ワイマール共和国とはどんな国?建国から滅亡まで分かりやすく解説

「授業で習ったような気がするけどそもそもどんな国だっけ?」
「ワイマール憲法を覚えるように言われたけどどんな憲法なんだろう。」
「 いつも戦争時代は駆け足の授業で印象薄いな。」

ワイマール共和国(ヴァイマール共和政)と聞くと、こんな感想が多いのではないでしょうか。実はとても優れた民主制国家だったのですが、たった14年で滅びてしまい、その後のナチスの帝国主義のインパクトに押されて少し影が薄く感じます。しかし、この国は時代を先取りした凄い国だったのです。

そんな民主主義の鏡のような国がなぜ14年で滅びてしまったのか。できるだけ分かりやすく説明出来たらと思います。この国は、ワイマール共和国ともヴァイマル共和政とも日本語訳されますが、こちらの記事ではワイマール共和国で記載したいと思います。きっと読み終わった時のあなたも、先進の民主主義に驚くはずです。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

ワイマール共和国(ヴァイマル共和政)とはどんな国?

ワイマール共和国の国章

ワイマール共和国は「ヴァイマール共和政」「ドイツ共和国」とも近年呼ばれる1919年に発足して、1933年事実上崩壊した現在のドイツ国の国家です。1919年にワイマールで憲法が作られたためそう呼ばれています。

世界的に文化が花開いた「黄金の1920年代」と言われた時代の中でも、最も進んだ民主憲法を持った国家だったのです。産業社会の発達の下で、サラリーマン層は都市生活をエンジョイし、若者はアバンギャルドな生活を楽しんでいたといいます。

建国までの成り立ち

ドイツ革命

ワイマール共和国が建国したきっかけは、1918年に起きた「ドイツ革命」によってでした。ドイツ革命の大衆蜂起により、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ帝国が打倒されました。これにより第一次世界大戦は終結し、ドイツでは議会制民主主義を旨とするワイマール共和国が建国されたのです。

ワイマール憲法の下で国民の直接選挙で選ばれる大統領制、議会制が実現し、選挙によって選ばれた連立内閣が敷かれた国でした。ワイマールという国名なので、ワイマールに首都があると思われがちですが、首都はベルリンです。

ワイマール共和国の特徴

初代大統領フリードリヒ・エーベルト

1919年1月に国民議会選挙が行われて、連立政府が形成されました。この連合はワイマール連合と呼ばれます。2月6日からワイマールで国民議会が開催され、2月11日の大統領選挙でフリードリヒ・エーベルトが臨時大統領に選出されました。そして7月末にワイマール憲法が採択され、8月11日に公布されたのです。

ワイマール都市の紋章

この憲法において大統領の権限の強い共和制、ドイツ帝国諸邦を基にした州による連邦制、基本的人権の尊重が定められました。これが法制史における人権概念の出始めとされており、後に制定された日本国憲法にも影響を与えています。

この憲法は主導権を国民とし、財産を制限しない20歳以上の男女が選挙を行うという斬新性がありました。1920年代で財産を制限しないだけでなく、女性にも選挙権がある国は珍しかったのです。

いつからいつまで存続したのか?

ワイマール共和国の14年は大きく3つの時期に分けることができます。

1919年~1924年

カップ一揆の様子

1919年6月第一次世界大戦のドイツの敗北により、一方的なパリ講和会議でヴェルサイユ条約が締結され、連合国はドイツに対し膨大な賠償金支払など屈辱的な条件を押し付けました。戦争責任をドイツにあることが定めらたのです。これに反発して1920年にはカップ一揆が勃発します。この一揆は一時はベルリンを占拠しますが、4月には鎮圧されます。ワイマール共和国建国後も、国内紛争は絶えなかったのです。

その後も困難は続き、1923年9月にはドイツの賠償金支払いの遅れに苛立ったフランスが、ルール地方を占領しました。連合国への反抗とみなし、石炭や木材などの資源を差し押さえるためでした。その結果ハイパーインフレーションが頂点に達してしまったのです。

ナチ武装集団に拘束される市議会議員たち

そのため1923年11月8日にミュンヘン一揆が勃発します。この時にナチ党が一揆を起しますが、半日で鎮圧されヒットラーは逮捕されています。なかなか落ち着かないドイツでしたが、1924年に賠償問題の解決の道筋が立ち、ドイツにアメリカ資本の支援が行われることになり、生産力も回復したのです。

1925年~1929年

ワイマール共和国時代の肘掛け椅子

後に「黄金の20年代」と言われた時代でした。一時的な好景気を迎えたのです。大量生産時代を迎えてシンプルなデザインの機能主義の時代となり、そこで取り扱われる分野は建築から家具、インテリア、工芸品まで多岐に渡りました。国民はデパートで買い物をしたり、スポーツやダンスにも興じ、さらには普及し始めた自動車を乗って家族でキャンプに出かけたりもしていたといいます。文化の発展が目覚ましい時代だったのです。

ヒンデンブルグ大統領

政治に関しても、元軍人のパウル・フォン・ヒンデンブルグ大統領になり、右派も満足しヒンデンブルグ大統領も憲法と共和国に従うことを表明したので安定していました。この間に国際連盟にも加入しています。しかし1929年の世界恐慌により、一旦安定していたワイマール共和国が再度混乱に陥ってしまいます。

1930年~1933年

世界恐慌の時のアメリカの銀行の様子

1929年の世界恐慌の影響により、アメリカ資本の引き上げが開始され、ドイツ経済は最悪の事態となってしまいます。1930年代には失業者が350万人にも達してしまいます。そこで1930年の総選挙でナチ党が第二党となり無視できない勢力となります。

首相官邸の窓に現れたヒットラー

1931年には失業者の急増・銀行の倒産が相次ぎ社会不安が進む中、ヴェルサイユ条約の打破・議会政治の否定・共産主義者やユダヤ人の絶滅を掲げるナチ党が指示されていくようになります。1932年についにナチ党は第一党の政権となり、大統領のヒンデンブルグは1933年にヒットラーを首相に任命したのです。ヒットラーは基本的人権を停止するとともに、他の政党の抵抗力を奪いました。こうしてワイマール憲法は事実上効力を失い、ワイマール共和国は終焉しました。

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