれたので、我が子を盛継(備中守)の猶子としたのである。これが「平姓北條系図」で云う「伊勢盛時(1432~没年不詳)猶子実備中守男」である。そして、この盛時が24歳の時(1456年)に生まれたのが、系図に言う次の「③、長氏(生年不詳~1519)後の早雲」である。つまり、早雲は後に親の盛時を襲名したため、この系図の盛時を早雲と後世に誤解したのである。(当時の襲名はあり得る)この親の盛時の生年と早雲の没年を合わせると88となり、「八十八歳の長命であった」と勘違いをしてしまった。もし、この盛時が早雲であれば、人口に膾炙した著名な人物の没年が「不詳」はあり得ない。従って私はこの盛時は盛定の前名と解釈したのである。(当時の小田原北条家では、なぜか備中で亡くなった正鎮<盛定>の没年と、早雲の生年は知りえなかった。)なお、(新)左衛門行長を襲名した人物が、初代盛経(経久の養子)をはじめ、盛継(盛経の猶子)・盛定(盛継の猶子)・貞道(宮千代の養父)・隆資(高越山城主)と、真否はともかく多かったこともあり、後にすべての 混乱の根源となったと思われるのである。(数字は血統系図を表す。これはあくまで私評であり、真偽は不明です。) 2022,07,03,記す。一風。

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匿名

 今回は、足利義視(今出川殿)の娘とされる「聖壽」について調べてみた。彼女がこの世を去った時、後奈良天皇は「天下が喪に服した」と手記した。これほど天皇に死を惜しまれ嘆かせた京都「曇華院」院主の聖壽とは、いったい何者であったのか、大変興味が湧いたのである。最近、毎日新聞京都版に連載された彼女の行を垣間見ると、誕生日は当時の日記から判明したが、正確な没年齢は不明とある。この作者は新聞で、「彼女は義視公の正妻日野良子(彼の有名な日野富子の妹)の子供で、「応仁の乱」が起こり、義視公が京都を離れて伊勢に下る直前に身ごもった子供である。」と推察されている。もし、今後聖壽が応仁2年の生まれと判明すれば、良子の子供とほぼ確定できる。しかし、彼女が次の応仁3年生まれであれば、話は変わり伊勢の丹生(今の多気町)か平尾(今の松阪市)で現地妻に孕ませた子供ということになる。私は、義視公が伊勢を出る応仁2年4月末から5月初めに、彼を匿った伊勢国司、北畠教具卿が贈った意味深な和歌にその真実が隠されているような気がするのである。その歌とは「松風にいかかはたへん(如何に耐えられますか)かるかやの(刈茅の石堂丸のようになれば)しどろもどろに乱れあうとも」である。この意味は、「松風」は石堂丸の父、加藤繁氏の属する九州の「松浦氏」に掛けて、「貴方は身ごもった妾を置いて京都に帰られるが、生まれる子が男子なれば、いずれは石堂丸のように貴殿を訪ね、正妻の良子やその子義材と揉めることになり、その苦衷に貴方は耐えなければならなくなるでしょう。」と、詠んだのではないか。ほかにも、義視公が伊勢で最初に逗留した寺の名が奇しくも「聖壽寺」であったこと、後に義視公が兄の義政将軍らと次期将軍の事でもめ、再び美濃へ落ちた時、和睦の印として富子に聖壽を人質に差し出している。記録には「文明九年(1477=聖壽8~9歳)七月に娘を富子のもとに送り、猶子とした。」とある。しかし、受け取った富子は情け容赦もなく彼女を尼寺の「瑞雲山・通玄院」に入れているのである。妹の子供ならこんなむごいやり方はせず、それなりの武家に嫁がせたのではないか。しかし、聖壽は後に通玄院の焼け跡に建つ「曇華院」の院主となり、天皇家と足利幕府の橋渡しを行い「鎹役」を務めた。こうして何かと軋轢の多かった二家の仲をよく取り持ったため、天皇から深く感謝されたのである。また、義視公の最後を見取り、葬儀を仕切って喪主を務め、法名を「大智院久山道存」と贈っている。
 補記。仮に聖壽が伊勢の平尾で受胎したとすれば、(5月初旬まで滞在した)彼女の生まれは応仁3年10月中頃になる。彼女の年齢に関する史料が出れば、聖壽が本妻の子か、伊勢で孕んだ愛妾(名前は不明)の子かが分明となるので、歴史が一歩進むことになる。今後、各位のさらなる研究が待たれるのである。22,07,04、記す。一風。

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匿名

 今回は、足利義視(今出川殿)の娘とされる「聖壽」について調べてみた。彼女がこの世を去った時、後奈良天皇は「天下が喪に服した」と手記した。これほど天皇に死を惜しまれ嘆かせた京都「曇華院」院主の聖壽とは、いったい何者であったのか、大変興味が湧いたのである。最近、毎日新聞京都版に連載された彼女の行を垣間見ると、誕生日は当時の日記から判明したが、正確な没年齢は不明とある。この作者は新聞で、「彼女は義視公の正妻日野良子(彼の有名な日野富子の妹)の子供で、「応仁の乱」が起こり、義視公が京都を離れて伊勢に下る直前に身ごもった子供である。」と推察されている。もし、今後聖壽が応仁2年の生まれと判明すれば、良子の子供とほぼ確定できる。しかし、彼女が次の応仁3年生まれであれば、話は変わり伊勢の丹生(今の多気町)か平尾(今の松阪市)で現地妻に孕ませた子供ということになる。私は、義視公が伊勢を出る応仁2年4月末から5月初めに、彼を匿った伊勢国司、北畠教具卿が贈った意味深な和歌にその真実が隠されているような気がするのである。その歌とは「松風にいかかはたへん(如何に耐えられますか)かるかやの(「刈茅物語」の石堂丸のようになれば)しどろもどろに乱れあうとも」である。この意味は、「松風」は石堂丸の父、加藤繁氏の属する九州の「松浦氏」に掛けて、「貴方は身ごもった妾を置いて京都に帰られるが、生まれる子が男子なれば、いずれは石堂丸のように貴殿を訪ね、正妻の良子やその子義材と揉めることになり、その苦衷に貴方は耐えなければならなくなるでしょう。」と、詠んだのではないか。ほかにも、義視公が伊勢で最初に逗留した寺の名が奇しくも「聖壽寺」であったこと、後に義視公が兄の義政将軍らと次期将軍の事でもめ、再び美濃へ落ちた時、和睦の印として富子に聖壽を人質に差し出している。記録には「文明九年(1477=聖壽8~9歳)七月に娘を富子のもとに送り、猶子とした。」とある。しかし、受け取った富子は情け容赦もなく彼女を尼寺の「瑞雲山・通玄院」に入れているのである。妹の子供ならこんなむごいやり方はせず、それなりの武家に嫁がせたのではないか。しかし、聖壽は後に通玄院の焼け跡に建つ「曇華院」の院主となり、天皇家と足利幕府の橋渡しを行い「鎹役」を務めた。こうして何かと軋轢の多かった二家の仲をよく取り持ったため、天皇から深く感謝されたのである。また、義視公の最後を見取り、葬儀を仕切って喪主を務め、法名を「大智院久山道存」と贈っている。
 補記。仮に聖壽が伊勢の平尾で受胎したとすれば、(5月初旬まで滞在した)彼女の生まれは応仁3年10月中頃になる。彼女の年齢に関する史料が出れば、聖壽が本妻の子か、伊勢で孕んだ愛妾(名前は不明)の子かが分明となるので、歴史が一歩進むことになる。今後、各位のさらなる研究が待たれるのである。22,07,04、記す。一風。

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匿名

前項の記事に誤りがありましたので訂正させていただきます。補記で聖壽の生まれは応仁3年の10月中頃としましたが、人間は「十月十日」で子を産むことから、5月初旬に孕めば翌年の3月中頃の出産となります。あらためてこの場を借り訂正させていただきます。一風。

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匿名

 前項、「曇華院」院主、聖壽の補記。
 足利義視公の娘、「聖壽」の誕生日が今日判明しました。京都毎日新聞が連載する「室町の兄妹・流れ公方と忘れられた尼」(竹中拓実・編集)によると、「大徳寺の春補宗熈の語録と、北野社家の記録、延徳2年(1490)2月25日条から、この月日が彼女の誕生日であることが証明される。」とある。「聖寿」(「曇華院」院主・足利義視の娘・号を「祝渓聖寿尼」と確定し、聖寿はこの尼と同人とする)この日、「曇花(華)院殿御誕生日」として、天満宮の神官が「椿餅」贈った記録から、この日が聖寿の誕生日であるとされた。そして、応仁元年(1467・8)に良子はなぜ、夫の都落ちに同行しなかったかの理由として、彼女は妊娠4か月に入っていたと推測されたのである。つまり、聖寿は正妻日野良子の子供とされた。これに対し、私はもしも、彼女の生誕が応仁3年2月25日であれば、伊勢の女に産ませた子供であることを証明できると考えた。現地妻である彼女が義視公に侍ったのは彼が伊勢の小倭に逗留した応仁元年の旧8月29日以後と推定される。その後この地の「聖寿寺」で、2週間ほど小姓の宮千代(後の北条早雲)と歌など交わし、同9月9日に松阪の平尾に移る。ここで遅れた家来と待ち合わせ、同16日にやっと丹生の「薬師寺」(今の近長谷寺)に落ち着く。この時、都の兄に送る旅日記のことについて、こまごまと女に相談をしているのである。(義視公の日記「都落記」より)そして翌年の応仁2年4月吉日、ようやく完成した「丹生神宮寺」裏手の「御所」に移るが、落ち着く間もない同4月9日に都からの要請によって岐路の準備に付く。国司に別れの詩を贈り、同13日に返歌が届く。同日午後、松阪の平尾に着く。ここで国人の接待を受け5月4日に須賀(津市)の「積善寺」に「御成」、「同六月一日国司ヨリ御一獣マイル。」とある。「同六月廿六日、須賀ヨリ木造庄。」とあることから、この酒の席で、国司教具卿が女の父親から娘の妊娠のことを告げられ、例の「刈茅」の歌を義視公に贈ったと私は推測したのである。聖寿が応仁3年の2月25日に生まれたとすれば、妊娠は前年の4月15日となる。つまり、平尾で孕んだことになれば、義視が国司と過ごした6月25日には、辛うじて妊娠が判明できる時である。前記の和歌の内容などから推察して、聖寿は伊勢で愛妾にできた子であることが、今は捨てきれないのである。今後の研究が待たれる所以である。7月5日、一風。 

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清水一風

  北条早雲について、誤解をまねく記述が「三重県安濃郡誌」(大正13年9月発行、昭和48年4月再版)で見つかりましたので、ここに報告させていただきます。郡誌の171ページ、其11 北条早雲の項に、(伊勢志略の如きは早雲河内村の産と書すると共に射和多気屋と申者六代祖なり玉川と云本名なりと二説を併記せり)と、あるが、私が2022,9、10日に行った調査によると、「伊勢志略」(津市・稲垣定穀・著)にこの記述は無く、実は「多紀具教行状記」(沙門宗阿・作)の誤りでした。宗阿は射和「延命寺」の第21世随意演智上人(「曼荼羅捫象」作者)に従い、貞享4(1684)年ころ、射和片山(延命寺の隠居寺)と射水(櫛田川)のほとりで中万(松阪市中万町)の豪商、「近田與四郎に請われ国司家の秘書を尋ね求めて記したものである」とする。この郡誌の誤植によって多くの早雲研究者に不信感をまねいたことは否めない。この誤った公記録により、其の後、北条早雲研究者の目をあらぬ方向(備中説)に向けさせたとすれば、「早雲公射和出身」説を唱える地元の我々としては誠に悔やまれる次第である。 近年、早雲公没、64歳説がようやく世に認められ、資料の全面的な見直しが行われつつある。射和に来住した年が、35歳から一気に11歳まで若返ったのである。そのため、彼の幼名が「宮千代丸」であったと判明するに至ったことは、研究者としてこの上なく喜ばしいことと感じている。一風。

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 訂正文。前記、一風手記について、一部誤りがありここに訂正させていただきます。
①「誤植」は誤記の間違い。
②「多紀具教行状記」は「多氣具教行状記」の間違い。
③「随意演智上人」は「隋譽演智上人」。以上の三点が間違っており、大変失礼いたしました。
 この「多氣具教行状記」について、補足しますと、「射和文化史」には一切記載されておりません。この原本は近田與四郎から幾人かの手を経て、最後に旧「三井文庫」に渡り、戦後米国のカリフォルニア大学・バークレー校に接収されたといわれる。あとは「国会国立図書館」収蔵本のみとなった。しかし、我々にとって幸運だったのは、御巫清白氏がご尊父の書き写されたものを、昭和24年に「神宮文庫」に寄贈されていたのです。多分、「三重県安濃郡誌」編集者は当時、三井文庫の管理者(岡 百世氏)に電話で問い合わせを行い、内容は正しく把握したが、書籍を間違ったのではないかと思われる。因みに、郡誌の参考文献に「伊勢兵乱記」はあるが、「多氣具教行状記」は見当たらない。一風。

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匿名

 申し訳ありません。もう一つ前文に誤りがありました。「国立国会図書館」は「東京国立国会博物館」の間違いでした。私文とは言え、ご迷惑を掛けました。一風。

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2022年10月20日

「戦国研究の最前線」最前線シリーズ編集部編 全国歴史研究会発売 

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匿名

 最近、聖壽の生誕が1468年2月であり、没年が1545年で年が77歳との記事を見ました。ただし、文献は表示されていなく不明です。私はこれに対し、彼女は義視公が伊勢の愛妾に孕ませた子供ではないかと述べました。その理由を述べてみます。
1,伊勢に現地妻がいたこと、
2,彼が京都を離れるとき、妻の良子が妊娠4か月とされるが、気を遣う気配もなく、大津に    て逢う約束をした愛妾に未練の手記を残していること。
3,彼が美濃に落ちた時、手元に居たと思われる聖壽を、富子のもとに人質として送り届けている。彼女が良子の娘であれば京都にいるはずであり、人質の意味をなさない。
4,妹の娘であれば、尼に落とさずそれなりの武士に嫁がせると思われる。
5,伊勢を去るとき、国司が贈った歌が「刈茅童子」からで、意味深い謎を含んでいること。
6,聖壽の名が、義視公が12日間滞在した「聖壽寺」と同じであること、などである。

 

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