イェニチェリとは何?スルタンに忠誠を誓った最強軍団とは

イェニチェリの歴史年表

14世紀後半:イェニチェリの創設

イェニチェリの創設時期には諸説あります。最も有力なのは14世紀後半のスルタン、ムラト1世がイェニチェリを創設したという説です。ムラト1世は小アジアの1国に過ぎなかったオスマン帝国領土を大きく拡大した君主でした。

ムラト1世がバルカン諸国と戦い勝利したコソボの戦い

1389年、ムラト1世はセルビアなどバルカン半島連合軍とコソボで戦い勝利し、オスマン帝国がバルカン半島で領土を拡大するきっかけを作りました。

1453年:コンスタンティノープル征服

コンスタンティノープルを征服したメフメト2世

1444年、メフメト2世は12歳で即位します。若いころは政局が不安定でしたが成長ともに政局は安定します。国内を安定化させたメフメト2世はビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの征服を目指します。

1452年、メフメト2世はイェニチェリ2万を含む10万以上の大軍で率いてコンスタンティノープルを包囲します。ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世はメフメト2世の降伏勧告を拒否します。1453年、オスマン帝国軍はコンスタンティノープルを総攻撃し陥落させました。

1514年:チャルディラーンの戦い

チャルディラーンの戦い(右側がオスマン帝国軍、左側がサファヴィー朝軍)

16世紀初頭、領土を拡大するオスマン帝国とイランで新たに成立したサファヴィー朝が国境をめぐって争いを繰り広げました。オスマン帝国のスルタン、セリム1世はサファヴィー朝のイスマーイール1世と雌雄を決するべく、東方に出兵します。

両軍はアナトリア高原東部のチャルディラーンの野で対峙しました。オスマン帝国軍の主力はイェニチェリを中心とする歩兵軍団です。一方、サファヴィー朝の主力はキジルバシュとよばれるトルコ系騎兵でした。

戦闘はサファヴィー朝軍騎兵の突撃から始まりました。キジルバシュの突撃はすさまじく、オスマン帝国騎兵を蹴散らします。しかし、イェニチェリ軍団は大量に装備した鉄砲や大砲の火力によってキジルバシュを粉砕します。

ドイツ三十年戦争で使用されたマスケット銃の発射再現

チャルディラーンの戦いは集団戦における鉄砲の威力をまざまざと見せつけました。以後、日本における長篠の戦いやヨーロッパの三十年戦争でも鉄砲が大活躍します。チャルディラーンの戦いは戦争の主役が騎兵から鉄砲を装備した歩兵に移り変わった瞬間だったかもしれません。

1529年:第一次ウィーン包囲

第一次ウィーン包囲をおこなった「壮麗者」スレイマン1世

16世紀前半、オスマン帝国はスルタン、スレイマン1世のもとで最盛期を迎えていました。1526年、バルカン半島の大国ハンガリーを破ったことでオスマン帝国の領土はオーストリアと接しました。

当時、オーストリアを支配していたのは神聖ローマ皇帝カール5世。スペイン王としてはカルロス1世であり、ヨーロッパ世界で最強の君主でした。

包囲されるウィーン(画面奥)と包囲するオスマン帝国軍(画面手前)

スレイマン1世はカール5世の都であるオーストリアのウィーンを目指します。イェニチェリ軍団を主力とするオスマン帝国軍は2週間にわたってウィーンに猛攻を加えました。しかし、ウィーン守備隊の頑強な抵抗にあったため、攻略を断念し撤退します。

第一次ウィーン包囲はオスマン帝国の強さをヨーロッパの人々に印象付けました。イェニチェリ軍団に付属する楽団が奏でたメフテルはウィーン守備隊にとって恐怖の曲となったことは想像に難くありません。

1793年:セリム3世の新軍創設と挫折

新軍を創設したセリム3世

1793年、セリム3世はオスマン帝国の軍事力を再建するため、新軍(ニザーム=ジェディット)を創設しました。新軍は西洋式の軍隊です。どうして、新しい軍隊を作る必要があったのでしょうか。

その理由は、イェニチェリを含む旧来のオスマン帝国軍が西洋式の軍隊に敗北を重ねたからです。第二次ウィーン包囲の失敗と、その後のオーストリアとの戦争の敗北によりオスマン帝国はハンガリーを失いました。

オスマン帝国を圧迫し、黒海沿岸から駆逐したロシアのエカチェリーナ2世

また、近代化に成功し国力を増したロマノフ朝ロシア帝国はオスマン帝国としばしば戦い、黒海北岸からオスマン帝国軍を駆逐します。セリム3世は規律を失い弱体化したイェニチェリにかわって西洋式の軍隊をつくることで、オスマン帝国軍の再建を図ったのです。

しかし、セリム3世の動きは旧来の軍事力のかなめであるイェニチェリの激しい反発を招きました。

イェニチェリや彼らを支持するイスラム法学者(ウラマー)はセリム3世に迫って新軍を廃止させます。そればかりかイェニチェリは1807年にセリム3世を廃位に追い込みました。

1826年:イェニチェリ廃止

イェニチェリを廃止したマフムト2世

セリム3世の次の次にスルタンとなったのはマフムト2世でした。マフムト2世はセリム3世と同じく西洋化改革の必要性を理解していました。しかし、あからさまに改革を推し進めるとイェニチェリら保守派によって廃位に追い込まれます。マフムト2世は慎重に改革をすすめました。

マフムト2世が復活させた西洋式新軍のムハンマド常勝軍

1826年、地盤を固めたマフムト2世は新軍の復活とイェニチェリの廃止を断行しました。いままで、イェニチェリを排除できたスルタンはいません。イェニチェリは大鍋をひっくり返し、スルタンに従わない意思をあらわにします。

イスタンブール市街でイェニチェリとマフムト2世の新式軍が激突しましたが、勝負は意外なほどあっけなくつきました。新式軍は短時間でイェニチェリを圧倒したのです。これにより、イェニチェリの廃止が決定しました。

イェニチェリに関するまとめ

いかがでしたか?

イェニチェリはオスマン帝国のスルタンに直属する常備歩兵軍団です。強力な火力で周辺国に勝利し、オスマン帝国の領土拡大に貢献しました。

オスマン帝国が拡大していた時は軍の中核として活躍したイェニチェリですが、軍制改革が必要になった18世紀には改革に反対する抵抗勢力となります。

自分たちの意に沿わないスルタンを退位させるイェニチェリは、スルタンにとって脅威でした。そのため、19世紀前半にイェニチェリは廃止されます。

今回の記事で、イェニチェリとは何か、イェニチェリの強さの理由、イェニチェリのエピソードについて知りたいといったことについて、「そうだったのか」と思える時間を提供できたら幸いです。

長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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