徳川吉宗は18世紀に活躍した江戸幕府8代目の将軍です。時代劇「暴れん坊将軍」で有名ですが、実際には何をした人かご存知ですか?吉宗が行った「享保の改革」という用語は学校で習って聞いたことがあるものの、具体的な内容はよくわからないという人も多いのではないでしょうか。
吉宗は、危うかった江戸幕府を立て直した名君でした。吉宗が将軍に推されたのも、紀州藩主時代の財政再建が成功したという実績があったからとも言われています。
もし吉宗が8代将軍に就任しなければ、江戸時代はもっと早く終わっていたかもしれません。この記事ではそんな江戸幕府の「中興の祖」である吉宗について、その性格や功績、生涯をご紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
徳川吉宗とはどんな人か?
名前 | 徳川吉宗 |
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通称 | 新之助、米将軍、八十八将軍 |
時代 | 江戸時代中期 |
誕生日 | 貞享元年10月21日(1684年11月27日) |
生地 | 紀伊国(現在の和歌山県と三重県南部) |
埋葬場所 | 東叡山寛永寺円頓院(台東区上野) |
配偶者 | 正室:真宮理子女王 側室:深徳院、深心院、本徳院、覚樹院、おさめ、お咲、他 |
徳川吉宗の生涯をハイライト
徳川吉宗は17世紀終わりごろ、徳川御三家の一つである紀州藩の2代目藩主、徳川光貞の4男として生まれました。家康にとってはひ孫に当たります。4男ということもあり、1697年に越前葛野藩主となり、そのまま生涯を過ごすと思われた矢先、紀州藩主となった兄が次々に亡くなり、5代目紀州藩主となります。
紀州藩主時代の12年間、藩の政治を引き締めると共に財政の立て直しに積極的に取り組みました。倹約や米の増産など、のちに幕府の財政改革で行われる施策は紀州藩主時代に行われ、成果を出していたのです。
1716年、徳川将軍家直属の血筋を受け継ぐ者がいなくなってしまったため、吉宗が第8代将軍に就任します。徳川家康時代への復古を掲げた経済・社会政策は、年貢の収入を増やし、財政を安定させました。享保の改革は、寛政の改革など後に実施される幕政改革の手本となります。
また、洋書の輸入制限を緩めたことは、蘭学が発達するきっかけとなりました。それが少しずつ実を結ぶようになるのは、前野良沢や杉田玄白ら洋学者が出てくるようになる、吉宗の死後のことです。
1745年、将軍職を息子の家重に譲り、大御所となります。1751年、脳卒中により息を引き取りました。歴代の将軍は霊廟を作りそこに葬られていましたが、吉宗は霊廟を建てることを禁止したため、5代将軍綱吉と同じ霊廟に合祀され、寛永寺に眠っています。
徳川吉宗が行った享保の改革は?
徳川吉宗といえば、享保の改革です。享保の改革は、江戸時代後半に行われた寛政の改革や天保の改革と並んで、「江戸の三大改革」とも称されています。
享保の改革は、徳川吉宗が主導で行った幕政改革のことです。享保の改革では、主に財政難だった幕府財政の再建が目的でした。
主に行った内容としては、下記の通りです。
- 質素倹約の実施
- 庶民の意見を聞くために目安箱の設置
- 公事方御定書の発布で司法制度を改革
- 小石川養生所を設置して、医療改革
- 定免法や上米令による幕府財政収入の安定化
- キリスト教関連書籍以外の洋書輸入解禁
- 新田開発の奨励
- 風俗取り締まりや出版統制
しかし享保の改革は、目安箱や小石川養生所などといった良いところもありつつ、悪いところもありました。倹約と増税によって財政再建を目指し、年貢を上げるというものだったので、農民や庶民空は反発するものが続出しました。
当初は享保の改革を支持する庶民が多かったものの、庶民にまで質素倹約の奨励、さらに農民に対する年貢の負担が多くなったことで、次第に支持を無くしていくのでした。
徳川吉宗の性格や特徴は?
徳川吉宗は、幼い頃から学問に明るかったことから、勤勉家で切れ者だったとされています。また、武芸や芸事にも優れた、文武両道タイプでもあったそうです。
徳川吉宗は、新しい物好きで好奇心旺盛の理論派の性格だったようです。なんと、海外からの絵画や学問、書籍にも大いに興味を示しており、キリスト教関連以外の洋書の輸入を許可します。
この影響から、長崎を中心に蘭学ブームが起こったとされているくらいなんです。徳川吉宗の新しい物好きの極めつけは、自らベトナムからゾウを輸入してしまうほど!
徳川吉宗のもとへ陸路で運ばせていたそうなので、長崎から江戸をゾウが闊歩していたんですよ。
安倍川餅にバター?!食べ物の逸話が多い吉宗
徳川吉宗には食べ物に関する話がたくさん残されています。今も静岡県の名物である安倍川餅は好物で、毎年地元出身の家臣に作らせていました。現在も酪農で知られる千葉県に牛を輸入し、繁殖を始めたのも吉宗です。そこで作られた乳製品は「白牛酪」と呼ばれていました。今でいうバターのようなものだったようです。
今やおせち料理に欠かせない「数の子」ですが、これをお正月料理に加えるよう勧めたのは吉宗でした。贅沢品ではありましたが、お正月ぐらいは皆で食べて新年を祝おうと考えたのです。
現代では一般的な食材になっている「小松菜」の名前をつけたのも吉宗と言われています。現在の東京都江戸川区小松川付近で栽培されたこの野菜は、吉宗に献上された際に名前がついていなかったため、「小松川」の地名から「小松菜」と命名されたのです。
若くして亡くなった吉宗の妻たち
理子女王(寛徳院)
徳川吉宗には正室として理子(まさこ)女王がいます。伏見宮貞致(さだゆき)親王の王女で、吉宗が紀州藩主時代の1706年に正室に迎えられましたが、1710年、死産をしてから産後の肥立ちが悪く、この世を去りました。吉宗は将軍になってからも御台所は迎えていません。
須磨(深徳院)
のちに第9代将軍となる家重の生母は、須磨と呼ばれた深徳院という側室です。須磨はその後もう一度懐妊したものの、難産により命を落としました。
古牟(本徳院)
須磨の死後迎えた側室は古牟(こん)という本徳院で、のちの田安宗武を出産しました。しかし28歳の若さで他界してしまいます。
梅(深心院)
紀州藩主時代の側室として、梅と呼ばれた深心院もいます。のちの一橋宗尹の生母です。しかし梅も20代の若さでこの世を去りました。
久免(覚樹院)
梅も失った吉宗は、久免という覚樹院を側室にします。久免は芳姫(正雲院)を出産しますが、翌年夭折してしまいました。久免自身は長生きをした女性で、吉宗の最期を看取ることのできた唯一の側室となりました。
徳川吉宗の功績
功績1「徳川幕府を立て直した中興の祖」
徳川吉宗は、江戸幕府中興の祖と言われます。なぜなら、社会の変化とともに機能しなくなっていた幕府の官僚機構や制度を整備して使いやすくしたほか、幕府財政を立て直し、江戸幕府の安定した政治体制を取り戻したからです。
幕府の制度改革としては、お金の貸し借りに関する訴訟が増えてきたため、相対済し令により当事者同士により解決できる仕組みを作りました。また、訴訟を速やかに行えるように、裁判や刑罰の基準となる法典「公事方御定書」を編纂しました。
幕府財政に関しては、第5代将軍綱吉の頃から大きな問題となっていました。幕府が直接管轄する金銀山からの産出量が減って収入が減っただけではなく、1657年に起きた明暦の大火からの江戸の復興資金がかさみ、財政難となっていたのです。
吉宗は、倹約で支出を抑えるだけでなく、「足高の制」で在職中だけ役高の不足分を加えるなど経費を減らす工夫もしました。また、新田開発を推し進めて年貢収入を増やし、米の価格を調節することで、幕府の財政は上向きに転じたのです。
功績2「さまざまな米に対する政策を実行した「米将軍」」
徳川吉宗は「米将軍」とも呼ばれます。それは吉宗が、米の生産量から価格にまで気を配っていたからです。江戸時代、米相場は幕府の財政に直接関係していました。そのため吉宗は、米にこだわることで幕府の財政再建ができると考えたわけです。
吉宗は、年貢米収入を増やしたことで市場に過剰な米が出回り、他の物価に比べて米だけ低価格になってしまった状況を改善しようとします。なぜなら、年貢米を販売・換金して貨幣で収入を得る幕府にとって、この状況が不利だからです。
まず、1730年に堂島米相場を公認し、米の価格を引き上げます。しかし1732年に享保の飢饉が起き、米の価格が高騰したため、非常のために備蓄している囲米(かこいまい)を出すことで米価を引き下げました。
次に吉宗は、1736年から元文金銀を発行して貨幣の流通量を増やし、経済活動を盛んにして物価全体を引き上げ、それによって米価の調整も図ろうと考えました。そして年貢収入を増やす政策も同時並行で行っていた結果、幕府財政は立ち直ったのです。
功績3「御三卿を創設 」
徳川吉宗は時代が経つにつれ、御三家と徳川将軍家との関係が遠くなってきたため、将軍の後継を出すことを目的に、自分の息子たちを祖とする徳川分家を創設しました。のちの御三卿です。
田安家
次男宗武は田安家の初代となります。幕末、徳川慶喜が謹慎となった後、田安家7代目亀之助が徳川宗家を相続し、第16代目徳川家達(いえさと)となりました。寛政の改革で知られる松平定信や、越前福井藩主となった幕末の四賢公の一人である松平慶永(春嶽)も田安家の出身です。
一橋家
4男宗尹(むねただ)は一橋家の初代です。第11代徳川家斉と第15代徳川慶喜は一橋家の出身です。慶喜はもともと御三家である水戸家第9代藩主徳川斉昭の7男でしたが、後継者のいなかった一橋家を継ぐことになりました。
清水家
清水家が創設されたのは吉宗の死後のことで、第9代将軍徳川家重の次男である重好を初代とします。清水家6代目昭武は第15代将軍徳川慶喜の弟にあたり、パリ万国博覧会へは慶喜の名代として出席しています。