聖徳太子の生きた時代とは?時代年表まとめ【主な出来事や重要人物、文化、経済についても紹介】

聖徳太子の時代の重要人物

聖徳太子(574年〜622年)

お札にもなった聖徳太子

用明天皇の皇子で名前は厩戸皇子。幼少より聡明さで知られ、おばの推古天皇の摂政となり、政治に取り組みました。

聖徳太子は冠位十二階、憲法十七条などの改革に携わり、遣隋使を派遣し中国との国交を開きます。さらには仏教興隆にも熱心で、仏典の注釈書『三経義疏』を著しました。

近年は実在性が危ぶまれていますが、すべてひとりが手がけたわけではなく、厩戸皇子として政治にかかわっていたと考えられています。

推古天皇(554年~628年)

才色兼備とうたわれた推古天皇

欽明天皇の皇女で、異母兄の敏達天皇の皇后。才媛で早くから皇室内で重きをなしていました。

推古天皇は蘇我氏の血を引いており、馬子に擁立され天皇に即位します。約35年の在位中は馬子の専横を抑えて聖徳太子との三頭体制を成功させ、平和を保ちました。

蘇我馬子(551年~626年)

近年は、有能で革新的な政治家だったともいわれる蘇我馬子
出典:Wikipedia

蘇我氏は飛鳥時代、天皇の外戚となり権力を拡大した豪族です。馬子は物部氏を滅ぼし、敵対した甥の崇峻天皇も暗殺すると、朝廷一の実力者となり姪の推古天皇を擁立しました。

推古天皇をよく支え、冠位十二階など数々の改革は渡来系とも親しい馬子の力なくしては実現できなかったともいわれています。仏教も推進し、仏僧を外国から招へいし、飛鳥寺を建立しました。

小野妹子(生没年不詳)

607年の遣隋使で大役をはたした小野妹子
出典:産経ニュース

飛鳥時代の官人。大礼の冠位を授けられ、607年の遣隋使として隋へ派遣されました。

隋では小野妹子の立派な態度も日本への信頼感を高めるのに一役買ったといいます。その帰還途中、隋からの国書を紛失するという失態を犯しましたが、許されました。翌年も遣隋使として派遣され、のちに大徳にまで出世しています。

聖徳太子の時代の年表

587年 – 「仏教と権力争いから丁未の乱が勃発」

蘇我氏が物部氏を滅ぼした丁未の乱

574年、聖徳太子が生まれます。

そして587年、聖徳太子が14歳のときに、蘇我氏と物部氏の決戦・丁未の乱が勃発。聖徳太子もほかの皇子とともに蘇我氏の軍に参加し、物部氏を攻め滅ぼしました。

その後も蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺するなど、しばらく混乱が続きます。

593年 – 「推古天皇即位、聖徳太子摂政へ」

聖徳太子像。幼少のころより聡明さがきわだっていた

女帝の推古天皇が即位し、ようやく国内の混乱がおさまりました。以降、推古天皇、摂政の聖徳太子、豪族の蘇我馬子の三頭体制で国を治めます。

従来は聖徳太子が政治を主導したとされましたが、現在では聖徳太子は政治の協力者という立場だったと考えられています。

603年 -「憲法十七条、冠位十二階制定」

600年の遣隋使では、隋から後進国の日本は相手にしないと追い返されました。そこで聖徳太子らは天皇を中心とした秩序ある国家づくりを目指します。

そして603年には冠位十二階、604年に憲法十七条を定めました。あわせて天皇の権威を示す機能を備えた新たな宮殿・小治田宮を造営し、朝廷の儀式も改めます。

こうした制度改革により、政治体制が従来の一部の豪族の合議制から天皇を中心とした体制に変わりました。

607年 – 「遣隋使を派遣」

1度目となる600年の遣隋使は隋の史書にのみ記録があり、日本には何も記録が残されていない

国内の体制を整えた日本は607年にふたたび遣隋使を送ります。派遣された小野妹子は隋に対等の外交を求める国書を渡しました。

その後も何度か遣隋使は派遣され、仏教をはじめ大陸の先進文化を摂取します。

620年 – 「天皇記」「国記」を作る

聖徳太子と蘇我馬子が国内改革の集大成ともいえる歴史書を編纂したと伝えられます。これらは日本の政治の正統性を主張するためのものです。皇室の系譜と日本の歴史を記述したようですが、のちの乙巳の変で焼失または紛失しました。

そして622年に聖徳太子が亡くなり、聖徳太子の時代が終わります。

聖徳太子の時代に関するまとめ

聖徳太子の時代について出来事、文化と経済、主要人物についてまとめました。この時代は日本が混乱のなかから東アジアの国際社会に通用する近代国家へと飛躍した歴史的なターニングポイントといえます。

いまではその実在さえ危ぶまれる聖徳太子ですが、どんな形であれ、蘇我馬子とともに日本の発展の一翼を担っていたのは間違いないでしょう。

聖徳太子時代の理解が深まれば幸いです。

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