ワイマール共和国とはどんな国?建国から滅亡まで分かりやすく解説

ワイマール共和国の政治はどうだったのか?

ワイマール共和制下の自治体

たった14年で崩壊してしまったワイマール共和国ですが、後の日本国憲法でも参考にされるほどの進んだ民主主義国家だったと言われています。ワイマール共和国はどういった政治を行ったのかを、見ていきたいと思います。

民主の精神と言われたワイマール憲法

ワイマール憲法の表紙

ワイマール憲法の中で大きく進んでいたことは、人間が人間の生活の保証を求める権利、すなわち人間の生存権を認めたところに先進性がありました。国民によって労働は権利であるとともに義務であり、それが満たされない場合には国家が失業手当や生活保護費を以てその生存を保証するという、現在に通じる福祉国家の先駆けとなったのです。

しかもワイマール憲法は、英米仏各国に先駆けて20歳以上のすべての男女に選挙権がありました。国民の誰もが生命と財産を守られ、政治にも参加できるという体制がいち早くでき上がったっていたのです。これがワイマール憲法が民主の精神と言われる所以です。

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異常なインフレの様子

赤字で十億マルクと記載のある紙幣

フランスがドイツのルール地方を占拠した1923年に、かねてよりインフレ傾向があったドイツが異常なインフレ状態に陥りました。その崩壊のスピードが異常だったのです。100万マルク硬貨が出たと思ったら、すぐに500万マルクが登場し、遂には100兆マルク紙幣まで登場したといいます。

マルクの価値が下がるために買占めに走る市民

ドイツのハイパーインフレは第一次世界大戦の敗戦を契機に、戦費の調達に公債を発行してあてたことが原因と言われています。また、ルール地方を占拠されたことによってお金がないために、大量の紙幣を印刷してしまったことも原因でした。このインフレは戦後10年間でなんと、物価が1.2兆倍という異常な事態となってしまったのです。

共和国の理念を発揮できなかった背景

1920年代当時、最先端の憲法を保持しながら、なぜ共和国の理念を発揮できなかったのか。その答えは既存政党の未熟さとドイツの国民性にありました。

1928年頃の官僚記念写真

まず、国民の利益を前提とした政治活動がなされていませんでした。14年間でなんと21もの内閣が出来ては崩壊するという有様だったといいます。特に末期は議会政治が機能不全に陥ってしまいました。また、ドイツ国民も上から支配されることに慣れきっていて、「自らが主権者である」という意識が不十分だったことが指摘されています。

ナショナリズムの研究家ハンス・コーン氏は、『ほとんどのドイツ国民、特に右派はワイマール共和国を臨時の存在であるとみなし、実際にそれを国家と称することを拒否していた。彼らにとって国家という言葉は「誇り」であり、「権力」であり、「権威」を意味するからである』と、ドイツ国民がワイマール共和国を正当な国家でないと考えていたと分析しています。

反ユダヤ主義の芽生え

ユダヤ教のシンボル

ドイツ国民の政治への怒りの矛先は、ユダヤ人に向うことになります。当時のドイツには2つのユダヤ人グループがいました。すでにワイマール共和国時代には、ドイツに同化しているしているユダヤ人と、第一次世界大戦やロシア革命の難民として東からの難民のユダヤ人です。

ドイツ国民は徐々にユダヤ人にドイツ人の就職先を奪われていると感じるようになり、また難民のユダヤ人に対してはスラム街を形成する彼らに社会生活を脅かす不気味な存在と映ったそうです。そこで反ユダヤ主義思想が活発になっていきます。

ワイマール共和国の終焉

こうした情勢不安からワイマール共和国は、最終的にナチ党に乗っ取られてしまうという終末を迎えてしまいます。民主主義というのはこのように脆い物なのか、ワイマール共和国がなぜ終焉してしまったのかをもう少し掘り下げてみたいと思います。

なぜ14年で崩壊したのか?

「大ドイツ国」の国号が書かれた切手

ワイマール共和国がどうしてたった14年で崩壊してしまったのか。その答えは、大恐慌による経済の不安定化、莫大な賠償を定めたヴェルサイユ条約への反発のほか、ドイツ人の政治観や民主主義への不信が挙げられます。またドイツ人は共和政体を単なる組織、しかも西欧の腐敗した組織にすぎないと軽侮していたといいます。

民主主義はドイツ精神に適応しない西欧からの輸入品であったと見なしており、ドイツ人が民主主義という概念そのものを嫌悪していたと考えられています。こういった考え方が、神聖ローマ帝国、ドイツ帝国を継承する新たな「第三帝国」を構築するべきであるという考え方になっていきました。その考え方につけ入られ、ナチ党に乗っ取られていったと考えられています。

ユダヤ民族への排外意識

ユダヤ人が戦場のドイツ兵を刺そうとしている絵葉書

1921年にアドルフ・ヒットラーが筆頭になったナチ党は、第一次世界大戦の敗戦と経済破綻の原因がユダヤ人だと主張しました。ドイツ人は北欧アーリア人種の最高層をなすと主張する一方、ユダヤ人は劣等人種であり、社会を崩壊させ、優秀な人種の権威と主導権を強奪しようとする者だと決めつけたのです。

著書「わが闘争」で、ヒトラーは、「ドイツ民族主義に敵対する平和主義・民主主義・国際主義は、文化破壊者たる『ユダヤ人種』による世界制覇の手段である」と述べました。英米仏等の反ドイツ政策は、すべてユダヤ人によるものだと主張したのです。そして、ユダヤ人の排斥とドイツ民族の生存圏の確立、ヴェルサイユ体制の打破を唱えました。当初は小さな政党だったナチ党は徐々に国民の指示を集め、最終的に第一政党まで登り詰めていったのです。

ナチ党に政権を取られる

成立日のヒットラー内閣

1933年1月30日朝、大統領官邸に新内閣の首脳が集まり、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)、保守派、貴族の連立内閣ヒトラー内閣が誕生しました。2月の「ドイツ国会議事堂放火事件」によって発令された緊急大統領令は、ワイマール憲法の基本的人権を停止するとともに、実質的に他の政党の抵抗力を奪ってしまいました。3月にはヒトラーは全権委任法を制定し、憲法に違背する法律を制定する権限を持ちます。これにより、ワイマール憲法は事実上その効力を失ってしまったのです。

さらに、1934年にヒンデンブルク大統領が死去して間もなく、ヒトラーは大統領と首相の権能を統合して「総統」とし、8月19日には民族投票を実施してこの措置を国民に承認させました。ワイマール憲法はその後も正式に廃止されることはなかったのですが、完全に機能しなくなりワイマール共和国は実質崩壊したのです。

ワイマール共和国に関するまとめ

この記事を執筆にあたって筆者が感じたことは、当時先進と言われた民主主義国家がなぜ14年で崩壊してしまったのか、その答えは第一次世界大戦の敗北でかせられた賠償金の支払いとそれに伴うインフラで、ドイツ人の心は追い詰められていったのではないかということでした。

いかに優れた憲法・理念があろうとも人の心は非常に脆く、ナチスが発する国粋主義と反ユダヤの思想に傾いていってしまったのでしょう。この問題は、ドイツに限らずあらゆる国での課題であり、ワイマール共和国を通して同じ過ちを繰り返さないように私たちも歴史を通して反省できるのではないでしょうか。長い記事を最後まで読んで下さりありがとうございました。

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