陸羯南はどんな人?生涯・年表まとめ【名言や功績、性格まで紹介】

陸羯南(くが・かつなん)は、明治時代に活躍した日本のジャーナリストです。新聞「日本」を創刊し羯南自身も主筆(記者)として筆を振るう一方、正岡子規(俳人・歌人)を保護した人としても知られています。

彼の功績をひと言で言い表すとしたら、「日本ジャーナリズムの先駆者として、不羈独立をモットーとする新聞を発行しつづけた」ことにあります。新聞とはもともと「営利性」「党派性」と結びつきが強いものですが、これらを排除することにより、真に独立した新聞づくりを目指したのでした。こうした羯南の理念は、日本のジャーナリズムに大きな影響を与えています。

新聞「日本」社主兼主筆をつとめた陸羯南

また、彼は一介のジャーナリストという枠を超えて所謂「国民主義」を標ぼうする政治評論家でもありました。言論界においても勇名をはせつつ、一方では後輩記者の育成や俳句・短歌といった日本の文芸活動にも注力するなど、器の大きな性格で知られています。

この記事では、正岡子規を調べるうちに陸羯南に心服するに至った筆者が、彼の生涯やその政治的思想、親分肌な性格といった魅力について執筆させていただきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

陸羯南とはどんな人物か

名前陸羯南(本名:實)
誕生日1857(安政4)年
没日1907(明治40)年
生地陸奥国弘前
(現在の青森県弘前市)
没地神奈川県鎌倉
配偶者今居てつ
埋葬場所都営染井霊園
(東京都豊島区駒込)

陸羯南の生涯をハイライト

「日本」という新聞に生涯の情熱を注ぎ込んだ

陸羯南は、弘前藩の御茶坊主頭の息子として生まれました。地元弘前で学んだ後、16歳になると宮城師範学校に学びますが、校長に反発して退学させられます。その後上京し、司法省法学校に入学しますが、いわゆる「賄征伐事件」を機に校長に反発し退学します。

帰郷し一度は新聞社に就職しますが芳しくなく、北海道の製糖所に勤務したり、再度上京して農商務省で翻訳の下請けに従事しています。1883(明治16)年、太政官御用掛となり文書局に勤務しました。翌年、今居てつと結婚します。

その後、文書局の廃止にともない新設された内閣官報局の編集課長となりますが、1888(明治21)年に退職。谷干城、小村壽太郎らの支援を得て『東京電報』を創刊、翌春『日本新聞』と改題し社主兼主筆となりました。

ジャーナリストとしての主戦場を「日本」に定め、ナショナリズムとデモクラシーの統合を目指す立場から、『近時憲法学』『近時政論考』『国民論派』などの著作を発表しました。また、正岡子規を社員として採用しつつ、隣家に住まわせ生活の面倒をみるなど保護しています。

1906(明治39)年に体調をくずし、経営悪化していた『日本』を伊藤欽亮に譲渡します。翌1907(明治40)年、肺結核により亡くなりました。

陸羯南の出身

桜の季節の弘前城

陸羯南は、陸奥国弘前藩(通称「津軽藩」、現在の青森県弘前市)の出身です。藩主である津軽家は10万石の外様大名でした。羯南の父・中田謙斎は、その津軽家に御茶坊主頭として仕えていました。津軽藩は幕末、最終的に新政府側にしたがうのですが、明治政府からは冷遇されてきました。

そうした環境も手伝って、幼少期の羯南は勉学にまい進してゆくことになります。幼くして漢籍を学び、旧藩校である東奥義塾へ進みます。さらに宮城師範学校、司法省法学校と勉学の道を歩んでいきました。

陸羯南の知人・友人

磁石に例えられる羯南の人柄は、多くの人から慕われた

陸羯南の交友は幅広く、政財界をふくめ様々な人との交際がありました。学友というところでは、「平民宰相」とよばれた原敬、国会議員の加藤恒忠、ジャーナリストの福本日南、禅僧で歌人の天田愚庵らがいます。

また、羯南を支援した人々にはそうそうたる顔ぶれが集っています。品川弥二郎(就職を斡旋)、井上毅(仕官時代の上司)、谷干城(「日本」創刊を支援)、近衛篤麿(「日本」を支援)などがいます。

日本新聞社社員の中にも、三宅雪嶺・長谷川如是閑といった名物記者、正岡子規らがいました。

陸羯南の性格

処分されても臆さず、羯南は「日本」を発行しつづけた

陸羯南の性格は、一言でいうと肝の座ったリアリストであったと考えられます。ジャーナリストとして政府批判をくり返し、新聞「日本」が発行停止処分を受けても主義主張を変えることはありませんでした。

情に厚い人柄も有名で、後輩記者だけでなく政財界の著名人にも一目置かれています。作家の司馬遼太郎は、羯南の人間味あふれる魅力を「磁石」に例えました。友人である加藤恒忠の甥・正岡子規にむけられた恩情も、羯南の性格を物語っています。

陸羯南の死因

清涼な秋の日、羯南は旅立った

晩年の陸羯南は、肺結核を発症し最後は喀血をくり返して亡くなりました。ということで、死因は「結核」です。

なお、いまではあまり馴染みのない結核という病は、昭和20年代まで日本人の死因の第1位でした。

羯南自ら隣家に住まわせた正岡子規も、結核から脊椎カリエスを発症しています。結核そのものが珍しくなかった時代性もありますが、ふたりの死に共通点があるのは宿命的なものを感じてしまいます。 

陸羯南の功績

功績1「明治期にジャーナリズムの確立を目指した」

新聞の欠点を指摘した

陸羯南の最大の功績は、ジャーナリズムの確立を目指した点にあります。

当時の日本は維新後の開化期にあたっており、欧米諸国からは未開の国と扱われ、幕末に締結した不平等条約問題も未解決でした。その中で、羯南は新聞「日本」を興します。

その創刊の辞として、党派性、営利性という新聞の欠点を指摘したのです。その上で、「日本」においては不偏不党を方針とする旨を宣言しています。羯南の指摘は、当時の新聞ジャーナリズムに大きな衝撃を与えました。

このことは、いまなおジャーナリズムの腑肺を突きうる指摘だということができます。惜しむべきは、その硬派すぎる姿勢に読者がついてこられず、経営難から「日本」を手放さざるをえなかったことです。

功績2「正岡子規を保護して短詩文学興隆に寄与」

正岡子規は、新聞「日本」で俳句・短歌の革新をなしとげた

もう一つ大きな功績は、俳人・歌人の正岡子規(1867-1902)を保護したことです。これは子規の叔父にあたる加藤恒忠が羯南の親友であったことによります。

羯南は、子規を隣家に住まわせ、新聞「日本」社員とし、俳句短歌を担当させています。この「日本」が子規の活躍の場となりました。

もし、羯南が子規を保護していなかったら、正岡子規は歴史にその名を残すことなく、俳句短歌もいまのような発展を遂げなかったでしょう。

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