「西郷隆盛の死因は何かな?」
「西郷隆盛の最後の様子がしりたい!」
西郷隆盛は薩摩藩の志士で、「維新の三傑」と呼ばれる人物です。薩長同盟の成立や王政復古に成功させた立役者ですが、次第に大久保利通らと対立し鹿児島に帰り私学校の教育に専念しました。しかし私学校生徒の暴動から西南戦争の指導者となりますが、敗戦し亡くなった人物です。
このように最後は新政府の「反逆者」であったにもかかわらず、生前の人柄から現在は名誉を回復され、鹿児島のシンボルのような存在になっている西郷隆盛という人物。しかし敗戦時の詳しい状況を知らない人も多いことでしょう。そこでこの記事では、西郷隆盛の死因と最後の様子に焦点を当てて解説します。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
西郷隆盛の死因は?
西郷隆盛は王政復古をし江戸無血開城の立役者ですが、最後は不平士族を率いた西南戦争を起こし、城山で死去しました。そんな波乱の最期を遂げた西郷隆盛の最後は、比較的詳細に記録が残っています。そんな西郷の死因は何だったのか?見ていきたいと思います。
死因は「自決」という壮絶な最期
西郷隆盛の死因は、別府晋介に自分の首を切らせたことによる自決です。切腹説もありましたが、検死の結果西郷は切腹していた形跡がなく、実質は別府晋介のとどめによる死去だったことが判明しました。最後は西郷の股と腹に被弾すると、別府晋介を顧みて、
「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」
といい皆が見守る中、襟を正し跪いて遥か東を向かって拝礼しながら別府に首を討たせて自害したといいます。とどめを命じられた別府は涙ながらに、
「ごめねんあったもんし(お許しください)」
と叫んで西郷の首をはねたといいます。享年51歳でした。その後別府晋介もその場で切腹しています。西郷隆盛の首は敵に取られることを恐れて、折田正助邸門前に埋められたそうです。
しかし総攻撃終了後大雨が降り、泥が流されてしまいます。そのため西郷の首の一部が露出。官軍の千田登文が発見し、山県有朋の元へ遺体と共に届けられました。
腫れ物が原因という説も
西郷隆盛の死因は、腫れ物が原因だという噂も流れているようです。しかしこれは結論から言うと西郷は腫れ物を患っていたものの、死因ではありません。
西南戦争時の西郷は、健康状態が非常に悪化していました。西郷は島流しにあっていた時に、「象皮病」という九州南部に多い風土病に悩まされていました。どのような病気かというと、寄生虫による病気で感染すると皮膚が腫れあがって肌が象肌のようになるためにつけられた病です。
この病に犯されていた西郷は、陰嚢が肥大化してしまい、かぼちゃぐらいの大きさとなり一人で歩くこともままならなかったといいます。西郷の遺体を発見時首がありませんでしたが、異常なまでに膨れた陰嚢であったためにすぐに西郷の遺体だと分かったそうです。
加えて西郷は100kgを超える肥満体と肥大化した陰嚢のために晩年は馬に乗ることが出来ずに、進軍は籠を利用するほどでした。そのため西南戦争前は下剤としてひまし油を飲んだり、狩猟で運動したりしてダイエットしていますが今一つ効果はあがらなかったようです。
そして西南戦争時の8か月は元々の生活習慣病にプラスして心労により、体調を酷く崩しています。戦闘中も心不全や不整脈が出ており、軍を指揮するのに支障をきたしていたそうです。