岩倉具視とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績、お札になった背景について紹介】

岩倉具視は幕末〜明治時代をかけて活躍した政治家・公家で岩倉使節団のリーダーとして海外に渡ったことでも有名です。

岩倉具視

政治体制や文化がガラリと変わった明治時代の日本において旧体制を支持していた京都の公家たちは厄介払いを受けるようになっていました。しかし、岩倉具視は左大臣となります。

実力主義の明治時代において公家でここまでのし上がれたのは太政大臣となった三条実美と岩倉具視しかいないと言われるぐらい政治の重鎮として亡くなる時まで活躍していました。

海軍卿であった勝海舟は岩倉のことを「度胸があって公卿のくせに俺にも平気で政治に口出しできた大した奴」と評しており、伊藤博文も彼が建武の新政の時に生きていてもば朝廷中心の政治体制を確立できていた評価しているのです。

今回は、そんな岩倉具視の人生について、詳しく紐解いていきます。どんな功績を残し、その生涯を終えたのか最後までご覧ください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

岩倉具視とはどんな人物か

名前岩倉具視
誕生日1825年10月26日
生地山城国京都
没日1883年7月20日
没地京都府京都市
配偶者岩倉誠子・岩倉槇子
埋葬場所東京都品川区海晏寺

岩倉具視の生涯をハイライト

岩倉具視が生まれた京都の現在

岩倉具視は1825年10月26日に、公卿である堀河康親の次男として生まれました。幼名は周丸(かねまる)でしたが、1838年8月8日に岩倉具慶の養子となり名が具視になります。

1860年3月24日に桜田門外の変で井伊直弼が殺されると、幕府内では公武合体の声が大きくなりました。岩倉具視もこれに賛同し、将軍の徳川家茂と、仁孝天皇の第八皇女である和宮を結婚させます。しかしその後、岩倉具視はこれが原因で糾弾されることになり、朝廷を去ります。

大政奉還後、徳川慶喜から実権を奪うために岩倉具視は再び朝廷に呼び戻されます。そこで岩倉具視たちは王政復古の大号令案を奏上し、これをきっかけに戊辰戦争が始まり、新政府軍が勝利を収めることになりました。

また、外務卿をしていた時には岩倉使節団のリーダとして欧米に来訪。ここで日本と西洋の違いを痛感し、日本の近代化を推し進めるきっかけを作っていくようになります。

岩倉使節団

岩倉具視の最大の特徴といえば明治時代に入り没落していた公家の中で政府としての重鎮としていたことでしょう。普通公家たちは華族という身分にはなったものの、政治に関わることはなくなりました。

しかし、岩倉具視は政治に積極的に参加し、明治時代においても非常に重要な存在でありました。

新政府の重職につき、岩倉使節団のリーダーとして日本の近代化を進めるなど活躍した岩倉具視でしたが、1883年7月20日に咽頭癌でこの世を去ることになりました。

岩倉具視はとにかく日本が大好きだった

酒器に酌まれた日本酒

岩倉具視は、日本のことがかなり好きだったというエピソードがいくつかあります。岩倉使節団としてアメリカに渡ったころに、多くの人は洋服を着て断髪した姿で訪れましたが、岩倉具視は髷(まげ)と和服姿で渡航しました。

他にもお酒は日本酒が大好きで、明治維新後は西洋タバコが流行っていましたが、岩倉具視は日本タバコを愛煙していました。

料理に関しても、肉類よりも魚や野菜が好きで、特に京都料理が大好きだったようです。こういったことから日本に強い思い入れがあることが分かります。

岩倉具視は何事にも柔軟に対応する能力があった

新たなアイディアを取り入れるタイプだった

岩倉具視の思想は時代が変わるにつれて柔軟に対応していました。

例えば、幕府からの要望があれば和宮を徳川家茂に嫁がせるために奔走し、長州藩や薩摩藩などの要望があれば倒幕に傾き王政復古の大号令を発令するなどしました。

また、明治維新後もヨーロッパへの来訪で近代化を推進していくようになります。他にも、元々憲法制定に反対していたのに、伊藤博文に重要性を説かれると憲法制定を承認するなどかなり思想が変わっていたことがわかります。

思想がコロコロ変わることは悪いことだと思われがちなんですが、時代に合わせて柔軟に対応する能力があることは岩倉具視の一つの才能であり、このおかげで明治時代になっても公家なのにもかかわらず重鎮として活躍できたのではないかと思います。

先見の明があり天皇から厚い信頼があった

岩倉具視へ信頼の厚かった明治天皇

岩倉具視は、幼いころから公家出身であるにもかかわらず、古い体質の朝廷を革新したいと考えていました。

戊辰戦争では、戦争前から緻密に準備していた「錦の御旗」を使い旧幕府軍を退かせることに成功します。

こういった事があったため、孝明天皇からは下級公家だった岩倉具視に勅使(ちょくし)という立場を与えられたり、明治天皇には岩倉具視が亡くなる前日までお見舞いに来てもらったりと、天皇からの信頼も厚かったようです。

自宅を博打場にしていた!?

賭場

幕末では、岩倉具視のような下級公家や武士たちはお金に困る事が多く、今でいうアルバイトのようなものをする必要がありました。そこで岩倉具視は自宅を賭博場にして生活費を稼いでいました。

賭博場というのは、今と変わらず当時からあまり良い印象の物ではなく、ガラの悪い人たちも出入りしていたようです。

こういった環境で育った事で勝負勘が養われ、岩倉具視の先見の明は鍛えられたのかもしれません。

岩倉具視は500円札の肖像画に選ばれていた

岩倉具視が描かれた500円札

岩倉具視は明治時代に入り近代化を推進したり、重鎮して活躍していたこともあってか1951年から印刷が開始された500円札の肖像画に選ばれました。

今ではあまり馴染みがありませんですが平成時代初期までは500円玉よりも遥かに流通しており、非常に馴染みが深いお札だったのです。

もしかしたらこの肖像画を見て岩倉具視のことを知った人もいるかもしれませんね。

岩倉具視の死因は「咽頭がん」

岩倉具視は咽頭がんであり、当時お雇い外国人として東京帝国大学で教授をしていたエルヴィン・フォン・ベンツによって診断を受けてしまいました。

ちなみに、日本で初めてガンだと診断されたのは岩倉具視だったそうです。

岩倉具視からしたらかなり複雑な思いを抱いたとは思いますが、亡くなった後は日本初の国葬となっているのでかなり慕われていたことがわかりますね。

岩倉具視の功績

功績1「王政復古に大きく貢献する」

大政奉還図

大政奉還後、明治天皇は15歳で即位したばかりで、さらに朝廷首脳部は徳川慶喜のいいなりとなっている状態でした。

岩倉具視は、このままでは引き続き徳川慶喜が実権を持つことになってしまうと危惧し、「王政復古の大号令」案を奏上します。

王政復古の大号令は、幕府や摂政・関白を廃止し、総裁・議定・参与の三職を置くという内容で、1868年1月3日に明治天皇より発せられます。これをきっかけに戊辰戦争が始まりますが、結果としては新政府が誕生することになりました。

功績2「岩倉使節団のリーダーとして日本の近代化を進める」

岩倉使節団の留学生

新政府にて岩倉具視は外務大臣となり、これがきっかけで日本は大きく成長することになります。

岩倉具視は、かつて日本が結んだ不平等条約を改正するために岩倉使節団のリーダーとして、アメリカやヨーロッパ諸国へ旅立ちます。

結果として日本はまだ文化が進んでいない事を理由に、交渉は失敗に終わりますが、西洋文化の必要性を明治政府の首脳が直々に実感することになり、近代化が大幅に進んでいくことになりました。

また使節団に同行した留学生たちも、欧米の知識や学問を持ち帰り、大きく日本は成長します。

功績3「日本鉄道を設立させる」

日本の鉄道普及のきっかけを作った

岩倉具視は岩倉使節団から帰国した後急速な日本の近代化を目指すべきだと主張していましたが、特に力を入れていたのが日本に鉄道を普及させることでした。

1872年にはもうすでに新橋〜横浜間が開通していましたが、西南戦争などの内乱も起こり続け政府は非常に貧乏となってしまい鉄道なんて作っている暇や金などありませんでした。

そこで岩倉具視は「国が作れないなら民間が作ればいいではないか!」として政府内の政治家の寄付や実業家の協力を得て1881年に日本鉄道を設立。

日本鉄道は今のJR東日本の東北本線、山手線、常磐線、高崎線の元となり特に鉄道の開設の恩人として今に伝えられています。

ちなみに、上野にある鉄道学校の岩倉高等学校は鉄道の普及に携わった彼の名前が由来となっており、その校章も岩倉具視の家紋である笹竜胆がモチーフとなっているのです。

岩倉具視にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「岩倉具視とちょんまげ」

岩倉使節団

岩倉具視が岩倉使節団のリーダーとしてアメリカに渡った頃。この時岩倉具視には一つ不満に思うことがありました。

それが周りのみんなが簡単にまげを落としてざんぎり頭にしたこと。

江戸時代までの日本にとってまげというものは魂にも近いものがあり、断髪令が出された時には日本中が大もめになったこともあったのです。

そのため公家出身の岩倉具視は頑なにまげを落とそうとはしませんでした。

しかし、岩倉具視がアメリカに到着して歓迎されていたと思っていたのが、実はまげが珍しく見世物状態になっていたことに息子から教えられて気づくとこのままじゃ舐められるということで断髪を断行。

帰国した時には明治天皇にもまげを落とすことを奨励するにまで変わっており、岩倉具視と明治天皇がまげを落としたことによって断髪令に対する不満はピシャリと止んだのでした。

都市伝説・武勇伝2「岩倉具視とビスマルク」

岩倉使節団一行はアメリカを経てヨーロッパへ。この道中の途中に立ち寄ったのが当時日本と同じく分裂していた状態からようやく統一を果たしたばかりのドイツ帝国でした。

ドイツ帝国の首相はヨーロッパ随一の政治家であるビスマルク。

ビスマルク

岩倉具視や岩倉使節団一行は晩餐会に参加した時にビスマルクに対して日本は国際法を遵守するべきかどうかを相談していました。

ビスマルクはそれに対して「国際法を守ったとしてもイギリスやフランスが守ってくれるかは保証できない。ドイツは日本に対して手出しはしないからまずは日本が強くなるのが大切だ」とアドバイスを送りました。

これを受けて岩倉使節団一行は不平等条約を改正する以前に日本の富国強兵に努めなければいけないと思うようになり、岩倉具視の思想にも影響を与えたのでした。

岩倉具視の略歴年表

1825年
岩倉具視誕生

岩倉具視は1825年に従二位権中納言であった堀河康親の次男として京都に生まれました。幼名は周丸であったそうです。

岩倉具視は一応公家としての身分でしたが、あまり公家らしさはなく、周りからは岩吉と言われていましたが、朝廷お抱えの儒学者は彼の才能に気づき、岩倉家への養子を推薦。

岩倉家はあまりいい家柄ではありませんでしたが、この養子縁組が彼の人生を大きく変える第一歩となりました。

1858年
八十八卿列参事件

岩倉具視が下級公家であったものの、彼が鷹司家との関係を深めていくと徐々に政治に参加していくようになりました。

その一つである八十八卿列参事件では日米修好通商条約の調印に反対して公卿88人とともに居座り抗議したそうです。

これによって朝廷はしばらくの間条約を拒否し続けることになります。

1861年
岩倉具視が失脚する

こうして政治運動を始めていった岩倉具視でしたが、この頃になると周りの公家から陰口を叩かれるようになり、さらには和宮の結婚を取り仕切ったことから孝明天皇の意向に背く不届きものとして糾弾される事態に追い込まれてしまいます。

岩倉具視はこのことをじっと受け止めて5年間の謹慎を余儀なくされてしまいました。

1868年
岩倉具視、政府の実力者へ

岩倉具視が謹慎している間、日本は大きく動き始めていました。1868年には大政奉還によって幕府は崩壊。江戸幕府は滅び、新しく明治新政府が置かれることになります。

この時に大活躍した岩倉具視は明治新政府の要職に就任。

廃藩置県が行われた後は外務卿(外務大臣)に就任し、政府の実権を支配するようになったのです。

1871年
岩倉使節団がヨーロッパに来訪

外務卿になった岩倉具視が最初に行ったことが外国との外交交渉とヨーロッパの法律の勉強でした。

岩倉具視は伊藤博文や大久保利通らとともに岩倉使節団としてヨーロッパに来訪。

アメリカやヨーロッパ諸国を歴訪し、ヨーロッパの法制度を学んで日本に生かそうとしました。

1883年
岩倉具視死去

明治政府として活躍を遂げていった岩倉具視でしたが、1883年に咽頭がんによってこの世を去りました。

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