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ムッソリーニの死因と最後の様子を解説!処刑された理由や経緯も紹介

あなたはベニート・ムッソリーニという人物の名前を聞いてどんなイメージがありますか?

「独裁国家を築いた人だよね。」
「イタリアの独裁者でしょ、日本も同盟結んでたらしいね。」
「ヒットラーの方がよく聞くけどどんな最後だったのかな?」

そんなところではないでしょうか。名前は非常に有名ですが、その最後を知っている人は同じ時代のドイツ総統「アドルフ・ヒットラー」と比べると数少ないでしょう。

ヒットラー自殺の2日前に、ムッソリーニは処刑されました。あまり知られてないですが、その時の状況がとても悲惨だったのです。そこでこの記事では、ムッソリーニの最後について、処刑された理由やその時の状況など詳しく解説していきます。

ムッソリーニの最後は処刑による死

生前最後のムッソリーニの写真

ベニート・ムッソリーニの最後は、イタリアのパルチザンによる銃殺処刑でした。北イタリアのジュリーノ・ディ・メッツェグラという集落で、正式な裁判も行われずに処刑されました。この時に愛人のクラーラ・ぺタッチと共に射殺されたといいます。

ローマ進軍を行うファシスト党員

処刑の前日、ムッソリーニ達はミラノを離れスイスに逃亡していましたが、コモ湖畔のドンゴという街で逮捕されました。最終的に50人以上のファシスト党幹部とその家族が逮捕され、翌日には16人が処刑され、さらに2日後には10人が処刑されたといいます。

なぜ処刑されたのか?

閲兵式に参加するムッソリーニ

彼が処刑された理由は、国内でのムッソリーニの独裁政権への批判が敗戦に伴って高まっていき、ドイツという後ろ盾を失ったムッソリーニが、イタリア国民にとって連合国軍と敵対した悪役として捉えられたためです。ドイツが撤退した時に、ムッソリーニはスイスへ逃亡しようとしました。

ファシズム議会はムッソリーニを除名することを取り決め、ムッソリーニは逮捕されました。しかしその後ドイツ軍がローマを占拠し、ムッソリーニを奪回します。そして北イタリアに「サロ共和国」を作りました。そして、南部のイタリア帝国と対立をしたのです。

サロ共和国の国旗を掲げる兵士

しかしドイツに主権を握られているサロ共和国は、実質はドイツの占領統治に近い物でした。そうした中でファシスト党時代に逮捕されていた共和党員が解放され、反ファシストのレジスタンスを作ります。このレジスタンスのパルチザンとサロ共和国との紛争は「イタリア内戦」と呼ばれ、激化していきました。

処刑までの経緯

コモ湖の周辺の移動経路

ミラノを離れたムッソリーニは北へ向い、撤退中のドイツ軍高射砲部隊と合流し、コモ湖周辺を北上している時にパルチザンのバリケードに阻まれました。このパルチザンはドイツ軍を通行させえる見返りとして、一緒にいるイタリア人の引き渡しを要求したのです。

イタリア人の身柄はパルチザンに引き渡され、その中にムッソリーニがいることを発見します。そうして、ムッソリーニはパルチザンによって逮捕されたのでした。この時のムッソリーニは、疲れ切っていて精神的に死んでいるように見えたとパルチザンの一人が回想しています。

処刑されることになった背景とは?

晩年のアレッサンドロ・ペルティーニの写真

ムッソリーニが逮捕された日の午後、パルチザンのリーダー「アレッサンドロ・ペルティーニ」がラジオで次のように宣言しました。

「無法者集団の首領であるムッソリーニは、憎悪と恐怖に満ちた様子で、スイスとの国境を越えようとしたところを逮捕された。ムッソリーニの身柄は、速やかにイタリア国民による法廷に引き渡され、裁かれねばならない。我々は、この男は銃殺の名誉に値しないと考えているが、それでも裁判にかけることが必要である。本来、ムッソリーニは不潔な犬のごとく殺されるべき男だ」

パルミーロ・トリアッティの写真

またイタリア共産党書記長であったパルミーロ・トリアッティは「ムッソリーニらファシスト党幹部の処刑を決定するために必要な条件は、彼ら本人であることの確認だけだ」と予め無線で命令していたといいます。

このことが正式な裁判も開かれず、ムッソリーニが処刑されたことへの要因の一つと挙げられます。反ファシスト党政権は、ムッソリーニの処刑を裁判前に既に決めていたのです。

ムッソリーニの最後の様子

ぺタッチの写真

ムッソリーニはジェルマージロという集落に移送され、彼の傍にいたいと希望したぺタッチも合流し、二人はジェルマージロの農家に監禁していました。イタリア共産党のヴァルテル・アウディージオという男が、二人をジュリーノ・ディ・メッツェグラと呼ばれる集落へと連れて行き、「ベルモンテ荘」の入り口 で停止し、そこでムッソリーニとペタッチは車から降りるように指示したといいます。

処刑地点

その後アウディージオは、ムッソリーニとペタッチを射殺します。処刑の時の様子はいくつか目撃者によって食い違いがあり、臆病にふるまったという証言もあれば、それを否定した証言もありました。またムッソリーニの最期の言葉が「心臓を狙え」だったというものもいれば、何も言葉を発さなかったと証言するものもいたそうです。

処刑後の検死報告書では、ムッソリーニは9発の銃弾を受けたとされ、別の報告書では7発の銃弾を受けたと述べられています。そのうち、心臓に近い位置の4発の銃弾が死因として示されました。これがムッソリーニの最後の公式発表です。

残酷な処刑をされたムッソリーニ

ムッソリーニの死を報じる星条旗新聞

処刑されたムッソリーニとペタッチの死体は、処刑された他のファシスト党幹部の死体と一緒にバンに積み込まれて、ミラノへと向いました。ミラノに到着すると、ムッソリーニらの死体はロレート広場の地面に投げ捨てられたといいます。ムッソリーニらの死体は積み重なった状態で一晩放置されました。見せしめのためでした。

ロレート広場では1944年パルチザンの襲撃および連合軍の空爆への報復として、15人のパルチザンが銃殺された後、その死体が見せしめに放置されたという経緯がありました。パルチザンがこの広場を選んだのはその報復だったのです。

処刑後の死体の様子

逆さづりにされるムッソリーニたち

ロレート広場の朝は、おびただしい数の群衆が広場に詰め掛けていたそうです。群衆は死体に野菜をぶつけ、唾を吐きかけ、尿をかけ、足蹴にしました。ムッソリーニの顔面は殴打され、変形するほどだったといいます。あるアメリカ人の目撃者は、これらの群衆を評して「邪悪で下劣、無秩序」であると述べたといいます。

ムッソリーニやぺタッチたちの死体は、ガソリンスタンドの骨組みに持ち上げられ、食肉用のフックに引っ掛けられて、逆さ吊りにされました。逆さ吊りというのは、吊るされた人物の「汚名」を強調するために北イタリアでは中世から行われてきた方法であったといいます。ただし実際にムッソリーニらを逆さ吊りにした人々によると、これは単に死体を群衆から保護するための処置であったそうです。

埋葬後の遺体盗難騒動

ドメニコ・レッチージの写真

ムッソリーニの死体はミラノ北部のムゾッコ墓地に埋葬されました。埋葬地に墓標は置かれませんでした。しかし約一年後の1946年に、ドメニコ・レッチージという名のファシストは埋葬場所を突き止め、2人の友人とともにムッソリーニの死体を掘り起こして盗んだのです。

その後16週間にわたって死体は転々と各地に運ばれました。その間別荘や修道院などを隠し場所として転々とし、最終的にムッソリーニの死体はミラノからさほど離れていないパヴィア修道院で、片脚が欠損した状態で発見されたといいます。

ムッソリーニの墓標

その後ムッソリーニの死体は、チェッロ・マッジョーレという小さな町のカプチン会修道院に置かれ、保管されていました。その後ムッソリーニが故郷のエミリア=ロマーニャ州プレダッピオに改葬されたのは死亡してから12年もたってからのことだったそうです。

ムッソリーニ最後のまとめ

いかがでしたでしょうか?筆者の祖母は生きている時にムッソリーニの演説を、ニュース映画で見ていたといいます。そう考えると大昔の人ではないのです。亡くなったというニュースを聞いたときは驚いたと言っていました。

ムッソリーニの最後は、裁判も行われずに処刑され、死して尚辱めを受けるという悲惨なものでした。一時は「ドゥーチェ(統領)」として神格化されるほど崇められた男の末路です。余りの変わりように驚いた方も多い事でしょう。この記事を通して戦争という闇が生み出した、人の心の闇を感じて頂けたら幸いに感じます。

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