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マリー・アントワネットの死因は?処刑された理由や最後の様子を紹介

マリーアントワネットがギロチンで人生の幕をおろしたことは、漫画や映画などの影響で知っている方が多いのではないでしょうか?

しかし王妃がなぜ、ギロチンという残忍な方法で人生の幕を降ろさなければならなかったのか。詳しい内容を知らない方も多いと思います。

そこでこの記事はマリーアントワネットの死因について、

  • 処刑の時の詳しい様子
  • なぜ処刑されたのか?
  • 中世フランスの処刑の仕組み

など、詳しく掘り下げていきます。実は知らなかった意外な事実なども紹介しているので是非最後までご覧ください。

マリーアントワネットの死因は?

王妃マリーアントワネットの処刑の様子

マリーアントワネットはギロチンによって、最期を迎えました。贅沢を極めた赤字夫人と揶揄された王妃は、首と胴体を切り落とされるという残酷な死を遂げたのです。余りに有名で知っている方も多いことでしょう。その様子は漫画や映画、ミュージカルと色々な媒体で描かれてきました。

1793年、10月16日に彼女は37歳の短い人生に幕を降ろしたのです。嘲笑う聴衆に囲まれながら、市中引き回されその当時処刑のポピュラーな道具だった「ギロチン」の露と消えてしまいました。日本では王族の処刑はほとんど無く、文化の違いを感じます。

フランス革命を起こす国民性が生み出した悲劇ではないでしょうか。当時もマリーアントワネットの処刑はやりすぎだという人もいたそうです。そんなマリーアントワネットの死に関連した要素を掘り下げていきましょう。

ギロチンによる処刑

ギロチンの説明図

前述の通り、彼女はギロチンにより処刑されました。ギロチンは、ジョゼフ・ギヨタンという17世紀の内科医が推奨した、死刑の際に使用する器具です。構造は2本の柱の間につるされた刃を落として、柱の間にうつ伏せ状態の罪人の首を切断する斬首刑に使われます。

ギロチンの再現模型

驚くことにこの残酷極まりない器具は、その当時の処刑では極めて人道的と言われていました。フランスでは、平民が絞首刑、貴族階級が斬首刑となっていました。当初斬首刑は斧や剣で罪人の首を切り落としますが、死刑執行人の腕に頼るところが多く、一撃で斬首できない場合は何度も切りつけるという光景が見られました。

そのために、ギヨタンは出来るだけ苦痛を与えずに、平民も貴族も名誉ある斬首刑が執行できるということでギロチンの使用を提案しました。ギロチンは、従来の処刑法より苦痛を与えないということで、採用されたものだったのです。

ジョゼフ・ギヨタンの肖像画

設計を担当したのは、外科医アントワー・ルイという人でした。彼は以前から存在していた各地にあった断首台を研究し、現在の形に近い三日月型の刃を死刑人の首を固定させる現在にほぼ近いスタイルを完成させました。ギロチンの正式名称は、ボワ・ド・ジュスティス(日本語で正義の柱)という名前であったそうです。

しかしいつしか、装置を推奨したギヨタン博士の名前を取って「ギヨティーヌ」と呼ばれるようになりました。ギヨタン博士の子供という意味です。そのギヨティーヌが訛ってギロチンと呼ばれるようになりました。ギヨタン博士は抗議しましたが、この不名誉な名前は変わることなく家族は姓を変えたといいます。

中世フランスの処刑の仕組み

ルイ16世の公開処刑の図多くの聴衆がいる

中世フランスの処刑はパリ市中のコンコルド広場で、公開処刑が取られていました。残念なことですがこの時代の娯楽的な存在となっており、公開処刑が行われる日はたくさんの人がコンコルド広場に押しかけたといいます。それは、国民道徳が損なわれるということで1939年にギロチンでの処刑が廃止されるまで続いたとされます。

フランスでの死刑執行を行うのは「ムッシュ‣ド・パリ」という死刑執行人が行っていました。その役職は1981年まで続いていたといいます。ムッシュ・ド・パリは世襲制で、1687年~1847年のおおよそ200年はサンソン家が世襲していました。フランス革命があった時にその職に就いていたのが、シャルル・アンリ・サンソンという人でした。

シャルル・アンリ・サンソンの肖像画

フランス革命の時期に在任していたため、歴代2位の処刑数となっていましたが、皮肉なことに本人は王党派であり、ルイ16世を崇拝しており自分が死刑執行を行った頃を生涯悔いていたといいます。死刑執行人であるサンソンは、医者という別の顔を持ち副業で医者をしていたといいます。死刑執行人は死体の保管も行っていたため、解剖を行って人間の身体を熟知していたためです。

マリーアントワネットの最期

マリーアントワネットは処刑されるまでの日々を、タンプル塔で過ごしていました。フランス革命時はマリーアントワネットの他にも夫、ルイ16世、子供のルイ・シャルル皇子とマリー・テレーズ王女、王の妹エリアベートが収監されていました。タンプル塔の3階と4階が一家の生活空間であり、簡素ではありますが家具も置かれていたそうです。

タンプル塔での王家の生活

つかの間の家族の団欒を楽しむことができますが、その生活は長くは続かず、革命当初亡命者と連絡を取っていたこと、外国と連絡を取る証拠の書類が見つかったことが決め手となりルイ16世は死刑が確定しました。夫の死刑執行が行われた祭、鳴り響く大砲と太鼓を聞いたときに、息子のルイ・シャルルに膝まづき新国王に即位を称えたといいます。マリーアントワネットはこの時王妃としての立場を示しました。

コンコルド広場に引き立てられるマリーアントワネット

10月15日にマリーアントワネット自身の裁判が行われ、オーストリアへの情報漏洩、贅を尽くした罪、息子との姦淫の罪により翌日16日に死刑が確定されます。

死刑が確定したわずか7時間後です。そのわずかな時間に王妃は義妹に手紙を書き、神に祈りを捧げ衣装を着たままベットに横たわりました。夜明け前、部屋係が「王妃朝食は如何致しましょうか?」と尋ねると「いりません。全ては終わりました。」と告げたといいます。しかし、部屋係が「マダム持ちこたえなければなりません。どうか持ってこさせてください。」というと涙を流し、「ブイヨンスープを持ってきてちょうだい。」と言い、いく匙か食べました。

これが王妃の最期の食事だったそうです。

マリーアントワネットがコンコルド広場に引き立てられる際のスケッチ

そして、人生最後の日の首を切り落としやすいように髪の毛を切られ、白い服に黒い絹の靴下を履き、白い帽子をかぶり、手作りの靴下止めを身に着けていたそうです。刑場に行く前に死刑執行人のサンソンが来ました。そして王妃を後ろ手で縛ろうとした時に、「私の手を縛るのですか?夫の手は縛らなかったのに。」というやり取りがあったといいます。そうして午前11時15分、普通の罪人が乗る馬車に乗せられ王妃はコンコルド広場へ向ったのでした。

王妃マリーアントワネットのギロチン処刑

周りの聴衆に侮辱の言葉を浴びせかけられながらも、マリーアントワネットは最期まで毅然としていたそうです。しかし、断首台を登る階段でよろめき、処刑人の足を踏んでしまったといいます。最期の言葉は「お許しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ。」と、刑が執行される前に「さようなら、子供達。あなた方のお父さんのところに行きます。」だったと言います。

ギロチン台の前まで来ると、王妃は自分で頭を振り帽子を落としました。12時15分、彼女にギロチンでの処刑が執行され、周りにいた聴衆は「共和国万歳!自由万歳!」と歓声が起きたといいます。

マリーアントワネットの処刑の様子

その後、観衆が帰った後見張っていた憲兵が王妃の遺体を手押し車に、首は手押し車の足へ乗せられ運ばれてていったといいます。それから王妃の遺体は2週間もマドレーヌ墓地で野ざらしになっていたといいます。ただし高貴な人の埋葬の慣習で、足の間に首を置くというようにされていたようです。埋葬命令が出ないためでした。その後2週間たってやっと、マドレーヌ共同墓地に埋葬されました。

彼女はなぜ処刑をされなければならなかったのか?

マリーアントワネットの肖像画

一国の王妃がこんなに残酷な末路をたどったということに驚きを隠せない人も多い事でしょう。

しかし赤字夫人と揶揄される一方で、彼女をタンプル塔まで護衛した兵士は、「噂とはかけ離れた人の話を真剣に聞いてくれる普通の人だった。」という人もいます。自由奔放で堅苦しいことを嫌う精神的に幼いところがあった王妃とはいえ、なぜここまで民衆に憎まれてしまったのか、それを解説していきます。

国庫を浪費させて国民の怒りを買ったから

贅沢なドレスと髪型のマリーアントワネット

彼女が処刑された一つの理由が、飢饉が起きている当時のフランスで、彼女が国民を顧みず側近たちと贅沢三昧にすごし国民の反感を買ったからです。革命のあった1979年、フランスは飢饉が起き国民は飢えていました。そして市民の不満が爆発し、フランス革命が起きます。国民はこの貧困は「赤字夫人」の浪費で国の財政が傾いていたと信じていたのです。

王妃の首飾りのレプリカ

その大きな発端は「首飾り事件」です。自称ヴァロア王家の血を引くラ・モット伯爵夫人を名乗る女詐欺師によって引き起こされた「かたり詐欺」です。この事件は、被害者であるマリーアントワネットよりも、フランスの国民は伯爵夫人に同情的だったといいます。真実はどうであれ、市民にとって王妃を中傷する恰好のネタを提供することになってしまったのです。

農民風の家で楽しむマリーアントワネット

また、特に反感を買ったのは「農民ごっこ」でした。ヴェルサイユ宮殿に小さな農家の家を建て、侍女たちの農民の恰好をして遊んでいたといいます。これを知った農民は自分達が飢えているのに、農民の真似をしてままごと遊びに興じる王妃に反感を持ちます。こういった事が積み重なっていき、マリーアントワネットへの憎しみは深まっていきました。

反マリーアントワネットによるプロパガンダ

また彼女が処刑された理由の一つに、反マリーアントワネットによるプロパガンダがあります。フランス革命といえば、「食べるものがなくて、パンがなければケーキを食べればいいのに。」と言ったマリーアントワネットのセリフが有名です。しかし、この言葉が根拠がなく完全な作り話であるという説が有力です。ですがこのセリフは永年王妃の言葉として皆信じていました。こういった話はどこから出てくるのでしょうか?

当時の風刺画この風刺画は第三身分の農民たちが貴族と聖職者を背負っている

それは王妃に反発する貴族たちがあることないこと噂を立て、パリの新聞屋を煽って非難する記事を書かせたからだといいます。マリーアントワネットに無視されていた貴族や、敵対するオレルアン家の人たちが糸を引いていたそうです。新聞には王妃の浪費を誇張して書きたて、王妃の評判を落としていきました。

一般市民が当然、王や王妃のことを知ることはできないので、身近にいる貴族が情報を流していました。そうした王妃を攻撃したプロパガンダは新聞だけではなく、風刺画や演劇などいたるところで行われます。民衆はそれを信じ、ますます王妃への憎悪を深めていったのです。

マリーアントワネットの息子「ルイ17世」の最後

ルイ・シャルルの肖像画

王家の悲劇はルイ16世とマリーアントワネットだけではなく、息子のルイ・シャルルにも及びます。

彼はドーファン(日本語では王太子)であり正当な王の後継者でありましたが、フランス革命が勃発するとタンプル塔に監禁されます。その時は6歳であったといいます。父が処刑された一週間後、反革命派や亡命貴族によって王太子を国王17世とする宣言を行いましたが、パリに監禁されていたました。ルイ17世は自分が即位していたことも知らなかったのです。

ルイ17世の死因は「結核」と発表されているが…

クリスタルのツボの中に収められているルイ17世の心臓

ルイ17世はタンプル塔に監禁されて約4年で死去しました。死亡証明書には「腺病質の傾向がしばらく滞在していたため結核が死因である」とされました。しかし、検視の結果で出ていた報告はこれだけでなく、惨い虐待の証拠が残っていました。

記録によると、「胃は異常に膨らんでいて右膝の内側には腫瘍があった。胃の内部からは570mlを超える非常に臭い液体が流れ出て、腸は膨れ上がり腹壁と癒着していた。内臓全体と両方の肺付近に大小の大きさの腫瘍を見つけた」というものでした。明らかに劣悪な環境で、満足な治療もしてもらえず亡くなった幼い王の死が明らかになったのです。

ルイ17世が生前受けていた虐待

監禁されるルイ17世

タンプル塔で監禁されていたルイ17世の待遇は酷いものでした。

世話係のシモーヌという男の虐待が日常化しました。貴族的な物を忘れて市民として再教育するため、革命党員の服を着せたといいます。そして、革命歌や王室や家族を冒涜する言葉を覚えさせたりしたそうです。その他にも、幼いルイ17世に無理やりお酒を飲ませたり、「ギロチンにかけて殺す」などの暴言を吐いたといいます。またシモーヌがルイ17世を雑用係のように扱っていたそうです。

そのあまりの酷さに番兵たちも虐待を見るのを嫌がったという記録が残っています。

タンプル塔の画

その後、ルイ17世はより劣悪な部屋に異動させられ、そこは厚い壁に鎧戸と鉄格子があり光はほとんど差し込まず、なんとトイレが設置されていなかったといいます。不潔な部屋の中はネズミや害虫でいっぱいになり、深夜の監視人交代の時に毎日生存確認が行われたといいます。食事を渡す鉄格子の前にルイ17世を立たせて「カペーのガキ」「暴君の息子」など暴言を浴びせ、戻って良しと言われるまで続けられたといいます。

後見人が代わって待遇が改善され、清掃がされ、不潔な衣類やベッドは破棄されましたが、そのころにはもうルイ17世は一人で歩くことすら出来なかったといいます。それから3か月して、ルイ17世は呼吸困難に陥り息を引き取ったのでした。

マリーアントワネット死因に関するまとめ

マリーアントワネットの死因はいかがでしたでしょうか?マリーアントワネットはギロチンで死刑執行されました。ギロチンという道具の恐ろしさに驚く方も多いと思いますが、怖いのはギロチンだけでなく、そういうことを起こしてしまった人の心ではないでしょうか。民衆が恐ろしい心理状態にあったことが推察できます。

マリーアントワネット自身も反省すべき点はたくさんありました。もっと人民に寄り添い、歩み寄っていたならこういった悲劇は起こらなかったのではないでしょうか。人の心の負の部分が色濃くでたフランス革命、時代が変わる波が産み出した負の部分を王族たちの死を通して、少しでもこの記事を読んだ方が中世フランスの歴史に興味を持っていただけたらと願ってやみません。

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