「ガリバルディってどんな人だったの?」
「ガリバルディが英雄と呼ばれた理由が知りたい!」
「ガリバルディが果たしたイタリア統一の経緯とは?」
とこの記事を訪れたあなたは疑問を持っているのではないでしょうか。
ガリバルディはイタリア統一戦争(リソルジメント)で活躍し、「二つの世界の英雄」と呼ばれた軍人です。イタリア統一を目指し戦での勝利と敗北・亡命を繰り返しながらも、回復しえなかったローマに生涯をささげたガリバルディ。「赤シャツ隊」を率いて戦った普墺戦争は今もなお語り継がれる逸話となっています。
とはいえ、ガリバルディの名前は知っていても、二つの世界の英雄となった経緯はあいまいだったり、そもそもどんな人だったのかピンと来ていない人もいるはず。そこで今回は、イタリア統一(リソルジメント)の英雄ガリバルディの生涯について解説します。
歴史に名を残すガリバルディの英雄譚をのぞいてみましょう。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ガリバルディはどんな人物か
名前 | ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi) |
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誕生日 | 1807年 7月4日 |
没日 | 1882年 6月2日 |
生地 | フランス ニース |
没地 | イタリア カプレーラ島 |
配偶者 | アニータ・ガリバルディ、ジュゼッピーナ・ライモンディ |
埋葬場所 | イタリア カプレーラ島 |
ガリバルディの生涯をハイライト
ガリバルディは1807年に当時フランス帝国領だったニースに生まれました。ナポレオン戦争後、ニースがサルデーニャ王国領となったため、ガリバルディはフランス人ではなくイタリア人として育ちました。
イタリアの指導者マッツィーニとの出会いをきっかけに20代半ばで青年イタリアに加入したガリバルディは、共和主義によるイタリア統一運動に参加します。しかし反乱運動は失敗、死刑判決を受けたガリバルディは南米に亡命し革命運動に身を投じます。
南米に渡ったガリバルディは軍事的才能を開花させ、ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンでのゲリラ戦にて手腕を発揮。また、1848年にはマッツィーニが樹立したローマ共和国に見方しフランス軍への勝利に貢献します。しかし、すぐに態勢を立て直したフランス軍にローマ共和国は敗北、ガリバルディは再度亡命することとなります。
その後1859年に第二次イタリア統一戦争が起こるとサルデーニャ王国軍に見方し勝利を重ねます。続く1860年には南イタリアの両シチリア王国で起きた反乱を赤シャツ隊を率いて制圧しました。
それから、ガリバルディはイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に全ての征服地を献上し一介の軍人に戻ります。1866年に普墺戦争がおきるとこれにも参戦しオーストリア軍と戦いました。
このように、ガリバルディは北イタリアを支配していたオーストリアと戦い続け、イタリア統一という希望を実現し英雄と称えられました。しかし、彼が終生こだわったローマのイタリア編入を果たすことができませんでした。ローマがイタリアに加わるのは彼が完全に引退した後のことになります。
晩年、カプレーラ島に引退したガリバルディはイタリア王国から贈られる名誉や称号の全てを辞退し1882年に亡くなります。
我が強く盛んに目立つ気性の持ち主
ガリバルディの義勇軍は「赤シャツ隊」という名で非常に有名です。その名声はイタリア中に轟き、後の独裁者ムッソリーニもこれを真似て、「黒シャツ隊」という部隊を作っています。第二次イタリア統一戦争で赤シャツ隊は勇ましい戦いぶりを見せ、イタリア南部の両シチリア王国を滅ぼしました。
さらに、その領地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上し、イタリア統一に大きく貢献しました。なお、構成人数が約1000人だったことから「千人隊」とも呼ばれています。
制服である赤シャツは、ガリバルディがウルグアイで義勇軍を率いていた時に生まれたものでした。戦争のために出荷できずに倉庫に積んであった食肉加工用の赤いシャツを安く買い取り、義勇軍の制服にしたそうです。
ただ、イタリア統一戦争時には、赤シャツ隊全員のユニフォームだったわけではなく、着ていたのはガリバルディ含めほんの一部だった模様。また、ガリバルディの赤シャツは戦場では非常に目立って敵の標的となったので、隊員は彼の前に立ち、身を挺して彼を守ったそうです。
二度にわたりローマ教皇領に進軍
ガリバルディは生涯で2度ローマに進軍しています。一度目はマッツィーニがローマ共和国を樹立した時です。この時、ガリバルディは義勇兵と共にローマ市内のジャニコロの丘でフランス軍と戦いました。
二度目は1862年です。彼はローマ教皇領がフランスの後ろ盾で独立し、イタリア統一が不完全であることを憂いていました。完全なイタリア統一のためにはローマを占領するしかないと考えたガリバルディは、義勇兵を募ってローマへの進軍を開始したのです。
しかし、1860年に成立していたイタリア王国はガリバルディの行動を認めず、彼の前に立ちはだかります。ガリバルディ軍の進撃を阻もうとするイタリア王国軍の攻撃に対し、彼は一切の反撃を禁じました。そのため、義勇軍はすぐに瓦解し、彼の2度目のローマ進軍も失敗に終わります。
ガリバルディは意外にも小柄な体格だった
サルデーニャ海軍に入隊した時の記録によると、身長は166センチ、髪はブロンドで目は栗色をしていたそうです。数々の武勲を残したガリバルディですが、意外にも小柄な体型でした。
また、彼と親交があった作家のグエルツォーニによると、いわゆる「イケメン」ではなかったそうですね。ただ年を重ねると、長い髪と立派なひげを蓄え、威厳のある佇まいを見せていきます。その姿を民衆はイエス・キリストに重ねたそうで、イケメンというよりも人を惹きつけるオーラを持っていた人だったのでしょう。
生涯の多くを戦場で過ごしたガリバルディ
彼は生涯の多くを戦いに費やしました。1835年に、ブラジルに渡ってから本格的な革命闘争を開始し、1841年からはウルグアイに拠点を移して、抑圧された民衆のために戦いました。
1848年にイタリアに帰国すると、2度のイタリア統一戦争を戦い、母国の統一に大きく貢献しています。さらに、1866年の普墺戦争にも参加し、イタリア王国のヴェネツィア回収にも貢献しました。
通算戦績は、53戦34勝15敗4分だそうです。
ガリバルディの功績
功績1「二つの世界」の英雄
ガリバルディには「二つの世界の英雄」という二つ名があります。二つの世界とは、ヨーロッパと新大陸とよばれた南アメリカを指しており、この二つの地域で英雄として称えられました。
まず、ヨーロッパではローマ共和国樹立への参加やイタリア統一戦争での活躍、普墺戦争での勝利などイタリア統一に貢献し英雄となりました。
その一方で、南アメリカ亡命中にガリバルディはウルグアイの内戦に周辺国が介入した「大戦争」に参加します。この戦いで彼はウルグアイの首都モンテビデオの防衛やその後のゲリラ戦で大活躍しました。こうして、ガリバルディは「二つの世界」で英雄となったのです。
功績2「イタリア統一後の普墺戦争にも参戦」
1866年、ヨーロッパでドイツの覇権をめぐる普墺戦争が起きました。イタリア王国はプロイセンに味方し、背後からオーストリア軍を攻撃します。イタリアがプロイセンに味方した理由は、イタリア統一戦争でオーストリアから取り戻せなかったヴェネツィアを手に入れるためです。
イタリア統一を何よりの悲願としていたガリバルディは、「アルプス猟兵隊」という義勇軍を招集します。その数、なんと40,000人。彼らを統率したガリバルディはチロル地方に進出、ベッツェッカの戦いでオーストリア軍に勝利しさらに北に進撃しようとします。
ところが、イタリア王国の主力軍がリッサ海戦やクストーザの戦いでオーストリア軍に敗れたため、ガリバルディは止む無く進撃を停止しました。
功績3「世界中を駆け巡ったガリバルディの名声」
英雄ガリバルディの名声は、世界中を駆け巡りました。ロシアの無政府主義者バクーニンは、シベリアに流刑されていた時、「いつかガリバルディが救ってくれる」と老婆が話すのを聞いたといいます。
明治期の日本でもガリバルディは注目される存在で、彼に関する書物が複数出版されていました。明治期を代表するジャーナリストの三宅雪嶺は、西郷隆盛と比較してその人物像を論じています。歌人・与謝野鉄幹も「人を恋ふる歌」の歌詞にガリバルディを登場させています。
ガリバルディの名言
酒の神は、海の神よりもずっと多くの人間を溺死させた。
我々が何処に退こうとも、戦う限りローマは存続する