坂本龍馬の妻、おりょう(楢崎龍)の生涯とは?出会いや結婚生活、末路を紹介

おりょうとは、言わずと知れた日本史上の大英雄・坂本龍馬の妻として有名な女性です。

彼女が龍馬の障害に与えた影響は大きく、特に坂本龍馬を語るうえで外せない「寺田屋事件」では、彼女の機転が無ければ龍馬はそこで歴史から退場していたと思われます。そういう意味では、日本の近代化の立役者となった功績の一端はおりょうにあると言ってもいいのかもしれません。少なくともそう言われても不思議ではない、明治維新の縁の下の力持ちこそが、おりょうという女性なのです。

おりょう

おりょうは龍馬にベタ惚れされるほど美しい女性だったようで、龍馬と敵対していた新撰組の局長・近藤勇も、おりょうに好意を抱いて度々贈り物をしていたと伝わっています。

このように、幕末の歴史を語るうえで外すことはできない女性ではありますが、その一方、おりょうという人物個人に対しての情報は「坂本龍馬の妻」という段階で止まっている方が殆どだと思います。

そこで本記事では、”おりょう”という女性がどのように坂本龍馬と知り合い、別れ、その末にどんな人生を歩んだのかまで、なるべく深掘りして記していきたいと思います。

この記事を書いた人

Webライター

ミズウミ

フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。

おりょう(楢崎龍)とはどんな人物だったのか?

引用元:大河ドラマネタバレ感想日記より

名前楢崎龍(ならさきりょう)
(通称:おりょう)
別名西村ツル
誕生日1841年7月23日
没日1906年1月15日(享年64歳)
生地京都府・富小路六角付近
没地神奈川県横須賀市
配偶者坂本龍馬 → 西村松兵衛
埋葬場所横須賀市大津・信楽寺

おりょうとはどんな人?

おりょうは、1841年に京都富小路六角付近に住んでいた医師・楢崎将作と、その妻の貞(夏という説もあり)の間に、長女として生まれました。父は皇族の侍医を務めるほどの優秀な医師だったらしく、楢崎家はかなり裕福な家だったそうです。

そのため、おりょうは幼い頃から生け花や香道、茶の湯などに触れながら育っていたらしく、当時の女性の中でもかなり上位に位置する教養を身に着けていたようです。

しかしその一方で、炊事は壊滅的に苦手な、いわゆる”メシマズ”だったとも記録されています。

龍馬との出会いは?

坂本龍馬

裕福だった楢崎家ですが、時は激動の幕末期。裕福な家庭事情は、ある日突然一変します。

皇族の侍医であったこともあり、勤皇運動に傾倒していた父でしたが、そんな彼は安政の大獄で捕らえらてしまします。これにより楢崎家は困窮。更に、拷問死こそ免れた父ですが、牢の悪辣な環境が祟ったのか、釈放からほどなくして病死。

これによって困窮した楢崎家を支えるため、おりょうは旅館「扇岩」で働くことになったと記録されています。

しかし、その没落こそが、おりょうと坂本龍馬をつなげる縁となりました。

当時の「扇岩」の付近には、土佐出身の攘夷志士たちの隠れ家が存在していたらしく、そこでおりょうは、後の夫である坂本龍馬と出会うことになります。おりょうの名前に”龍”の字が使われていることを知った龍馬が「儂と一緒じゃ」と笑ったこと。それが、二人が夫婦となるまでの最初の縁となったのだそうです。

おりょうの性格は?

”あの”坂本龍馬の妻として知られる人物なだけに、おりょうもまた型破りな性格の持ち主だったと記録されています。

困窮した生活の中、妹たちが遊女として売られることを知るや否や、刀を持って男二人相手に大立ち回りを演じた、龍馬と共に訪れた霧島山で、山頂に突き刺さった天の逆鉾(神様を封じているとされる神具)をイタズラで引き抜いたなど、「あぁ、龍馬の妻だわ」と感じるエピソードは、枚挙にいとまがありません。

その一方「頑固者」「夫の権威を笠に着ることが多かった」等のエピソードも伝わっているため、実際の彼女は創作の中で見えるような「肝の据わった賢い女性」ではなかった、と考えるのが妥当だと思われます。

しかし龍馬は、姉に宛てた手紙の中でおりょうのことを「まことにおもしろき女」と評しています。型破りな行動と、どこか垣間見える茶目っ気。そして接する人によって評価の分かれる人柄。

もしかすると二人は、たいそう似たもの夫婦だったのかもしれません。

おりょうと龍馬は日本初の新婚旅行に行った?

引用元:竜馬街道

おりょうと龍馬のエピソードとしてよく言われる事柄ではありますが、これは「半分正しく、半分間違っている」と言える事柄です。

龍馬とおりょうが結婚後に温泉旅行に行ったのは本当ですが、その目的は龍馬が負った刀傷を癒すための湯治の旅であり、彼らは新婚旅行を目的として旅に出たわけではありません。

この旅行が”新婚旅行”と位置付けられたのは、明治期の学者・坂崎紫瀾が、龍馬を紹介した著作である『汗血千里駒』で「ホネー・ムーン(ハネムーン)」と結びつけてこの旅行のエピソードを紹介したことに由来します。

とはいえ、旅行中に一緒に登山をするなど、ただの湯治ではなく観光旅行の意味があったこともわかっているため、この旅行を「日本初の新婚旅行」と表現するのも、決して間違いではないかと思われます。

おりょうと海援隊の面々の関係は?

海援隊

坂本龍馬と言えば、やはり”海援隊”は切っても切れないトピックだろうと思います。龍馬が作り上げた一大組織である海援隊ですが、そのメンバーとおりょうの関係性はどうだったのでしょうか?

これについては、率直に言うと「あまりいい関係性ではなかった」という説が圧倒的です。

海援隊のメンバーだった安岡金馬の子・安岡重雄はおりょうについて「海援隊の隊士からは嫌われていた」「龍馬の妻であることを笠に着て、隊士を見下す部分があった」と。

また、土佐藩士の佐々木高行はおりょうについて、「たいそうな美人だったが、賢い女性ではなく、善にも悪にもなる女だった」と評価する言葉を残しています。

実際、おりょうは龍馬の事業についてはほとんど理解しておらず、龍馬が成した偉業をおりょうが知ったのは、龍馬の死後に明治政府から説明を受けた時だったそうです。

おりょうと龍馬の姉・乙女との関係は?

龍馬の姉・坂本乙女

おりょうと、龍馬の姉であり育ての親代わりでもあった姉・乙女は、不仲だったと語られることが多いです。また、その説と合わせて、晩年のおりょうが落ちぶれたのは乙女との不仲のせいだと語られることが多々あります。

実際、龍馬を失った後のおりょうは、3か月ほどで坂本家を出ることになっているため、坂本家とおりょうの関係があまり良くなかったのは事実だろうと思われます。事実として、龍馬の後に坂本家の家督を継いだ坂本直は、困窮して援助を求めるおりょうを冷たく追い返したとも伝わっています。

しかしその一方で、乙女について晩年のおりょうは「乙女さんには親切にしてもらいました」と語っているため、実際におりょうと不仲だったのは、”乙女”個人ではなく”坂本家”だったと見るのが、現在では通説となっています。

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