「明智光秀の子孫はいるのかな?」
「現在子孫は何をしているんだろう?」
明智光秀は戦国時代の武将で、本能寺を襲撃し織田信長を殺害、更には二条城を襲って信長の息子を殺害して謀反を成功させた人物です。
信長親子を殺害し天下統一に近づいた光秀ですが、いち早く戻ってきた秀吉と大阪で対決し敗戦。光秀は自分の居城がある近江へ敗走時に落ち武者狩りにあい死去しています。
その後歴史の表舞台から姿を消した明智家ですが、子孫はいるのか気になっている人も多いことでしょう。そこでこの記事では、明智光秀の子どもや子孫の現在の様子を紹介します。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
明智光秀に子孫・子供はいるのか?
まず結論からいうと明智光秀に子孫はいます。上記家系図を見るとわかる通り、光秀は織田信長の妻「帰蝶」と従兄妹であり、斉藤道山が義理の叔父、そして娘婿に織田信澄と細川忠興がいます。そして現在子孫として活躍しているのは、主に光秀の娘が血を繋いだ家系です。
子供は三男四女に恵まれた
明智光秀の系図はいわゆる「一級資料」というものが存在せず、資料によりばらつきがあります。諸説ありますが「明智系図」という資料では、3男4女いたと記録されています。詳細は以下の通りです。
- 長女:明智光春の妻
- 次女:明智光忠の妻
- 三女:細川忠興の妻・玉子(細川ガラシャ)
- 四女:織田信澄の妻
- 長男:光慶
- 次男:光泰
- 三男:乙寿丸
しかし資料によって違うために、正確な光秀の子の人数はわかっていないのが現状です。現在光秀の子孫としてテレビに出演している「明智憲三郎」氏は、側室の子「於寉丸(おづるまる)」の子孫と公表しています。しかし現存の資料に「於寉丸」という名前はなく、記録にない側室の子の可能性や名前を変えていた可能性も考えられているそうです。
明智憲三郎氏は250年前まで家系図をさかのぼれるものの、光秀までの150年が不明ということで現在も調査中ということです。
女子は皆大名などに嫁いでいます。もっとも有名なのは、関ヶ原の戦いの前に自害した細川ガラシャではないでしょうか。現在も続いており確実に血を受け継いでいる子孫は、ガラシャを通して受け継がれた血族です。
資料に書かれた妻子の末路
明智光秀は本能寺の変から2週間もたたずに山崎の戦いで敗死しますが、妻子の末路は豊臣秀吉の御伽衆(秀吉の話し相手をする仕事)の大村由己(おおむらしゅうこ)によって記された「惟任退治記」に書かれています。
内容は「明智光秀が死去したと聞いた娘婿の明智秀満は、光秀の妻子、そして自分の配下を刺殺し坂本城の天守閣に火をかけて自害した」というものです。最後に「敵味方にかかわらず秀満は見事な最期を遂げた」という内容で締めくくられています。また宣教師ルイス・フロイスも著書の「日本史」で、
「秀吉が坂本城に到着したとき多数の者は逃れていたが、残っていた親族は秀満が殺害し、自ら火を放って切腹した。この時明智の二子(男子)も亡くなった」
と記しています。どちらの記録も秀満が自害したという点が共通しており、フロイスの記録を参考にすると光秀の子は男子2名と女子が亡くなったことが読み取れます。