ルドルフ・ヘスとは、20世紀にドイツの独裁国家を築いたナチ党の副総統です。ドイツの帝国主義が台頭した時に、アドルフ・ヒットラーを陰で支えた縁の力持ちの役割だったといいます。ナチスの親衛隊での最終的な役職は親衛隊大将でした。
ヘスはナチスの為に動き、妄信的にヒットラーを敬愛した人でした。国家社会主義ドイツ労働党が発足した頃からの党員であり、ヒットラーからも非常に信頼されていたといいます。戦後ナチスの幹部は処刑されたのですが、精神疾患を理由に終身刑に処された異色の経歴の持ち主です。
なんとも濃い人生を送った彼の人生の経歴やエピソードを紹介していきます。趣味でドイツ民族史を長年研究し続けた筆者が、出来るだけわかりやすく説明できたらと思います。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ルドルフ・ヘスとはどんな人物か
名前 | ルドルフ・ヘス |
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誕生日 | 1894年4月26日 |
没日 | 1987年8月17日 |
生地 | エジプト・アレクサンドリア |
没地 | 西ドイツ・西ベルリン シュパンダウ区 |
配偶者 | イルゼ・プレール |
埋葬場所 | バイエルン州ヴンジデール |
ルドルフ・ヘスの生涯をハイライト
ルドルフ・ヘスはどのような人生を送ったのか、最初に簡単に説明したいと思います。
彼はエジプトのアレクサンドリアでドイツ人貿易商をしているフリッツ・ヘスを父に、スイスの豪商・領事の娘クララ・ミュンヒを母として誕生しました。ヘスの家は厳格なドイツ人の家で、皇帝の誕生日の時は本国と同様に祈っていたといいます。幼少期はエジプトで過ごしました。
青年期になりドイツ本国のライン地方にある寄宿制ギムナジウムに送られて青年期をそこで過ごし、その後父の後を継ぐためにスイスの商業学校に入学します。この頃はまだ貿易商になるつもりでした。
しかし、第一次世界大戦が始まると父の反対を押し切って従軍を志願します。しかし、大した活躍も出来ないまま退役し、ミュンヘン大学に入学しました。そして、大学時代にアドルフ・ヒットラーの演説を聞き、感銘を受けナチ党に入党したのでした。
30代でヘスはヒットラーの秘書になります。そして、1933年にナチ党が政権を握ると、ヒットラーが総統となり、ヘスは副総統に任命されました。
しかし、実際は他の側近たちに権限を奪われていき、名前だけの名誉職的な部分も大きかったといいます。主にドイツ各地を回って、国民や党員と交流を深めるといった形式的な職務を主に受け持っていたといいます。
そして、ヘスが40代の時に独英戦争が始まります。かねてよりイギリスとの戦争を反対していたヘスは、ヒットラーに相談もなく独断でイギリスに和平交渉のため飛行機で飛び立ちました。運よく防空にあわず、スコットランドに不時着したヘスは和平交渉に臨もうとしますが、逮捕されてしまいました。
そしてロンドン塔に移送され、その後鬱病が理由で精神病院に終戦までいました。1945年に戦犯として裁かれるためニュルンベルグ刑務所に移送されました。そしてニュルンベルグ裁判にかけられますが、精神疾患を理由に死刑にはならず無期懲役の判決を受けました。その後93歳で自殺するまで刑務所の中で過ごすこととなったのです。
ナチ党に入党、ヒットラーに傾倒する
1920年の大学時代に、ミュンヘンのビアホールでアドルフ・ヒットラーの演説を聞き、非常に感銘を受けナチ党に入党しました。この頃のヘスの手紙には、ヒットラーのことを「護民官」と呼び尊敬していたといいます。そしてヒットラーの演説を聞き、ドイツ革命の黒幕は共産主義者とユダヤ人であるという考えに賛同し、大学時代は、反共産主義、反ユダヤ主義の社会運動に没頭していたといいます。
1923年のミュンヘン一揆の時は、ヒトラーと共にビュルガーブロイケラーを突撃します。そして、ユダヤ人とドイツ社会民主党の党員を拘束、監禁しました。しかし、一揆は失敗しヒットラーとヘスは逮捕されました。その後出所後はヒットラーの秘書になり、ナチ党の片腕として活躍していくことになるのです。
ナチ党の副総統となる
1933年ヒットラーが首相に任命されると、ヘスは副総統に任命されました。この役職は、総統の代わりに党のあらゆる問題を処理する権限を持ち、また立法が国家社会主義に反していないか監視する役割を持ち、ドイツの法律に関与できることが定められていました。しかし実際は全てヒットラーが指示するものであり、ヘス自身が決定することはほとんど無かったといいます。
そしてナチ党幹部たちに唐変木と思われていたらしく、実権は徐々に他の幹部たちに奪われて行きます。そうした中でも、1939年のポーランド開戦の際に、ゲーリングの次の第二後継者と定められました。これは、国民人気を配慮してのことだったといいます。
イギリスへの単独飛行
1941年ヘスはイギリスに単独飛行をしました。理由はかねてからイギリスとの戦争を望んでいなかったヘスが、和平を持ち掛けるためにヒットラーにも申告せず独断で決行したものでした。僅かな訓練しか積んでおらず、夜間ということもあり到着出来ない可能性も高かったのですが、運よくイギリスにたどり着くことが出来ました。
後にこの知らせを聞いたヒットラーは「なんということだ、ヘスがイギリスへ飛んだ。」と叫んだといいます。結果として目的の和平交渉もできず、ドイツからも他の同盟国を裏切って対英単独講和を行おうとしていることを危惧し「ヘスは病気が進行し、総統の静止を振り切って単独で飛行した。」と発表されてしまいます。
謎の死を遂げる
ヘスはイギリスで逮捕されたあと、50年近い囚人生活の後に、1987年の93歳の時刑務所内の庭にある避暑用のキャピンに電気コードを使い首を吊り死亡しました。ポケットには遺書が残されており、鬱病による首つり自殺と結論付けられました。
しかしヘスの息子ヴォルフ=リュディガー・ヘスが、イギリスによる暗殺説を主張しています。主張は、「1980年代にはソ連が釈放に傾きつつあったため、単独飛行の際に話し合われたことを釈放後に暴露されることを恐れたイギリスが父を暗殺した。」ということです。しかし、真相は永久に闇の中と言えるでしょう。
ルドルフヘスの功績
功績1 「ヒットラーの「わが闘争」を口述筆記した」
ミュンヘン一揆に失敗し、ヒットラーと共にランツベルク刑務所に投獄されたヘスは、獄中でヒットラーと非常に親密になったといいます。ヘスが通う大学教授のハウスホーファーも加わって3人で長時間語り合ったといいます。
そうしてヒットラーの「我が闘争」を口述筆記しました。この「我が闘争」はヘスの意見も含まれているといいます。特に「生存圏」や「歴史におけるイギリスの役割」などの項目はヘスの影響が大きいと言われています。
功績2「ナチ党が政権をとるための全面的サポートした」
彼はランツベルク収容所を出所した後、ヒットラーの秘書として働き始めました。仕事内容はヒットラーのスケジュールの管理と、苦情の受付を担当していたといいます。そうして、ヒットラーに余分な仕事ができるだけ入らないように徹底したといいます。
「ヒトラーに近づくのは容易ではなかった。いつもその近くにヘスがいたからだ」と言われるくらいだったそうです。また、ヘスはヒトラーの秘書活動の合間を縫って党のための宣伝飛行も行っていました。「ドイツ一周飛行」や「ツークシュピッツェ飛行」などの航空イベントに参加し、党の宣伝に尽力したのです。
ルドルフ・ヘスの名言
「党はヒトラーに忠誠を誓う。ヒトラーはドイツそのものである。」
名言と言うべきか、迷言と言うべきかといった言葉ですが、ヘスのヒットラーへの尊敬を伺い知ることができます。ヘスは演説の時に、全能の神について語るような口調でヒトラーを紹介したそうです。そして群衆の熱狂的な「ハイル・ヒトラー」の音頭をとっていました。