現代心理学の礎を築いた人物と言えば、フロイトとユング、アドラーの名前が挙げられます。
「フロイトとユングとアドラーって何が違うの?」「三人はどんな関係性だったの?」
そう疑問を抱く方もいるでしょう。この三名は、最初は互いを尊敬し合う仲でしたが、しだいに思想の違いから決別していき、対立するようになります。
ここでは、スピリチュアルカウンセラーの経験がある筆者が、若い頃に学んだ心理学の知識を交えて、フロイト、ユング、アドラーの三名について紹介します。今回は、フロイト、ユング、アドラーの人物像、学説、関係性の視点から、個別に説明していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
フロイト、ユング、アドラーとはどんな人?
フロイト、ユング、アドラーの三名は、現代心理学の基礎を築いた三大巨匠で、心理学を学ぶ上では避けては通れない人物です。
それぞれ独自の学説を提唱しており、その学説は現代まで引き継がれていて、多くの後継者たちに影響を与えました。
三名とも、根底には「無意識」というテーマを扱っていますが、その捉え方には大きな差異があり、現代においても派閥ごとに思想が分かれています。個々の好みや考え方によって、フロイト派、ユング派、アドラー派に分かれていますが、近年では、それらの対立は緩和の傾向をみせはじめ、それぞれの長所を取り入れながら切磋琢磨するようになってきています。
それでは、フロイト、ユング、アドラーの人物像を個別に紹介していきます。
ジークムント・フロイト
フロイトは1856年5月6日にオーストリアで生まれて、1873年(17歳)にウィーン大学に入学しました。大学では物理学を学びながら生物の脊髄神経細胞を研究して、脳科学に興味をもつようになります。
ウィーン大学を卒業した後は、20代半ばから20代後半までの間、コカインの研究をしたり、催眠によるヒステリー症状の緩和を学んだりしました。しかし、コカインは危険物質であるという見解が広まりつつあったため、彼の研究や論文は反発を生み、良い結果にはなりませんでした。
フロイトが本格的に精神分析をおこなうようになったのは、1886年(30歳)のこと。明確な治療法を確立したのは、1895年(39歳)のときでした。フロイトが精神科医として結果を残していったのは、さらにその後。中年期から晩年にかけて、フロイトは徐々に認知されはじめたのです。
カール・グスタフ・ユング
ユングは1875年7月25日にスイスに生まれました。1895年にバーゼル大学の医学部に入学し、若い頃はニーチェの影響を強く受けていたと言われています。
1907年にはフロイトに師事するようになり、本格的に精神分析の道を志すようになります。しかし、フロイトと交流していく過程で彼の思想に違和感を覚え、決別するようになります。
1927年には有名な著書『心理学的類型』を発表し、心理学の世界に大きな影響を残しました。
晩年は多種多様な専門家たちと交流し、多くの著書を残しました。そして現在までに、心理学の世界で最も有名な人物として語り継がれています。
アルフレッド・アドラー
アドラーは1870年にオーストリアに生まれ、フロイトとユングと同時代を生き、心理学の三大巨匠の一人となった人物です。4歳の頃に肺炎になり、死にかけたことがきっかけで医師を志すようになりました。
1888年にウィーン大学の医学部に入学し、卒業した後は、ユダヤ人の中下層階級を対象に、眼科医と内科医として治療を施すようになります。
そして、1902年にフロイトと出会い、精神分析の世界に深い関りをもつようになります。しかし、アドラーは間もなくフロイトの意見に反発を覚え、1911年には、仲間たちと共に自由精神分析協会(個人心理学会)を設立します。
その後は独自の心理学体系を築いていき、個人心理学の創始者となって、自己啓発的でより実用的な心理学を提唱するようになります。