アケメネス朝ペルシアとはどんな帝国?都の位置や特徴、歴史年表を紹介

アケメネス朝の特色

広大な土地を統治するシステム

アケメネス朝の州

アケメネス朝は広大な領土を統治するため、全国を23の州に分けて統治しました。アケメネス朝の王は各州に総督(サトラップ)を派遣して州の政治を行わせます。サトラップは徴税権や司法権、治安維持などをおこないます。サトラップはまさに、「王の代理」として州を統治しました。

それだけではありません。各州のサトラップたちが勝手なことをしないように見張り役が派遣されました。彼らは「王の目・王の耳」とよばれます。さらに、重要地点の要塞はサトラップではなく王の直接指揮下に置かれ、サトラップをけん制する役割を担いました。

また、アケメネス朝では金貨や銀貨も鋳造されます。加えて、各地でばらばらだった税制も統一します。しっかりした統治システムを持ったアケメネス朝の支配は200年にわたって続きました。

寛大な統治

アケメネス朝は征服した諸民族を寛大に扱いました。これは、すぐれた軍事力でオリエントを統一しながら短期間で崩壊したアッシリアと対照的です。

力を誇示するアッシリアの王アッシュール・バニパル

アッシリアはアケメネス朝登場以前にオリエント世界を統一した大帝国でした。強大な軍事力にものを言わせ、逆らう民族は徹底的に弾圧し、敵対する都市は破壊してしまいました。アッシリアの支配は軍事力に依存していたので、軍事力が弱まるとあっというまに崩壊します。

一方、アケメネス朝は征服した土地の異民族に寛大でした。納税や軍役などの義務を果たせば内政には干渉しないとしたのです。各州のサトラップたちも異民族の言語や宗教、法律を尊重しました。

アケメネス朝最盛期の大王ダレイオス1世

大王ダレイオス1世

アケメネス朝最盛期の君主はダレイオス1世です。その偉大さから「大王」と評されました。ダレイオス1世の時代、東はインダス川、西はギリシア北方のマケドニアまで征服し、前代未聞の大帝国を作り上げます。

サトラップのしくみや「王の道」とよばれる全長2400キロメートルの軍道、駅伝制度など大帝国を統治する仕組みの大半はダレイオス1世の時代に整えられます。

紀元前500年、ダレイオス1世は地中海商業で栄えていたギリシア人たちを征服するためペルシア戦争を起こします。しかし、ギリシア人たちの奮戦によりダレイオス1世の遠征は失敗に終わりました。

アケメネス朝の保護を受けた「ゾロアスター教」とは?

イランのヤズドにあるゾロアスター教寺院(拝火神殿)の火

ゾロアスター教はアケメネス朝成立以前の紀元前7世紀にメディアの預言者ゾロアスターによって開かれたペルシアの宗教です。儀式で炎を用いることから「拝火教」ともよばれます。

ゾロアスター教において、世界は善神アフラ=マズダと悪神アーリマンの対立抗争で成り立っていると説かれます。ゾロアスターは、人間はアフラ=マズダに味方して保護を求めるべきだと唱えました。

アケメネス朝では、歴代の王がゾロアスター教を信仰したため、ゾロアスター教は保護の対象となります。ゾロアスター教が国教となるのはアケメネス朝滅亡の500年後にできるササン朝の時代です。

アケメネス朝の歴史年表

紀元前550年:アケメネス朝建国

キュロス2世東條直前のオリエント世界(黄:メディア、緑:新バビロニア、青:リディア、薄緑:エジプト)

紀元前550年、ペルシア人のアケメネス家出身のキュロス2世がメディア王国を滅ぼして自立し、アケメネス朝を建国しました。それまで、ペルシア地方を支配する一小国の王家だったアケメネス家は、イラン高原も支配する強国へと成長します。

キュロス2世は隣国のリディアや新バビロニアも攻め滅ぼし、イラン、イラク(メソポタミア)、小アジアにまたがる領土を築き上げます。次のカンビュセス2世が紀元前525年にエジプトを征服したことで、アケメネス朝はオリエント全域を支配するようになりました。

紀元前500年:ペルシア戦争の開始

ペルシア戦争関連地図(オレンジがアケメネス朝、青がギリシアポリス連合軍)

紀元前500年、アケメネス朝のダレイオス1世はギリシアの征服に乗り出しました。この戦争をペルシア戦争といいます。戦争の発端はアケメネス朝が支配するイオニア地方(小アジアの地中海沿岸)で起きた反乱でした。

反乱を鎮圧したダレイオス1世は、イオニアの反乱軍を支援したアテネなどを大軍で攻めました。数に劣るアテネなどギリシア人のポリスは結束してアケメネス朝に対抗します。

ギリシア連合軍が使用した軍艦

紀元前490年のマラトンの戦いや紀元前480年のサラミス海戦などはギリシアの勝利に終わります。紀元前449年、アケメネス朝とアテネはカリアスの和約を結んで戦争を終結させます。アケメネス朝は和約が成立したあともギリシアへの干渉をつづけました。

紀元前330年:アケメネス朝ペルシアの滅亡

ペルシア戦争から150年以上たった紀元前338年、ギリシア北方のマケドニアがカイロネイアの戦いでアテネなどに勝利し、ギリシアのリーダーとなりました。

哲学者アリストテレスの講義を受けるアレクサンドロス

紀元前336年、父の暗殺によって20歳で王位に就いたアレクサンドロスはギリシアの宿敵であるアケメネス朝打倒の兵をあげます。アケメネス朝のダレイオス3世は帝国各地から軍を集めアレクサンドロスを迎え撃ちました。

アレクサンドロスがダレイオス3世に勝利したイッソスの戦い

紀元前333年から紀元前330年にかけて、アレクサンドロスが指揮するマケドニア軍はアケメネス朝の大軍を次々と撃破し、短期間で小アジア、エジプト、メソポタミアを制圧しペルセポリスに入城します。

ダレイオス3世はエクバタナで軍を再編しアレクサンドロスに最後の決戦を挑もうとしました。しかし、部下たちがダレイオス3世を見放して逃亡してしまいました。

アケメネス朝最後の王となったダレイオス3世

やむなく、ダレイオス3世は東方に逃れました。紀元前330年、ダレイオス3世は逃亡先であるバクトリアのサトラップによって刺殺されてしまいます。これにより、アケメネス朝は滅亡しました。

アケメネス朝に関するまとめ

いかがでしたか?

アケメネス朝は紀元前550年から紀元前330年にかけてオリエントを支配したイラン人の王朝です。広大な領土を分割支配し、各地の民族を寛大に扱ったアケメネス朝は200年以上にわたって繁栄しました。

最盛期の王ダレイオス1世は帝国のシステムを整えましたが、ギリシア遠征には失敗してしまいます。現在遺跡として残るペルセポリス王宮をつくったのもダレイオス1世でした。

紀元前330年、アケメネス朝は戦争の天才であるアレクサンドロス大王によって滅ぼされます。戦いに敗れた最後の王ダレイオス3世は部下の裏切りによって殺されました。

今回の記事、でアケメネス朝とは何か、アケメネス朝の都や仕組みはどうなっていたのか、アケメネス朝の最盛期の王は誰なのかなどについて「そうだったのか」と思える時間を提供できたら幸いです。

長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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