「最近、映画で話題になっているけど太宰治ってどんな人?」
「暗い作品が多いけど本人も暗い人なのかな?」
「何人も愛人いたらしいけど、そんなになんでもてたの?」
一般的に太宰治に対してこのようなイメージを抱いている人が多いのではないでしょうか?
名前や作品名を知っていても、実際はどんな人なのか、気になる方も多い事でしょう。そんな疑問を解決すべく、この記事では太宰治の性格を分析し、女性関係を徹底解明してみたいと思います。
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太宰治はどんな性格だったのか?
結論から言うと、作品と同じようにネガティブで暗い性格の人だったようです。感受性が強く、常に情緒不安定であり、人を信用せず、常に他人を恐れている人でした。行動は突拍子もなく周囲の人を驚かせ、しかしどこかほっとけない人、そんな人だったようです。色々問題行動もありますが、文学の才能を見いだされ当時の文学界の重鎮、伊伏鱒二にも眼をかけてもらっています。
そういった性格故に、生まれた作品も数多くあります。太宰の代表作品である「人間失格」や「斜陽」は、太宰独特のネガティブな思考があったからこそうまれたのです。作品たちの根本に根付く、太宰治の性格を詳細に調べてみました。
感受性が強く情緒不安定だった太宰
太宰治というと自殺未遂4回、薬物中毒、そして最期は心中、経歴を聞いて驚く方も多いはずです。彼は破滅型作家という位置付けにあり、その根底に感受性の強さと情緒不安定さがあります。そして、人間不信ではあるが、常に人の愛情に飢えている、そんな精神不安定な人でした。愛情に飢えているが故に女性関係が派手で、そのために借金を増やしていっています。太宰の人生は借金に苦しむ人生です。一言でいうと退廃と堕落、そんな人でした。
太宰治は若いころに左翼的なグループと接触したり、太宰が家族の反対を押し切って小説家を志したこと、数々の問題行動などが重なり実家とほぼ絶縁状態でした。そのため、家族愛が薄く、それゆえに人を信じることが出来ず、しかしどこか人に愛されたいという欲望が渦巻くそんな人物になったのではないでしょうか。
太宰治の性格が分かるエピソード
太宰治の性格を表すエピソードに「熱海事件」があります。内容は太宰がお金を借りに行っている間、熱海で待っていた友人壇一雄が、戻ってこない太宰を探しに東京に戻ると井伏鱒二と将棋を指していた事件です。怒る壇に太宰は「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね。」と言ったといいます。
このエピソードで分かるのが、太宰がお金にだらしなく、借金の期日や待っている友人の心情を裏切るだらしない人間であることが伺い知れます。あまり関わりたくない人間のように感じますが、熱海事件の被害者、壇一雄は良い遊び仲間であったようです。
将棋を打っていた伊伏鱒二とも信頼関係を結び、薬物中毒の時には東京武蔵野病院に入院させてもらったり、縁談を世話してもらったりしています。太宰の退廃的で堕落的な生活をほっておけずに周りが世話を焼いているところに、太宰の人徳があるのかもしれません。
作品から見える太宰の性格
太宰治の代表作と言えば、「人間失格」があげられます。近年、映画化されたり漫画化されたり話題にもなっている作品です。この作品完成の一か月後、太宰は自らの命を断ちました。彼の自伝小説と位置付けれています。
主人公の大庭葉蔵が東北の裕福な家庭の出身であること、左翼思想に触れて酒や薬に溺れること、複数の女性たちと関係を持ち自殺を試みること、まさしく太宰治を連想させます。
有名な出だしは「恥の多い人生を送ってきました」。主人公は幸福というものを自覚できず、理解が出来ない、他人を恐れつつわざとお道化て生きてきました。互いに欺き合っても明るく生きていく人間が理解できなかったといいます。これは太宰治本人の考え方そのものだと考えられます。人間不信なのが伺い知れますね。
また落ちぶれていく華族をテーマにした「斜陽」。発表された後は落ちぶれていく人を「斜陽族」と言ったそうです。太宰の典型的な堕落と退廃を、華族という身分から切り込みをしていっています。主人公のかず子と、貴族的で病弱な母、薬物中毒の弟、没落していく華族を描いています。かず子は結核で母を亡くし、薬物中毒だった弟は自殺をしてしまう、そして不倫の末に不倫相手の子を妊娠してしまいます。
しかし、シングルマザーとして再出発をすることとなりました。華族制度が廃止されて落ちぶれていく華族に焦点をあて、庶民とは違う階級にあった者たちの様々な滅びが描かく。そして、滅びの美しさに魅了される太宰の性格を伺うことができます。破滅的なものに美を感じていたのだと推察されます。
「人間失格」や「斜陽」を通して、太宰の人間不信と虚無感、そして堕落的な状況に浮かぶ人間の滅びの様に美を感じる刹那的な性格を見ることができるのではないでしょうか。
太宰治の女性関係は破茶滅茶だった…?
太宰治というと、女性関係が気になる人も多いはずです。愛に飢えていた太宰は、たくさんの女性と恋愛関係になり何度も自殺未遂を繰り返します。どうやって知り合ったのかな?そう思う方もいらっしゃるはずです。そんな疑問を解くべく太宰と関係した女性を調べてみました。
女性遍歴を紹介
太宰治はたくさんの恋愛遍歴を重ねたことは有名です。そんな太宰の女性遍歴を女性に焦点をあて調べてみました。交際した女性を時系列で上げてみます。
小山初代
太宰の最初の内縁の妻で、太宰治が高校時代に知り合った芸者です。太宰と青森を出て東京で同棲をします。その後仮祝言が行われるが、太宰の実家津島家の意向で入籍出来ませんでした。
その後、太宰が薬物中毒で病院に入院している時に義弟との姦通が露見します。この後太宰と水上温泉でカルチモン自殺を図りました。しかし、未遂に終わり、太宰の伯父の仲立ちで正式に離婚します。
田部シメ子
太宰治が小山初代を内縁の妻として同居していた時に知り合った女性です。銀座のカフェ「ホリウッド」で働いていました。そこで太宰と知り合ったそうです。
彼女は太宰とは三度しか会っていないにもかかわらず、カルチモンを大量に購入し鎌倉腰越の海で心中を図りました。その結果田部だけ死亡し、太宰は生き残りました。死の間際、叫んだ名前は太宰の名前では無かったそうです。
石原美知子
太宰治の正式な妻。伊伏鱒二の仲介で見合いが行われます。当初伊伏は太宰への仲介をためらっていましたが、「結婚誓約書」という文章を提出したといいます。山梨県の市原邸で伊伏の付き添いで見合いが行われ、太宰はすぐに結婚の意思を固めたといいます。
その後結婚し、太宰との間に1男2女をもうけました。しかし9年の結婚生活の末、夫の太宰治が死去してしまいます。太宰の遺書にも「妻を誰よりも愛している」と書かれており、生涯を通して一番愛された女性でした。
太田静子
太宰治の愛人の一人です。作品「斜陽」のモデルになったことでも有名です。太宰のファンだった彼女は太宰に日記風の告白文を送ると、太宰から「お気が向いたら、どうぞ遊びにいらしてください。」と返事があり、太宰邸を訪れました。そこで太宰と対面し、恋愛関係になったそうです。
戦後太宰と再会し小説の題材のための日記の提供を依頼され、その時に太宰の子供を身ごもります。産まれてくる子の相談をしに三鷹の太宰邸に行きますが、太宰の冷たい態度に傷つき、小説の材料だけが目当てだったのではないかと疑念を抱いたといいます。
山崎富枝
太宰治の愛人の一人であり、太宰と入水自殺を遂げた人として知られています。彼女は屋台のうどん屋で太宰と出会います。その後太宰から、「死ぬ気で恋愛してみないか」と持ち掛けられ、太宰夫人美知子を気にしつつも「でも、若し恋愛をするなら死ぬ気でしたい」と答え交際をスタートさせます。
しかし交際をしているうちに太宰との関係に齟齬をきたすようになり、捨てられると予感した彼女は、太田静子に「修治さんはお弱い方なので貴女やわたしやその他の人たちにおつくしできないのです。私は修治さんがすきなので一緒に死にます」という手紙を投函し、その日の夜に太宰と玉川上水へ投身しました。
心中した理由は未だ謎だらけ
太宰治と山崎富栄が発見されたとき、太宰と共に赤い紐で結ばれて発見されたといいます。発見された二人は、山崎富栄の死顔ははげしく恐怖しているおそろしい容貌だったのに対して、太宰の死顔は穏やかでほとんど水を飲んでおらず、入水する前に死亡していたか仮死状態だったと推察されているそうです。
太宰がなぜ心中をしたのかは憶測の域を出ません。当時は「愛人の強要説」「自身の体調憂慮説」がささやかれていました。太宰の遺書を見てみると、「小説を書くのがいやになった。みんないやしい欲張り。井伏は悪人」と書かれていたそうです。太宰は妻、美知子を紹介してもらったり恩人だったはずです。しかし、いつからか太宰は伊伏に対して大きな不信感を募らせていったといいます。
愛人山崎富栄の遺書にも「みんなして太宰治をいじめ殺す」と書いています。このことから、伊伏を含む文壇関係者との人間関係の苦しんでいた様子が伺い知ることができます。
他にも、太宰は「生きていること、ああ、それは、なんともやりきれない息も絶え絶えの大事業であろうか」そんな表現が斜陽にあります。この言葉は太宰が感じていることの投影であり、繊細な感受性を持つゆえに人間の真実を見て生きにくさを感じていたのではないでしょうか。
太宰治の性格まとめ
いかがでしたでしょうか?筆者も高校時代太宰治全集を読み、過ごした一人です。難しい話も多かったですが、なんとなくすっと自分の中に入っていく作品達だったことを覚えています。
今回太宰治の性格を調べるにあたり行きついた結論は、太宰治は感受性豊かで、情緒不安定、そして愛に飢えた寂しがり屋の性格だったでした。それ故に無邪気さを装った少年時代を過ごし、女性遍歴を重ね、薬物依存を起し、心中未遂を繰り返し遂には自殺してしまったのでしょう。
「太宰治は青春のはしかである」と言われたりもします。この退廃的でネガティブな思考は思春期の時に大なり小なり経験し、それを乗り越えて人は大人になっていくのかもしれません。少年の心を持ち続けた太宰の文学を少しでも興味を持っていただけたら幸いに思います。