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アケメネス朝ペルシアとはどんな帝国?都の位置や特徴、歴史年表を紹介

「アケメネス朝ってどんな国?」
「アケメネス朝の都や仕組みについて知りたい」
「アケメネス朝のダレイオス1世ってどんな人?」

このページをご覧のあなたはそのような疑問を持っているのではないでしょうか。

アケメネス朝は紀元前550年から紀元前330年に存在したイラン人の帝国です。強大な軍事力でオリエント全域を征服しました。広大な土地を征服したアケメネス朝は国内各地を州に分けて統治し、さらに大王の命令が国全体にいきわたるよう、駅伝制が整備されました。

アケメネス朝の最盛期の王はダレイオス1世です。ダレイオス1世はギリシア征服をめざしペルシア戦争を起こしました。

今回はそんなアケメネス朝がどんな王朝だったのか、アケメネス朝のしくみ、最盛期の王ダレイオス1世などについて解説します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

アケメネス朝とは

アケメネス朝ペルシアの国旗
出典:Wikipedia

ペルシアに存在した王朝

アケメネス朝はペルシアに存在した王朝です。

エラム人が支配したペルシア地方

アケメネス朝以前、ペルシアはエラム人が支配しました。エラム人はメソポタミアに侵入するなど強盛を誇ります。紀元前7世紀前半、エラム人はアッシリアの攻撃で大打撃を受け、ペルシアはアッシリアの支配下に入りました。

アッシリア滅亡後、ペルシアに隣接するイラン高原にはメディア王国が成立します。ペルシア地域もメディアの支配下に入りました。紀元前550年、ペルシア人のリーダーであるキュロス2世がメディアを滅ぼして自立しアケメネス朝ペルシアが成立します。

ペルシアはどの地域?

現在のイラン全土とファールス地方(黄緑色部分)

ペルシアとは、現在のイラン南西部にあたる地域のことです。もともと、ペルシア人たちはファールスと呼んでいましたが古代ギリシア人が「ペルシス」と呼び、それがラテン語化して「ペルシア」となります。

最初、ペルシアはイラン南西部だけをあらわしていました。その後、ペルシアは現在のイラン全土を表す言葉に変化します。中国では波斯(はし)国などと記述されます。

ペルシアという地域がヨーロッパだけではなく中国にまで知れ渡っていたのは、ペルシアが東西を結ぶシルクロードの重要地点だったからでした。

アケメネス朝ペルシアの2つの都

アケメネス朝ペルシアには2つの都がありました。一つはエラム人の時代から栄えた都のスサ、もう一つはダレイオス1世がつくらせたペルセポリスです。

スサで出土したスフィンクスの壁画

スサはスーサともよばれます。エラム人が都をおいたことから、古代イラン文明の中心地のひとつとなりました。エラム人が滅亡した後、スサを支配したのがアケメネス朝です。アケメネス朝の統治下でスサは行政の中心地として繁栄しました。

ペルセポリス遺跡

ペルセポリスはダレイオス1世、クセルクセス1世、アルタクセルクセス1世の3人の王が造営し続けた都です。ペルセポリスはギリシア名で、ペルシア人たちは「タフテ・ジャムシード(ジャムシード王の玉座)」とよびました。ペルセポリスでは王が祭儀を行います。

ペルセポリスに残される石の列柱

アケメネス朝が栄えていたころ、ペルセポリスには壮麗な石造建築物が立ち並んでいたといいます。しかし、紀元前330年、アレクサンドロス大王がペルセポリスを攻め落としたとき破壊されてしまいました。このとき宮殿は破壊されましたが列柱などが今も存在し、当時の華麗さをしのばせてくれます。

他にも、メディア王国の旧都エクバタナや新バビロニア王国の旧都バビロンも都として扱われることがあります。

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