ヨハン・シュトラウス2世は、19世紀にオーストリアの首都ウィーン出身の音楽家です。当時人気だった舞踏曲「ワルツ」を数多く作曲し、成功したことかあら別名「ワルツ王」とよばれています。ヨハン・シュトラウス2世の父である、ヨハン・シュトラウス1世も音楽家でした。
ヨハン・シュトラウス(子)は、父ヨハン・シュトラウス(父)に反対されたにもかかわらず、父と同じ音楽家の道をめざし、18歳の時に自分の合奏団を指揮して成功したヨハン・シュトラウス2世は、ヨーロッパやアメリカでも数多くの作曲を行いました。
ヨハン・シュトラウスが作曲した作品の数はおよそ500曲以上で、そのうちワルツが170曲以上です。とくに有名なのは「美しく青きドナウ」というワルツ曲で、ヨハン・シュトラウス2世の代表作品です。
当時、オーストリアの皇帝だったフランツ・ヨーゼフ1世と対比して、「ウィーンのもう一人の皇帝」とも呼ばれたヨハン・シュトラウス2世は、のちにウィンナ・ワルツやポルカだけでなく、オペレッタも手掛けるようになります。
その中でも『こうもり』はオペレッタの中でも最高傑作と言われていて、「オペレッタ王」とも呼ばれるようになったのです。
ヨハン・シュトラウス2世の楽曲を愛したのは民衆だけでなく、同時期に活躍したこの後ご紹介する有名な音楽家たちもでした。ヨハン・シュトラウス2世の楽曲によって、多くの音楽家が影響を受けています。
そんなヨハン・シュトラウスについて、ドイツ語学科専攻で、現在もドイツ語とドイツ語圏文化を心から愛する日独バイリンガルライターが、ヨハン・シュトラウス2世について余すことなくご紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ヨハン・シュトラウスとはどんな人物か
名前 | ヨハン・バプティスト・シュトラウス (以下、ヨハン・シュトラウス2世) |
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誕生日 | 1825年10月25日 |
生地: | オーストリア帝国、ウィーン |
没日 | 1899年6月3日 |
没地 | オーストリア=ハンガリー帝国、ウィーン |
配偶者 | ヘンリエッテ・ハルベツキー(1862年~1878年) アンゲリカ・ディットリヒ(1878年~1882年) アデーレ・ドイッチェ(1887年~1899年) |
埋葬場所 | ウィーン中央墓地(区間32A、27番) |
活動期間 | 1844年~1899年 |
別名 | ワルツ王 ウィーンの太陽 ウィーンのもう一人の皇帝 オペレッタ王 |
シュトラウスに影響を与えた人物は?
ヨハン・シュトラウス2世は、父も有名な音楽家であるヨハン・シュトラウス1世で、父の影響を受けて音楽家へのあこがれを持つようになりました。父ヨハン・シュトラウス1世は、ヨーロッパ・ワルツの創始者として舞踏音楽に革命をもたらした人物でした。
それにも関わらず、ヨハン・シュトラウス2世をはじめとする息子たちには、音楽家になってほしくなかったそうです。その理由は、音楽家は浮草のように世界を転々とする職業であることからだったためです。このためヨハン・シュトラウス1世は、ヨハン・シュトラウス2世をはじめとする息子たちがピアノ以外の楽器に触れることを固く禁じます。
しかし、当時好奇心旺盛だったヨハン・シュトラウス2世と弟のヨーゼフ・シュトラウスは、家にあった父のリハーサル場から漏れた音を聞き取り、ピアノの連弾で遊んでいました。
息子たちのピアノに関心のかった父ヨハン・シュトラウス1世もこれには驚き、それと同時に彼らの奏でるメロディに満足感を覚えました。そのご褒美として、ヨハン・シュトラウス2世とヨーゼフ・シュトラウスに上質なフード付きマントを与えたそうです。
シュトラウスの苦労話は?
8歳のヨハン・シュトラウス2世は、ピアノだけでは飽き足らず、ヴァイオリンを学びたいという願望が段々強くなります。
わずか8歳で、近所の子供にピアノの指導を行い、そのお給料でヴァイオリンを購入したヨハン・シュトラウス2世。父の見ていないところでコッソリとヴァイオリンを練習するも、バレてしまいます。
せっかく購入したヴァイオリンを、父親にへしおられてしまうのです。
しかし、それを救ったのは母マリアです。マリアは、すぐさまヨハン・シュトラウス2世にヴァイオリンを買い与え、音楽家への道を後押しするのでした。
シュトラウスの女性事情は?
ヨハン・シュトラウスは75年の人生で3度の結婚をしています。しかし、3人の妻との間に子供は設けていません。反面、ヨハン・シュトラウス2世は様々な女性との関係が示唆されていて、中には肉体関係を持つ女性が複数いたとか。
数多くの女性事情のうわさに耐えなければならなかった最後の妻アデーレは、ヨハン・シュトラウス2世の女性関係について必死に否定していたとも言われています。
ヨハン・シュトラウス2世の人生の中で結婚まで至ることがなかった女性が2名います。ひとりはロシアの貴族の娘であるオルガ・スミルニツキー、そしてもう一人は近所に住むエリーゼという女性でした。
特にオルガ・スミルニツキーとの関係については、最後の妻アデーレも周知の上で、オルガとヨハン・シュトラウス2世の手紙を残らず世間に公表した、という話もあるほどです。
その結果、性病にかかり子供ができなかっただとか、弟ヨーゼフの妻だった女性にも手を出したなど、そのうわさは数知れず。真意は謎のままです。
シュトラウスの評価は?
ヨハンシュ・シュトラウス2世が活躍していた時代は、多くの有名な音楽家たちも活動をしていた年代です。そのため、同時代で非常に優れた音楽家であると認めていました。そして、数多くの音楽家たちがヨハン・シュトラウス2世に影響を受けたと話しています。
例えば、「ハンガリー舞曲」で有名なヨハネス・ブラームスはヨハン・シュトラウス2世を「シュトラウスの音楽こそウィーンの血」であると話し、ヨハン・シュトラウス2世を支援したそうです。
さらに、結婚式でおなじみのファンファーレ「婚礼」ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーも、ヨハン・シュトラウス2世の書く軽快な音楽をマネできない、と語っています。
彼ら以外にも、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーもヨハン・シュトラウス2世の楽曲を愛したうちのひとりなのです。
シュトラウス2世の代表作品は?
- ワルツ『記念の詩』(1844)
- 爆発ポルカ(1847)
- 革命行進曲(1848)
- ワルツ『愛の歌』(1852)
- アンネン・ポルカ(1852)
- 『皇帝フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』(1853)
- ワルツ『旅の冒険』(1859)
- ワルツ『ウィーンのボンボン』(1866)
- ワルツ『美しく青きドナウ』(1867)
- ワルツ『ウィーンの森の物語』(1868)
- ワルツ『千夜一夜物語』(1871)*オペレッタ『インディゴと40人の盗賊』より
- 喜歌劇こうもり(1874)
- オペレッタ『ウィーンのカリオストロ』(1875)
ヨハン・シュトラウス2世にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「死の恐怖におびえていた」
2世は、父ヨハン・シュトラウス1世が亡くなったときに、死の恐怖におびえ続けていました。
父には愛人がおり、彼女はヨハン・シュトラウス1世が亡くなると、遺体をそのままヨハン・シュトラウス2世と母のもとに置き去りにし、荷物だけを全て持ち去っています。
このことにショックを受けたヨハン・シュトラウス2世は、死に対してトラウマを持ち始めるのでした。
以降、「死」という言葉だけで狂乱状態になってしまう様になったヨハン・シュトラウス2世は、母や弟だけでなく、最初の妻ヘンリエッテの葬式に出席することはなかったんだとか。
都市伝説・武勇伝2「大の鉄道&自然嫌い」
ヨハン・シュトラウス2世は、早い乗り物が苦手で、特に鉄道が大嫌いだったというウワサがあります。
余りにも鉄道が嫌いすぎて、どうしても電車に乗らなければならないときは、カーテンを閉めて床にしゃがみこんだ後、シャンパンをひたすら飲み続けていたそうです。
また、自然や田舎も大嫌いで、自然の中へ出かけることにも強い恐怖を抱いていたんだとか。
都市伝説・武勇伝3「実は薄毛だった」
ヨハン・シュトラウス2世は、写真で見るとふさふさの髪の毛のように見えますが、実は薄毛だったという話もあります。
ヨハン・シュトラウス2世のファンの中には、髪の毛を欲しがるという変わった嗜好の人たちもいたようで、もしこの要望に応えていたら、ヨハン・シュトラウス2世の髪の毛は瞬く間に亡くなっていたであろう、と言われるほどの薄さだったそうです。
これまた真意は不明ですが、ヨハン・シュトラウス2世の秘書は、ヨハン・シュトラウス2世の愛犬の毛をひとつかみむしってファンに向けて郵送した、なんて話もあるようですよ。
ヨハン・シュトラウス2世の生涯歴史年表
シュトラウスの早見年表
ザンクト・ウルリッヒ地区で、音楽家であるヨハン・シュトラウス1世と宿屋(居酒屋説も)の娘であるアンナ・シュトレイムの間に長男として生まれました。
6歳の時に、祖父の自宅にあった卓上ビアノでワルツを作曲、母アンナが譜面に落とし込んだ初の楽曲「最初の着想」が誕生します。
ヨハン・シュトラウス2世は、シェーンブルン宮殿の近くにある「ドムマイヤー・カジノ」でデビューコンサートを開き、指揮者デビューをする。
ウィーン革命が勃発。父は「ラデツキー行進曲」を作曲し、皇帝派とみなされ、息子は「革命行進曲」などを作曲し、革命派に属していました。
事実上、シュトラウス親子は音楽で対決することになります。
父であり、最大のライバルだったヨハン・シュトラウス1世がなくなり、父の楽団を受け継ぐという形で自分の楽団に吸収合併させました。
多忙で倒れ足りしながらも、ロシアの鉄道会社との契約で、ロシアのパブロフスクで演奏会を行うことになります。
ヨハン・シュトラウス2世の代表曲「美しき青いドナウ」の初演が行われます。これ以降、立て続けにワルツを発表していきます。
ヨハン・シュトラウス2世をさせてきた母アンナが亡くなり、立て続けに次男ヨーゼフも亡くなります。
ヨハン・シュトラウス2世最初の妻イエティが亡くなりますが、その後歌手志望(俳優志望とも)のアンゲリカ・ディットリヒに一目ぼれし、再婚をします。
ヨハン・シュトラウス2世に失望し平気で浮気をするようになったアンゲリカは、この年にヨハン・シュトラウス2世を捨てます。
ヨハン・シュトラウス2世は、面目を失い、オーストリア国外に逃げようと考えるほどに落ち込みました。
もともと幼馴染だった未亡人アデーレと再会したヨハン・シュトラウス2世は、次第に距離が近づき、様々な困難を乗り越えながらも結婚に至ります。
この年、ヨハン・シュトラウス2世は音楽家デビュー50周年となり、記念祭が開かれています。
肺炎をこじらせたヨハン・シュトラウス2世は、この年の6月3日に75歳で死去。
最期をみとったのは、妻アデーレでした。