イェニチェリとは何?スルタンに忠誠を誓った最強軍団とは

「イェニチェリって何?」
「イェニチェリの強さについて知りたい」
「イェニチェリにまつわるエピソードはある?」

このページを見てくださっている皆さんは、そんな疑問をお持ちかもしれません。

イェニチェリとは、オスマン帝国の歩兵軍団のことです。スルタンの親衛隊として数々の戦いに従軍しました。

当初は火力に優れたオスマン帝国の最精鋭部隊でした。しかし、時代の変化とともに時代遅れとなり、改革に抵抗する勢力になってオスマン帝国近代化の障害となります。改革の障害となったイェニチェリは19世紀前半に廃止されてしまいます。

今回はオスマン帝国の軍事力を支えたイェニチェリについてまとめます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

イェニチェリとは?

イェニチェリ

イェニチェリとは、オスマン帝国で編成された常備歩兵軍団です。建国当初、オスマン帝国の皇帝であるスルタンはトルコ人貴族たちが率いる軽騎兵に頼っていました。

オスマン帝国が多くなり始めた14世紀後半、君主直属の軍団としてイェニチェリがつくられました。イェニチェリとは「新しい兵士」という意味です。

オスマン帝国の最大領土

イェニチェリは15世紀から16世紀にかけて行われたオスマン帝国の領土拡大戦争で、オスマン帝国軍の主力部隊として活躍しました。また、鉄砲(日本の火縄銃のような長銃)や大砲を積極的にとりいれ、火力で敵軍を圧倒します。

オスマン帝国の領土拡大が停止し、逆に周辺諸国から攻められるようになった18世紀以降、イェニチェリはオスマン帝国の改革に反対する抵抗勢力となってしまいます。ついには、軍制改革を行おうとしたスルタンを幽閉、退位させてしまいます。

19世紀前半、帝国改革を進めようとしたスルタン、マフムト2世は周到な準備を整えて一気にイェニチェリを全廃しました。

元キリスト教徒の子弟で構成

デウシルメ制度でキリスト教徒の子弟が徴用されたバルカン半島

実はイェニチェリは元キリスト教徒の子弟で構成されています。彼らはバルカン半島から集められました。キリスト教徒の子弟を強制的に徴用し奴隷として、イェニチェリ軍団の兵士としたのです。

キリスト教との子弟が徴用された理由は、コーランで、奴隷は戦争によって獲得するか、購入するかしか認められていなかったからです。キリスト教徒を強制的に奴隷として徴収する仕組みをデウシルメといいます。

奴隷購入の費用がかからないのがデウシルメの利点です。また、スルタン個人の奴隷だったため、忠誠の対象がスルタンに限られることも利点となります。

デウシルメで徴用されたものたちは強制的にイスラム教に改宗させられます。イェニチェリとしてスルタンの親衛隊になるものだけではなく、役人として出世するものもいました。

やがて、デウシルメ制度は形だけとなり、イェニチェリは世襲されるようになります。世襲制となってイェニチェリは特権集団にかわり、改革に反対する抵抗勢力となってオスマン帝国の改革を妨げます。

鉄砲で武装した火力重視の歩兵軍団

イェニチェリが他の軍団と異なるのは鉄砲で武装し高い火力を誇っていたことです。イェニチェリの登場以前、オスマン帝国の軍事力のかなめはトルコ人貴族が率いるシパーヒーとよばれる軽騎兵が中心でした。

再現された鉄砲の斉射(長篠合戦のぼりまつりより)

騎兵に対抗するもっとも効果的な方法は遠距離攻撃能力を持つことです。騎兵が自分の陣地に突入してくる前に遠距離攻撃で騎兵を倒すということです。イェニチェリは15世紀にヨーロッパで生産が盛んになった鉄砲を取り入れ、遠距離攻撃能力を向上させます。

鉄砲で騎兵を圧倒するといえば16世紀後半の長篠の戦いが有名です。織田信長は大量の火縄銃を用いて戦国最強を謳われた武田氏の騎馬軍団に勝利しました。イェニチェリは信長より100年以上前に鉄砲を取り入れ火力を増強していたのです。

オスマン帝国の大砲

さらに、イェニチェリは専門の砲兵隊や工作部隊、軍楽隊まで備えました。強力な火力を持つイェニチェリはスルタンの親衛隊にふさわしい強力な部隊であるといえます。

不満があれば「大鍋をひっくり返す」

メフテルで再現されたイェニチェリの行進

トルコ語には「大鍋をひっくり返す」という表現があります。これは、トルコ語で反乱を起こすことを意味する言葉です。語源となったのはイェニチェリでした。

イェニチェリのシンボルは野戦で食事の時に使う大鍋とスプーンです。これは、彼らが主君であるスルタンと食事を共にする特権を持ち、周囲とは違う特別な存在だからでした。

スルタンはイェニチェリに俸給を与え軍人として養いました。もし、イェニチェリがスルタンから与えられる俸給や待遇に不満なら、彼らは各自の鍋をひっくり返します。そして、スルタンに待遇改善を迫りました。

本来なら、イェニチェリはスルタンの奴隷であり、そのような行為は許されないはずです。しかし、イェニチェリの力が強まるとスルタンも彼らの要求を拒むことができませんでした。

広場に集まるイェニチェリ

公然と主君であるスルタンに抗議できるようになったイェニチェリは、特権集団化します。イェニチェリの地位は世襲化し、特権は親から子に引き継がれました。

一種の政治勢力となったイェニチェリは各地で有力者と結びつき好き放題な行動をとったり、首都のイスタンブールで暴動を起こすなど勝手気ままにふるまいました。そして、気に入らない人物なら宰相やスルタンでさえ更迭・廃位してしまいます。

イェニチェリの音楽として知られるメフテル

メフテルハーネによるメフテルの演奏

イェニチェリには専属の軍楽隊がいました。彼らが奏でる曲をメフテル、軍楽隊のことをメフテルハーネといいます。

メフテルは西アジアの音楽と中央アジアのトルコ系民族の太鼓のリズムが組み合わさった音楽だとされます。メフテルはイェニチェリ軍団に随行したので、イェニチェリが行くところ、必ずメフテルが奏でられました。

16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国軍はバルカン半島を北上しハプスブルク家の都であるウィーンを二度にわたって包囲します。この時、ヨーロッパの人々の耳にメフテルの旋律が強く印象付けられたのかもしれません。

『トルコ行進曲』を作曲したモーツアルト

古典派音楽を代表するモーツァルトとベートーベンはそろって「トルコ行進曲」を作曲しています。彼らの「トルコ行進曲」はメフテルを意識したものでした。

また、メフテルの有名な曲に「ジェッディン・デテン」があります。この曲は日本のドラマ『阿修羅のごとく』 のオープニング曲として用いられ、視聴者に強いインパクトを与えました。このように、メフテルは聴き手に大きな影響を与える曲なのです。

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