【年表付】徳川吉宗とはどんな人?行なった改革やエピソード、妻も紹介

徳川吉宗にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「江戸幕府歴代将軍の中でもトップクラスの実力者」

リーダーとしての資質を発揮した

徳川吉宗は、困窮していた江戸幕府の財政を立て直したことから、多くの歴史かの間では「江戸幕府歴代将軍の中でもトップクラスの実力を持つ人物」という声があります。

また、失敗とはいえど幕政の大きな刷新や公共施設や公共事業を解放したという功績からも、その実力がうかがい知れます。

自ら実践するタイプだったということからもアクティブな将軍だった様ですし、庶民からも最初は「天下一」と謳われ、評判も高かったそうです。

都市伝説・武勇伝2「女性関係がお盛んだった」

女好きとしても逸話が残る

徳川吉宗は、その”暴れん坊”な性格から、相当女性好きでもあったんだとか。外出中に立ち寄った茶屋の女性に手を出してみたり、通りかかった農家で働く女性をそのまま連れ帰り側女(そばめ)にしたりと、その色目っぷりはすさまじかったようです。

そんな徳川吉宗の女性関係には、部下である大河ドラマ『大岡越前』のモデルにもなっている大岡忠相(おおおかただすけ)も、手を焼いていたそうですよ。 なんせ、徳川吉宗の子供だと訴えてくる母子がたびたび現れていたのですから。

都市伝説・武勇伝3「身長が180cmもあった?!」

徳川歴代将軍の位牌が並ぶ大樹寺

徳川吉宗は大柄な体格で、身長も180cm以上あったと言われています。しかし、一方で155.5cmという説もあります。これは徳川氏の菩提寺である大樹寺(愛知県岡崎市)にある位牌の大きさからきています。歴代将軍の位牌は全て、臨終時の身長と同じだと言われているのです。

徳川家康の葬儀を行ったことで徳川家の菩提寺となった増上寺

ただ、この位牌の高さを測ってみると、第5代将軍徳川綱吉は124cm。本当に小さな方だったのでしょうか?また、徳川家菩提寺の増上寺で将軍家墓地の改葬をした際、第14代将軍徳川家茂は遺骨から身長は157cm前後と推定されましたが、大樹寺の位牌の高さは151.6cm。果たしてどれが正しいのでしょうか?

徳川吉宗の略歴年表

*日付は旧暦にて表示

1684年
紀伊で生まれる

徳川吉宗は、1684年10月21日に、紀州徳川家の四男坊として(三男という場合もある)誕生しました。

1716年
江戸幕府第8代将軍就任

江戸幕府第7代将軍である徳川家継の早世により、江戸幕府第8代将軍に抜擢されました。

1716年
享保の改革スタート

将軍に就任した徳川吉宗は、早速幕政改革である享保の改革をスタートさせていきます。

1745年
将軍を譲り、大御所となる

将軍の職を長男である徳川家重に譲るものの、徳川家重は虚弱で障害を持っていたことから、実際は徳川吉宗が大御所として実権を握っていました。

1751年

1746年に脳卒中で後遺症を残しながらも、回復。しかし、1751年に息を引き取ります。死因は同じく、脳卒中だと言われています。

徳川吉宗の具体年表

1684年 – 0歳「紀伊国で生まれる」

1684年、紀伊徳川家で生を受ける

徳川吉宗は1684年10月21日に、紀州徳川家の四男坊として、誕生しました。家族構成は以下の通りです。

  • 父:徳川光貞
  • 母:浄円院
  • 長男:徳川綱教
  • 次男:徳川次郎吉
  • 三男:徳川頼職
  • 四男:徳川吉宗(松平頼久)
  • その他5名の姉妹あり
紀伊藩の中心 和歌山城

また、徳川吉宗には5人の姉妹が存在するといわれています。ですが、名前は諸説あるため、こちらでは割愛させていただきます。徳川吉宗は幼少期、”源六(げんろく)”という名前でした。高齢の父を持つと健康に育たないという迷信から、騎手徳川家家老に一度拾われた設定を取られ、育てられています。

次男である徳川次郎吉が若くして病死した後は、自分の名前を”新之助(しんのすけ)”と改めています。この時から、手に負えないほどの”暴れん坊”だったとされています。ここから、私たちが知る”暴れん坊”将軍の異名が付いたのです。

1697年 – 14歳「越前葛野藩主になる」

徳川綱吉に会い、越前の国丹生郡3万国を拝命

江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉

徳川吉宗は、弱冠14歳で越前葛野藩主(現在の福井県丹生郡越前町)となります。そしてこれを機に、自身の名前を松平頼久(まつだいらよりひさ)から、松平頼方(まつだいらよりかた)と改めました。実は、徳川吉宗はこの時に、当時の江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉と謁見しているのです。本来、父である徳川光貞と兄の徳川綱教・徳川頼職が、徳川綱吉と謁見する予定でしたが、当時の老中である大久保忠朝(おおくぼただとも)の気遣いで、謁見が適ったというわけです。

1705年 – 22歳「突如舞い込む、紀州藩藩主の座」

兄たちの死により紀州藩主となる

突然藩主の座を手に入れる

”徳川吉宗”が”吉宗”の名前になったのは、紀州藩主の座が舞い込んだことからです。1705年に、兄の徳川綱教が亡くなり、さらにそして父・徳川光貞と、徳川頼職が相次いで亡くなるという事象が、半年の間に相次いでしまうのです。このことから、徳川吉宗は自分の生まれ育った紀州国の藩主を必然的に務めることとなり、第5代紀州藩主を相続することになったのです。この際に、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉より”吉宗”の名前を授かったのでした。

1710年 – 27歳「紀州藩を大改革」

紀州藩の藩政改革を実行し、手腕を発揮する

藩の大幅改革に着手

1710年に紀州藩に入った徳川吉宗は、早速紀州藩の大幅改革に着手します。ここで、質素倹約や藩政の仕組みを簡素化し、自らも木綿の服を着るなどとして、紀州藩の財政を再建していったのです。当時の紀州藩は、相次いで亡くなった2人の兄と父の葬儀費用や、これまで幕府から借りていた借金、更には天災の復旧等で、財政難に陥っていました。この藩政改革は、享保の改革の前進ともいえますよね。

1716年 – 33歳「江戸幕府第8代将軍就任」

徳川吉宗、江戸幕府第8代将軍となる

1716年、江戸幕府第7代将軍だった徳川家継が8歳という若さで早死にしてしまい、徳川家康の血筋である、徳川将軍家の血筋は途絶えてしまいます。これを受けて、徳川御三家から新たに次の将軍を出さなければならない、という自体に陥ってしまうのです。

江戸幕府第7代将軍 徳川家継

本来であれば、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠血統で、徳川家継の叔父に当たる、館林藩主(当時の群馬県館林市周辺)の松平清武(まつだいらきよたけ)という人物が正統な後継者でした。しかし当時の館林藩は、重税による一揆が発生していて、館林藩統治が不安定でした。

さらに、松平清武自身も既に他家に養子でやってきた身。既に高齢であったことに加え、松平清武自身も将軍職に対して野心が無かったことから、将軍候補としては除外されていたのです。また、裏では同じ御三家の尾張徳川家(今の愛知県)でも藩主が相次いで亡くなるという事件が勃発。一説では徳川吉宗方の策略により殺されたのではないかと言われていますが、定かではありません。

そんなこんなで、徳川吉宗は江戸幕府に入ることとなったのです。

側用人を容赦なくクビ宣告

新井白石

江戸幕府に入った徳川吉宗がまず行ったことは、新井白石と間部詮房(まなべあきふさ)クビ宣告です。第6代将軍・徳川家宣から幕政へ関わっていた新井白石と間部詮房ですが、第7代将軍となった幼い徳川家継の側用人だったものの、この時にはすでに政治的な力を失っていました。そのため、徳川吉宗は大胆に人事を変革し、新井白石と間部詮房の両名をクビにする異にし、徳川吉宗自身が政治のかじを取ることとなったのでした。

徳川吉宗、享保の改革を開始

改革は庶民に負担を強いた

これまで政治的に力を持っていた、新井白石と間部詮房の罷免(クビ)をした徳川吉宗が次に行ったのが、幕政改革である享保の改革です。享保の改革は、新井白石の代で起こったデフレを解消すべく、幕府の財政を立て直すことに注力を注ぎながら、広く世間の意見を募集し、政治に反映させていく、というものです。

当初は、国民からも大きな支持を得ていた徳川吉宗の享保の改革ですが、増税が厳しくなったことにより、百姓が貧困となったことで、百姓一揆が頻発しまいます。さらに、庶民にも質素倹約を実施してしまったことから、文化や経済が停滞し、民衆の心は次第に離れていったのです。

1745年 – 60歳「大御所としてウラで権力を握る」

徳川吉宗、家督を徳川家重に譲り、表舞台から消える

徳川家重

徳川吉宗は、60歳まで江戸幕府の財政再建に尽力をし、ついに60際になった1745年に、将軍の位を自分の息子である徳川家重に譲り、表舞台から姿を消します。しかし、息子である徳川家重は言語に障害をきたしていることから正常な政治を執り行うことが出来ませんでした。そのため、徳川吉宗は、実質大御所として裏で息子・徳川家重のサポートをしていたのでした。

1751年 – 68歳「死去」

徳川吉宗、脳卒中にかかる

脳卒中に倒れる

大御所として裏で息子のサポートに回っていた徳川吉宗ですが、実はこの間に中風(現代の脳卒中)にかかり、半身不随と言語障害になったとされています。それでも諦めなかった徳川吉宗は、一生懸命リハビリを行ったのでした。その結果、後遺症を克服し、江戸城の西の丸から本丸まで歩けるまでに回復したのです。

また、徳川吉宗はリハビリのために、江戸城に現代のバリアフリーに近いシステムを作らせたんだとか。

脳卒中の再発により亡くなる

しかし、その回復も束の間。徳川吉宗は、脳卒中を再発し、1751年の6月20日にこの世を去ったのでした。将軍引退後、6年の月日が経過したころでした。

徳川吉宗の死因とは?体格・体質・性格から病気の原因を徹底解説

徳川吉宗の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

学習まんが 少年少女 人物日本の歴史 徳川吉宗

徳川吉宗の生涯について、簡単に知るためにはまずはマンガがおすすめです。

主に文章だけではわかりづらい、享保の改革についてを絵で見ることもできますので、理解を深める第一歩につながります。こちらは電子書籍のため、空いた時間にサクサク読み進めることができますよ。

徳川吉宗―日本社会の文明化を進めた将軍 (日本史リブレット人)

この本では、主に徳川吉宗の全体像をバランスよく描いている書籍です。”暴れん坊”ではない徳川吉宗の姿を知ることができる本ですので、読みごたえバツグンです。

一身二生 吉宗の遺言

ご存じでしたか?実は日本地図を作った伊能忠敬(いのうただたか)は、徳川吉宗の遺言をもとに初めて日本地図を作ったことを。

本書は、伊能忠敬を中心に描かれているものの、徳川吉宗ファンでも楽しめる一冊となっています。

上記以外にも吉宗について学べる書籍は以下の記事で紹介していますので、お気に入りの本を探してみてください!

徳川吉宗をよく知れるおすすめ本6選【伝記から解説書、小説や漫画まで紹介】

おすすめ動画

【中学 歴史】 江戸時代7 享保の改革 (16分)

家庭教師でおなじみのトライが作成している、享保の改革についてポイントを押さえた動画です。歴史が苦手でも、ゆっくりわかりやすく説明してくれるので重宝できますね。

おすすめ映画

超高速!参勤交代 (2014)

実は、『超高速!参勤交代』は、徳川吉宗の統治下での物語だったということをご存じでしょうか?

超貧乏藩が、徳川吉宗幕政下での無茶ぶりな参勤交代をどの様に切り抜けていくか、笑いあり、涙ありで見守りましょう。

劇場版 仮面ライダーオーズ WONDERFUL 将軍と21のコアメダル

仮面ライダーオーズと、俳優・松平健が演じる暴れん坊将軍・徳川吉宗の奇跡のコラボレーションが映画にあります!歴史が苦手でも、仮面ライダーと絡めて面白く鑑賞することができますよ!

おすすめドラマ

暴れん坊将軍シリーズ

やはり徳川吉宗のドラマといえば、俳優・松平健が演じる暴れん坊将軍で間違いなし!なんと、1978年から2002年の間レギュラー放送されていて、総シリーズ数は12に及び、そこからドラマスペシャルなど、盛沢山!

関連外部リンク

徳川吉宗についてのまとめ

徳川吉宗について、余すところなくご紹介しましたが、いかがでしたか?

徳川吉宗は、どうしても大河ドラマ『暴れん坊将軍』のイメージが強くついてまといまがちです。

しかし、実際の人物となるとまた違うイメージがチラホラと出てくるため、味のある人物だなと改めて感じました。

私たちは、実際に存命の時の本当の徳川吉宗を知りませんが、徳川吉宗が残した功績は、今の時代の私たちの生活にも根付いています。

今回の記事で、ますます徳川吉宗に興味を頂いていただければ幸いです。

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