3C政策とは、イギリスが推し進めた植民地政策です。この時代にはイギリスだけでなく、ロシアやフランス、ドイツなど様々な強国が植民地や海上覇権を求めて競っていました。
「3C政策って具体的にどんな内容なの?」
「3C政策の目的や影響を詳しく知りたい!」
この記事を見ているあなたはこのように思っているのではないでしょうか。そこで、当時の大英帝国(イギリス)はどのようにして3C政策を展開したのか、また、3C政策は他の列強諸国にどのような影響を与えたか、などについて詳しく紹介していきます。
3C政策の経緯からその後の影響までの歴史について迫っていきますので、ぜひ最後までご覧ください。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
3C政策とは
3C政策はいつ始まった?
3C政策が始まったのは19世紀の終わり頃です。19世紀後半から20世紀前半にかけてイギリス帝国の植民地政治家であるセシル・ローズが推進していきました。
熱心な帝国主義者であったセシル・ローズは、アングロサクソン人こそが最も優秀な民族であり、イギリスが世界を支配することは人類の幸福につながると信じていた人種差別主義者です。
イギリス帝国が積極的に海外進出していたこの時代、同じように世界政策を唱えるドイツ帝国も帝国主義政策を展開していました。
3C政策の目的とは
帝国主義政策を推し進めるイギリス帝国が3C政策を展開した目的は、東アフリカからインド洋にかけての通商貿易の独占と制海権を獲得することにありました。
3C政策とは、インドのカルカッタ・エジプトのカイロ・南アフリカのケープタウンを結ぶ三角形地帯です。この三角形の領域内を抑えることがイギリス帝国の狙いでした。
しかしイギリスの3C政策は、ドイツの3B政策やロシアの南下政策、フランスのアフリカ横断政策など列強各国の植民地政策と衝突することになります。
3C政策に関わった都市
3C政策における3Cとは、カルカッタ・カイロ・ケープタウンを指します。
カルカッタとは、インドの西ベンガル州に位置する世界屈指の大都市です。イギリス領インド帝国の時代には首都として機能していました。独立後には、イスラム教徒とヒンドゥー教徒による武力衝突など様々な困難にぶつかりましたが、現在では首都デリーやインド最大の都市ムンバイを超える人口密度を有した都市となっています。
エジプトの首都であるカイロは、アラブ文化圏で最も人口の多い都市であり、世界的にも影響力があるグローバル都市です。カイロの中心都市はナイル川の東側に位置しますが、ナイル川を挟んで対岸の西側にはクフ王のピラミッドや大スフィンクスで知られるギーザの町があります。
ケープタウンは南アフリカ共和国の都市です。元々は17世紀にオランダがアジア進出する際に建設した補給港で、イギリスの占領下に入ったのは19世紀初頭のことでした。現在ではアフリカ有数の世界都市となっています。
3C政策の名前の由来
3C政策という名称は、カルカッタ・カイロ・ケープタウンの3つの都市の頭文字である「C」を取って名付けられました。
また、3C政策の推進者であったイギリスの植民地政治家セシル・ローズの名をとって「セシルの夢」と呼ばれることもあります。
この時代、ドイツ帝国はベルリン・ビザンティウム・バグダードの3つの都市の頭文字「B」をとって名付けられた「3B政策」を展開していました。