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聖徳太子の生きた時代とは?時代年表まとめ【主な出来事や重要人物、文化、経済についても紹介】

お札にもなった聖徳太子は飛鳥時代の皇族。推古天皇の摂政となり、古代日本の国家づくりにかかわった人物です。そんな聖徳太子が生きた時代の日本は、混乱を経て、豪族の合議制から天皇を中心にした国づくりを目指してさまざまな改革が行われ、日本国家の礎が築かれました。

聖徳太子の時代はどんなことが起こっていたのかな?」
「聖徳太子のいた時代の歴史について知りたい!」

と、このように思っている方もいるでしょう。聖徳太子の時代はまさに、日本国家のスタートともいえます。

そこでこの記事では、聖徳太子が生きた時代に関して

  • おもな出来事や特徴
  • 文化と経済
  • この時代に活躍した主要人物
  • 聖徳太子時代の年表

などを詳しくご紹介します。

聖徳太子時代とは?

敏達天皇の弟、のちの用明天皇の子として誕生した聖徳太子

聖徳太子は574年に生まれ、593年に推古天皇の摂政となり、冠位十二階や憲法十七条、遣隋使など国政改革を実行した政治家です。

聖徳太子時代は、彼が生まれた西暦574年から没した622年の約半世紀にあたります。時代区分でいうと、広義には古墳時代(7世紀ころまで)にあたり、狭義には推古天皇即位前後から飛鳥時代に入ります。

6世紀末の日本の時代背景は蘇我氏と物部氏という二大豪族の内乱、天皇暗殺など混乱の極みにありました。しかし推古天皇が即位し、摂政の聖徳太子、豪族の蘇我馬子とともに三頭政治が始まると、国内はようやく平穏を取り戻します。

以降約30年間、大胆な国政改革が行われ、天皇を中心とした国家の基礎が築かれました。

聖徳太子時代のおもな出来事

おもな出来事1「内乱から天皇中心の国家へ」

丁未の乱は聖徳太子の誓願により蘇我軍が勝利。
そのお礼として聖徳太子が建てた四天王寺

6世紀半ば、百済から伝わった仏教の受け入れについて賛成の蘇我氏と反対の物部氏が対立し、そこに皇位継承が絡んだ権力争いが加わります。蘇我馬子と物部守屋は敏達天皇の葬礼の場でお互い罵り合うまでになりました。

いっぽう皇位は敏達天皇の死後、その兄弟の間で皇位が争われます。聖徳太子の父・用明天皇が即位2年足らずで没したあと、蘇我氏は物部氏についた皇族を殺し、丁未の乱で物部氏を討ち取りました。

権力を握った蘇我氏はその後、反抗した崇峻天皇を暗殺し、姪の推古天皇を擁立します。そして聖徳太子が摂政となりました。こうして内乱が収まり、推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の三頭体制のもと、新しい国づくりが行われたのです。

おもな出来事2「仏教が受け入れられ飛鳥文化が誕生」

飛鳥大仏。ほとんど後世の修復とされるが、
原型は飛鳥時代の作とされる

6世紀半ば、仏教が百済から伝えられた日本では、この受け入れを巡り豪族が争います。蘇我氏が私的に仏像を祀れば、物部氏がその仏像を投げ捨てるなど対立は激化しました。

そして仏教推進派の蘇我氏が勝利したことで、日本は仏教の受け入れへと舵をきります。推古天皇は三方興隆の詔を出して仏教を基本精神にした国づくりを進めました。

また、仏教は日本に新たな国際文化をもたらしました。大陸文化の影響を受けた寺院の建築や仏像の造立など、仏教を軸に飛鳥文化が花開いたのです。

おもな出来事3「秩序ある国家の体制がつくられる」

憲法十七条は後世の作とする説もあり

推古天皇と聖徳太子は秩序ある国家が必要と考え、天皇を中心とした国家づくりを進めます。なかでも重要な施策として実行したのが次のふたつです。

  • 憲法十七条・・・天皇に従い、仏を敬うことを基本に、役人の心構えや規範を示したもの
  • 冠位十二階・・・従来の門閥制度を打破した実力主義の官人登用制度

聖徳太子らは日本国家の理念と制度を整備し、国家としての体制を整えました。

おもな出来事4「遣隋使を派遣し外交問題を解決」

対等外交を求めた日本に激怒した隋の皇帝

6世紀末の日本は、朝鮮半島における日本の権益を奪った新羅との対立が外交の課題でした。

そのようなときに隋王朝が約300年ぶりに中国を統一します。日本は600年に続いて607年に小野妹子を遣隋使として隋に送りました。しかも周辺諸国が隋に従属しているなか、607年の遣隋使では「日出処の天子」という書き出しではじまる国書で隋に対等外交を求めたのです。

隋がしぶしぶこれを認めると、隋の威光を恐れた新羅が日本に使者を送ってくるようになりました。こうして日本は新羅問題もいったん解決に導いたのです。

聖徳太子の時代の文化と経済

仏教を中心とした飛鳥文化が花開く

聖徳太子が推古天皇とともに建立したとされる法隆寺

飛鳥文化はおもに推古朝、飛鳥地方で開花した国際色豊かな仏教文化です。その代表が寺院建築で、蘇我馬子が飛鳥寺、聖徳太子が四天王寺と法隆寺など百済や高句麗など大陸の様式をもつ寺院が建立されました。

また、彫刻では中国の南北朝の影響を受け、古典的微笑といわれるアルカイックスマイルをもつ北魏様式と柔和な特徴をもつ南梁様式の仏像がつくられています。

このほか暦、紙、墨、絵の具など、さまざまな外来の文化が流入しました。

天皇の直轄地「屯倉」

聖徳太子の時代はのちの租庸調といった税制は確立されていません。

天皇家の財政はおもに全国各地にもうけられた直営耕地「屯倉」からの収益で賄われ、屯倉の耕作を担う直轄民は田部と呼ばれました。なお、豪族も私有地の田荘、私有民の部曲をもっていました。

皇太子であった聖徳太子には、「壬生部」と呼ばれる有力皇族の経済的基盤となる土地が与えられていたようです。

聖徳太子の時代の重要人物

聖徳太子(574年〜622年)

お札にもなった聖徳太子

用明天皇の皇子で名前は厩戸皇子。幼少より聡明さで知られ、おばの推古天皇の摂政となり、政治に取り組みました。

聖徳太子は冠位十二階、憲法十七条などの改革に携わり、遣隋使を派遣し中国との国交を開きます。さらには仏教興隆にも熱心で、仏典の注釈書『三経義疏』を著しました。

近年は実在性が危ぶまれていますが、すべてひとりが手がけたわけではなく、厩戸皇子として政治にかかわっていたと考えられています。

推古天皇(554年~628年)

才色兼備とうたわれた推古天皇

欽明天皇の皇女で、異母兄の敏達天皇の皇后。才媛で早くから皇室内で重きをなしていました。

推古天皇は蘇我氏の血を引いており、馬子に擁立され天皇に即位します。約35年の在位中は馬子の専横を抑えて聖徳太子との三頭体制を成功させ、平和を保ちました。

蘇我馬子(551年~626年)

近年は、有能で革新的な政治家だったともいわれる蘇我馬子

蘇我氏は飛鳥時代、天皇の外戚となり権力を拡大した豪族です。馬子は物部氏を滅ぼし、敵対した甥の崇峻天皇も暗殺すると、朝廷一の実力者となり姪の推古天皇を擁立しました。

推古天皇をよく支え、冠位十二階など数々の改革は渡来系とも親しい馬子の力なくしては実現できなかったともいわれています。仏教も推進し、仏僧を外国から招へいし、飛鳥寺を建立しました。

小野妹子(生没年不詳)

607年の遣隋使で大役をはたした小野妹子

飛鳥時代の官人。大礼の冠位を授けられ、607年の遣隋使として隋へ派遣されました。

隋では小野妹子の立派な態度も日本への信頼感を高めるのに一役買ったといいます。その帰還途中、隋からの国書を紛失するという失態を犯しましたが、許されました。翌年も遣隋使として派遣され、のちに大徳にまで出世しています。

聖徳太子の時代の年表

587年 – 「仏教と権力争いから丁未の乱が勃発」

蘇我氏が物部氏を滅ぼした丁未の乱

574年、聖徳太子が生まれます。

そして587年、聖徳太子が14歳のときに、蘇我氏と物部氏の決戦・丁未の乱が勃発。聖徳太子もほかの皇子とともに蘇我氏の軍に参加し、物部氏を攻め滅ぼしました。

その後も蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺するなど、しばらく混乱が続きます。

593年 – 「推古天皇即位、聖徳太子摂政へ」

聖徳太子像。幼少のころより聡明さがきわだっていた

女帝の推古天皇が即位し、ようやく国内の混乱がおさまりました。以降、推古天皇、摂政の聖徳太子、豪族の蘇我馬子の三頭体制で国を治めます。

従来は聖徳太子が政治を主導したとされましたが、現在では聖徳太子は政治の協力者という立場だったと考えられています。

603年 -「憲法十七条、冠位十二階制定」

600年の遣隋使では、隋から後進国の日本は相手にしないと追い返されました。そこで聖徳太子らは天皇を中心とした秩序ある国家づくりを目指します。

そして603年には冠位十二階、604年に憲法十七条を定めました。あわせて天皇の権威を示す機能を備えた新たな宮殿・小治田宮を造営し、朝廷の儀式も改めます。

こうした制度改革により、政治体制が従来の一部の豪族の合議制から天皇を中心とした体制に変わりました。

607年 – 「遣隋使を派遣」

1度目となる600年の遣隋使は隋の史書にのみ記録があり、日本には何も記録が残されていない

国内の体制を整えた日本は607年にふたたび遣隋使を送ります。派遣された小野妹子は隋に対等の外交を求める国書を渡しました。

その後も何度か遣隋使は派遣され、仏教をはじめ大陸の先進文化を摂取します。

620年 – 「天皇記」「国記」を作る

聖徳太子と蘇我馬子が国内改革の集大成ともいえる歴史書を編纂したと伝えられます。これらは日本の政治の正統性を主張するためのものです。皇室の系譜と日本の歴史を記述したようですが、のちの乙巳の変で焼失または紛失しました。

そして622年に聖徳太子が亡くなり、聖徳太子の時代が終わります。

聖徳太子の時代に関するまとめ

聖徳太子の時代について出来事、文化と経済、主要人物についてまとめました。この時代は日本が混乱のなかから東アジアの国際社会に通用する近代国家へと飛躍した歴史的なターニングポイントといえます。

いまではその実在さえ危ぶまれる聖徳太子ですが、どんな形であれ、蘇我馬子とともに日本の発展の一翼を担っていたのは間違いないでしょう。

聖徳太子時代の理解が深まれば幸いです。

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