「太宰治に子供っていたの?」
「太宰治の子供や子孫がどんな人なのか知りたい!」
この記事を訪れたあなたはそんな疑問を持っているのではないでしょうか。
結論から言うと、太宰治には4人の子供がいます。妻・石原美知子との間に3人、愛人・太田静子の間に1人の子供を授かったのです。もちろん子供の中には、太宰の文才をしっかりと受け継いだ子や孫もいます。
愛人関係を築いたり酒に溺れたりと、破天荒な生き方をした太宰治。子供たちはそんな父の背中を見ながら育ったため、自分の生い立ちに複雑な感情を抱くことも多かったそうです。
この記事では、太宰治の4人の子供がどんな人だったのか解説し、父・太宰治との複雑な関係性についても述べていきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
太宰治には子供が4人いた
38歳の若さでこの世を去った太宰治ですが、その生涯のうちに4人の子供をもうけます。そのうち3人が正妻・石原美知子との子供、1人が愛人・太田静子との子供でした。
破天荒で退廃的な人生を送った太宰は、子供たちにも複雑な心情を植え付けることになりました。父の才能を受け継ぎ、作家になってその胸のうちを手記に残している子供もいます。
太宰治の子供たちはどんな人だったのか。さらには父・太宰治とどのようにかかわってきたのか。受け継いだ文才をどう活かしたのかなども含めて、詳しく解説していきます。
石原美知子と3人の子供
石原美知子は太宰の正妻です。1939年、井伏鱒二のすすめでお見合いののちに結婚しました。「十二月八日」や「親友交歓」など太宰の有名作品にも登場しており、太宰にも大きな影響を与えた女性です。
石原美知子との間に生まれた子供たちについて紹介します。
津島園子
太宰治と石原美知子の長女が津島園子です。太宰治が31歳の時に誕生しました。しかし、園子が7歳の時に、太宰治は亡くなります。
園子は早稲田大学卒業後、23歳の時に太宰の長兄であり国会議員であった文治の紹介で津島雄二と結婚。雄二がパリの日本大使館に勤務していたために挙式もパリで行いました。
園子は兄弟の中でも、特に太宰の功績を世に残す活動に尽力しました。太宰治賞や太宰治展の事業に非常に協力的だったそうです。
園子自身は、油絵が好きで大きな展覧会も開いていました。太宰の作品にもよく「油絵の絵画」が登場します。そのような文化的な一面が園子にも大きな影響を与えていたのが考えられますね。
太宰治は一番最初に生まれた子供に「千代」と名付けたかったそうですが、同じく「千代」という名前の妻を持つ中学の同級生・阿部合成に聞きにいったところ、千代本人から「男運が悪いからやめた方がいい」と言われ、「園子」に変えたそうです。
破滅的に見える太宰治でも、子供には大きな父性と愛情を注いでいたのが分かるエピソードですね。
津島正樹
石原美知子との間に生まれた長男が津島正樹です。
正樹はダウン症がありました。そして15歳の若さで肺炎で亡くなっています。
太宰治は『桜桃』の中で、正樹と思しき子供への懊悩について記述しており、4歳になっても言葉を話せない正樹に対して、太宰も美知子夫人もかなり深く悩んでいたのが分かります。
妹の佑子の手記によると、正樹は非常に絵を描くのが好きだったようです。亡くなる15歳になった時に、口で意思表示をできるようになったとも記述されています。
若くして亡くなったのは残念ですが、家族からはたくさん心をかけられていたのが分かります。
津島佑子
次女は佑子(本名は里子)。太宰の文才を最も受け継いだと言っても過言ではなく、多数の文学賞を受賞した小説家です。佑子が1歳の時に、太宰治はこの世を去っています。
佑子は大学時代から文学作品を発表するようになり、その才能を開花させます。「父である」という理由から太宰治作品もよく読んでおり、その影響を受けていたとか。他にも芥川龍之介や谷崎潤一郎の作品を愛読していました。
父や兄の死、さらにはパートナーとの離別を通じて、人間の孤独を追及した作品群で高い評価を受け、著作の多くが英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・オランダ語・アラビア語・中国語に翻訳されました。また、NHK連続テレビ小説『純情きらり』は、『火の山―山猿記』が原作です。
私生活では、25歳の時に長女を出産。その後、離婚。新たなパートナーにも出会いますが再婚をしませんでした。しかしそのパートナーとの間に生まれた長男を、呼吸発作のために8歳の若さで亡くしています。
文学者としての活動にも積極的に参加し、1991年には「湾岸戦争に反対する文学者声明」を柄谷行人、田中康夫、中上健二らとともに発表しました。
愛人である太田静子との子供「太田治子」
太田静子は太宰治の愛人の一人です。太宰の愛読者であった弟のすすめで『虚構の彷徨』を読んだのをきっかけに、太宰治へ日記風告白文を送ったところ、太宰から「お気が向いたら、どうぞおあそびにいらして下さい」と返事をもらいます。ここから二人の親交がスタートし、結果として二人の間に「太田治子」が産まれました。
治子の名前は、太宰治の「治」から由来しています。静子の弟から太宰へ「子供を認知してほしい」という懇願を受け入れた証に「治」の字を与えたのだそうです。
治子が7ヶ月の時、太宰は自殺。治子は母・静子や静子兄弟に助けられつつ育ちました。高校の頃から手記を出版し、明治学院大学では英米文学を専門に勉強。「紀行」という作品で婦人公論賞を受賞するなど、その文才を発揮しました。直木賞候補に挙がったこともあります。
また絵画にも精通しておりNHKのテレビ番組「日曜美術館」の初代アシスタントも務めていました。絵画への知識は、母・静子からの強い影響だったようです。
太宰治の文才を受け継いだ子孫たち
退廃した人生を送った太宰治ですが、その文才は非常に高かったことは自明の事実。その子孫の中には太宰と同じ小説家の道を歩んだ人々がいます。その子孫たちについて紹介していきます。
津島佑子
1人目は、石原美知子との間に生まれた次女・津島佑子です。津島佑子は若い頃から文学を非常に好み、大学生の時に同人誌『よせあつめ』を創刊するほど、文学活動に積極的に参加しました。
不在の父との関係性や、子供を亡くした経験を通じて、親子関係や孤独をテーマにした作品を多数発表。『草の臥所』で泉鏡花文学賞、『風よ、空駆ける風よ』で伊藤整文学賞を獲得するなど、名立たる文学賞を受賞しました。
また、その作品の多くが多数の言語に翻訳されているのも特徴です。国際的にも高い評価を得、父の名前に負けないほどれっきとした小説家として活躍しました。
太田治子
2人目は、太田静子との間に生まれた太田治子です。治子は、太宰の自殺後、静子の女手一つで育ててもらった経験から、母をモチーフにしたエッセイを多く著しました。坪田譲治文学賞受賞を受賞した『心映えの記』もその一冊で、直木賞の候補にも挙がりました。
母の影響で美術にも深い造詣があり、美術書や名画にまつわるフィクションの著作が多数あります。出産後は娘の万里子をテーマにした作品も発表し、現在も文筆業を主に活動しています。
石原燃
3人目は津島佑子の娘であり、太宰治の孫にあたる石原燃(いしはらねん)です。1972年生まれの小説家、本名は津島香以(かい)といいます。ペンネームの「石原」は、祖母・石原美知子の苗字から由来しているそうです。
若い頃から劇団の劇作家として活躍していますが、2020年『赤い砂を蹴る』がデビュー作にして芥川賞候補にノミネート。劇作家として描く戯曲は原発問題を扱うなど社会派のイメージが強い一方、小説では「母の死」をテーマに人間の喪失体験について描き、その緻密な筆致が高く評価されました。
太宰治が祖父である背景についてあまり深く言及することはなく、その作品にも「印象が無い」と答えています。その反面、小説家の母・津島佑子からは多大な影響を受けており、今回のデビュー作も母の死をきっかけに書き始めたのだそうです。
今後、どのような作品を発表されるか楽しみですね。
父・太宰治と子供たちの複雑な関係
太宰治が複数の女性との間に子供をもうけたことで、女性はもちろん子供たちの心にも暗い影を落としたことは想像に容易いでしょう。父親が太宰治であるということは、文豪の子供である反面、不倫や自殺をした父を持っているを示しています。
このような事実を前にした子供たちは、父・太宰治とどのようにかかわってきたのでしょうか。その複雑な関係性について解説します。
太宰治と津島佑子の関係
石原美知子との間に生まれた次女・佑子は、小説家として活躍しました。発表作品の中には、父・太宰治への複雑な胸の内を書いているものも少なくありません。佑子が1歳の時に太宰治は亡くなっているので、一緒に過ごした時間は限りなく少ないですが、佑子の心には父の存在が強く残っていたようです。
韓国人作家との往復書簡を書籍化した『山のある家 井戸のある家』の中では、「父について誰にも何も聞かれないようにと幼い頃から願っていた」と記されています。小学4年生の時には同級生に父親のことを聞かれ、図書館の辞書で調べたこともあるのだそう。「入水」の意味を司書の先生に聞いてしまったこともあったとか。
複数の女性と関係を持ち自ら亡くなった父親がいることによって、「男性は家庭を裏切る」という価値観を抱いてしまったとも記述されています。
文豪・太宰治が父であることにより、佑子は文才を受け継ぎつつも、どこか孤独で暗い感受性を持ち合わせてしまった事実は否めないでしょう。
太宰治と太田治子の関係
太宰治と太田静子は不倫関係だったために、太宰は治子に一度も会ったことがなかったようです。しかし、太宰は自分の名前の一字を取って、その子供に「治子」と名付け認知しました。
治子は静子の手ひとつで育ち、画家や小説家として活躍しました。晩年には『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』を発表し、父母への思いや自身の生い立ちについて深く言及しています。
治子は太宰治作品を長く読むことができずにいました。それは、私生児である事実に真正面から向き合うのを恐れていたからだったそうです。母・静子をモデルにした作品『斜陽』にも複雑な思いを抱いていたとか。「斜陽の子」と呼ばれるのにも嫌な思いがありました。
しかし、治子の心を支えたのは母・静子の頑張る姿でした。親戚に勘当されても懸命に自分を育ててくれた母の姿を思うたびに、いろいろな生き方があっても良いと肯定できたと語っています。
さらには婚外子の多いフランスで『斜陽』がよく読まれている事実にも励まされたこともあったそうです。治子自身は40歳の時に結婚し、娘・万里子を出産。その後に離婚した過去を持っています。
太宰治はどんな性格だった?女性関係や作品から見える人物像とは
異母姉妹に交流はあったのか?
結論から言うと、津島家の兄弟と、太田治子との間に交流はありませんでした。正妻の子供と、愛人の子供。双方の心に複雑な心情があったことが想像できます。
しかし、津島佑子は手記の中で「ぞくぞくと私の知らない兄弟姉妹が現れるのかもしれない、と期待したりもしました」と記述しています。
それぞれがどんな思いを抱えていたのかは、子供たちの創作作品の中から垣間見ることができるかもしれません。
太宰治子供に関するまとめ
いかがでしたか?
文豪・太宰治の文才が、子供たちにも脈々と続き今も息づいているのを体感する一方で、彼女たちの心の中に巣食う孤独感や複雑な感情もひしひしと伝わってきた執筆でした。子供たちの文学センスと複雑な心境の二面性は太宰の退廃さがなければ成立せず、その皮肉感に胸が痛くなる瞬間もありました。
太宰治の子供たちの作品を読めば、より深く人間の心の機微に迫れると思います。そして多くの読者に豊かな感情をもたらすでしょう。
1985年生まれ、青森市出身・在住の者です。
数年前から太宰 治 氏(津島 修治さん)の人柄や小説作品に興味を抱くようになり、青森市内にある身近な太宰ゆかりの地・【浅虫地区】や【合浦公園】にはより頻繁に足を運ぶようになりましたし、昨年は、(弟の自家用車に乗せてもらいながら・・・➡)【竜飛崎(竜飛岬)】のほうに出かけました♬
先日も母と、(『弘南バス』&津軽鉄道の『走れメロス号』を乗り継いで・・・)太宰氏のふるさと・五所川原市金木地区(金木町)へ日帰りで出かけ、生家の【斜陽館】や、(太宰氏が幼少期・子守のタケさんに連れられてよく行った➡)【雲祥寺】卍、(NHK青森の『わん旅』✳のコーナーでも紹介された➡)【太宰治疎開の家 旧津島家新座敷】といったゆかりのスポットを巡り、太宰氏の足跡・面影を訪ね歩きました
そんなわけですが、(僕自身、まだまだ太宰ファン初心者なので・・・)太宰氏の子孫の方々に関しての事は詳しく存じ上げなかったので、今回このように分かりやすく詳細にご紹介頂き、非常に感謝致しております おかげ様で、修治さんのお子さんやお孫さんの事を学び、それぞれが抱いていらした「想い」なども想像する事ができ、津軽が生んだ文豪・太宰 治という人物についての理解をより深める事ができました✯ どうもありがとうございました❕
この記事を読んで。
元々、太宰さんのファンでした。
一人の太宰さんファンとして。
前よりももっと、太宰さんと太宰さんのお子さんについて詳しく知る事が出来ました。
大満足です。
凄く感謝しています。
記事にしてくださり、本当にありがとうございました。