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【年表付】安土桃山時代とは?いつから?活躍した人物や文化の特徴も紹介

「安土桃山時代って西暦何年から何年までなの?」
「安土桃山時代に活躍した人物は誰?」「安土桃山文化はどんな文化なの?」

安土桃山時代に関して、以上のような疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか?安土桃山時代は織田信長や千利休が活躍した時代で、戦国時代と時期が重なっています。また、ゲームや小説など様々なメディアで取り上げられることも多く、日本の歴史の中でも特に人気があり、多くの方が関心を持つ時代です。

清洲公園の織田信長像

そこでこの記事では、安土桃山時代とはいつからいつまでなのか?安土桃山時代と戦国時代に違いはあるのか?あるいは、どんな人物が活躍しどんな文化が栄えたのか?など、安土桃山時代に関してわかりやすくお伝えしていきます。

安土桃山時代とはどんな時代だったのか?

いつからいつまでの時代を指すの?

安土桃山時代の始まりと終わりには諸説あるものの、概ね元亀4年(1573年) から慶長8年(1603年)までの約30年間を指しています。「織田信長と豊臣秀吉が権力を握っていた時代」と定義されるのが一般的で、江戸時代以前の日本史の中では、最も短い時代区分となっています。(後醍醐天皇による建武の新政を除く)

元亀4年(1573年) 、織田信長によって室町幕府第15代将軍の足利義昭が京都から追放され、室町幕府が滅亡し室町時代は終焉、安土桃山時代を迎えます。そして、徳川家康が江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)を持って安土桃山時代は終わり、江戸時代へと突入していきます。

室町幕府最後の将軍 足利義昭座像

この30年間には、天正10年(1582年)本能寺の変、天正18年(1590年)豊臣秀吉による天下統一、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いなど、歴史を動かす大きな出来事が起こりました。

安土桃山文化の特徴とは?

安土桃山文化の象徴でもある姫路城

この時代には、戦国大名や豪商の経済力をバックボーンとして、豪華絢爛な文化が誕生しました。この文化を「安土桃山文化(または桃山文化)」と呼びます。安土桃山文化には以下の特徴があります。代表的なものを列挙します。

  • 安土城、大坂城、姫路城などに代表される雄大な天守閣を持つ城が築城されました。また、城内には金箔を施した屏風絵や壁画を設え、豪華絢爛な大広間がありました。
  • 茶の湯が流行し、千利休によって質素さを追求した「侘び茶(わびちゃ)」が完成、これが現在の茶道へと繋がっていきます。
  • ヨーロッパのカトリック宣教師が多く来日したことで、西洋文化(南蛮文化)が流入。鉄砲、油絵、銅版画、地球儀、時計、眼鏡、オルガン、カステラ、金平糖などが日本に持ち込まれました。これらは南蛮文化を象徴する品々です。
  • 現在の能の原型とされる「幸若舞(こうわかまい)」が流行。幸若舞の演目のひとつ「敦盛」を織田信長が好んでいたことでも知られています。また出雲阿国(いずものおくに)によって、現在の歌舞伎の原型が誕生しました。

戦国時代との違いとは?

戦国時代の始まりとされる応仁の乱(応仁・文明の乱)

前述の通り、安土桃山時代は戦国時代と時期が一部重なっています。とは言え、安土桃山時代と戦国時代が全く同じ時期なのかと言うと、そうではありません。

厳密に言うと、日本の時代区分は室町時代→安土桃山時代→江戸時代と続いており、「戦国時代」という区分は存在しません。戦国時代とは室町後半、安土桃山、江戸初期の3つの時代に跨って存在する戦乱の時代、と定義されています(終焉をいつにするかによって、江戸時代とは被らない場合もあります)。

ゆえに戦国時代の期間は非常に曖昧であり、その始まりと終わりにも諸説入り乱れています。最も広域な捉え方では、応仁元年(1467年)の応仁の乱勃発を戦国時代の始まりとし、慶長20年(1615年)大阪夏の陣で豊臣家が滅亡したことで終焉としています。

つまり、「安土桃山時代は戦国時代の終盤あたりと重なる時代」となります。

「安土桃山」の意味とは?

現在の安土城址

ところで「安土桃山」とは一体どういう意味なのでしょうか?

「安土」とは、織田信長の居城として有名な「安土城」に由来しています。一方の「桃山」とは、豊臣秀吉の隠居所として築城された伏見城が、京都の「桃山」と呼ばれる地域にあったことに由来します。なお「桃山」という地名は、江戸時代になってからの呼称とされ、伏見城の跡地に桃の木が植えられたことが、「桃山」の由来と言われています。

つまり、織田信長と豊臣秀吉にゆかりの深い「安土」と「桃山」が語源となっているのです。以上のことからも、安土桃山時代とは「織田信長と豊臣秀吉が権力を握っていた時代」と定義されています。

安土桃山時代に活躍した人物は?

安土桃山時代は戦国時代終盤と時期が重なっているため、歴史に興味のない方でも知っている有名な人物がたくさん存在しています。その中から、特に実績と知名度に優れた人物を戦国武将と文化人を合わせて計10名ご紹介します。

活躍した戦国武将

織田信長:天文3年(1534年)~天正10年(1582年)

織田信長

戦国時代のみならず、日本の歴史全体を通しても人気の人物です。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元を破ると徐々にその頭角を現し、戦国時代を代表する大大名へと成長していきました。一向宗などの抵抗勢力に苦しみながらも、天下布武を掲げ勢力を拡大、天下統一まであと一歩まで迫りました。しかし、天正10年(1582年)明智光秀の謀反により本能寺に散りました。

豊臣秀吉:天文6(1537年)~慶長3年(1598年)

豊臣秀吉

その出自ははっきりわかっていませんが、かなり貧しい身分だったとされています。織田信長の家臣として実力をつけ、本能寺の変の後には信長の覇道を引き継ぐ形で天下統一を成し遂げました。わずか一代で貧しい身分から天下人に成りあがった、戦国一の出世頭としても知られています。

徳川家康:天文11年(1543年)~元和2年(1616年)

徳川家康

幼少期は人質として、そして青年期は織田信長への同盟という名の臣従、三方ヶ原の戦いでは武田信玄に完膚なきまでに叩きのめされ、豊臣政権下ではその臣下となるも、関ケ原の戦いに勝利し江戸幕府を開府、最後は豊臣家を倒し、戦国時代の最終勝利者となりました。徳川家の江戸時代は、明治維新までの約260年間の太平をもたらしました。

石田三成:永禄3年(1560年)~慶長5年(1600年)

子供の頃から豊臣秀吉に仕え、豊臣政権の優秀な官僚として辣腕を発揮しました。しかし、その政治姿勢が情け容赦なかった為、人望が薄かったとも言われています。秀吉没後の関ヶ原の戦いでは、西軍を率いて徳川家康と戦いますが敗北。間もなく捕縛され斬首されました。

伊達政宗:永禄10年(1567年)~寛永13年(1636年)

伊達政宗

「独眼竜」の異名で知られる隻眼の戦国武将。現在の宮城県や福島県を中心に活躍し、豊臣秀吉や徳川家康にも一目置かれる実力者でした。また、西洋への関心が強く「慶長遣欧使節団」を派遣したことでも知られています。かなりの洒落物だったそうです。

活躍した文化人

千利休:大永2年(1522年)~天正19年(1591年)

千利休

堺の商人であり茶人。茶の湯を「侘び茶」に昇華させたお茶の達人。「茶聖」の異名で呼ばれ、多くの戦国武将が弟子入りしていました。豊臣政権下でも重用されたものの、秀吉と不仲になり最期は切腹を命じられました。利休切腹の原因には多くの謎が残されており、今もハッキリとした理由はわかっていません。

狩野永徳:天文12年(1543年)~天正18年(1590年)

狩野永徳が描いた国宝「洛中洛外図屏風 右隻」

安土桃山時代のみならず、日本美術史を代表する絵師の一人です。また、永徳の属した「狩野派」と呼ばれる画派は、室町時代中期から江戸時代末期まで、約400年にわたって活動していた絵師のプロ集団でした。

織田信長や豊臣秀吉をといった時の権力者にも重用され、また後陽成天皇や近衛前久といった朝廷の中心人物にも壁画を献上するなど、多くの傑作を残しました。当時の京都を描いた国宝「洛中洛外図屏風(上杉本)」はあまりにも有名です。

長谷川等伯:天文8年(1539年)~慶長15年(1610年)

長谷川等伯が描いた国宝「楓図」

狩野永徳と並び、安土桃山時代を代表する絵師です。等伯を始祖とする長谷川派は、狩野永徳の狩野派をも脅かす絵師集団でした。千利休や豊臣秀吉に重用され、多くの傑作を生みだしました。武田信玄(諸説あり)や千利休といった著名な人物の肖像画も描いています。

本阿弥光悦:永禄元年(1558年)~寛永14年(1637年)

本阿弥光悦

安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した芸術家です。主に書家や工芸家として多くの傑作を生みだしました。その他にも、蒔絵師、茶人などマルチな才能を発揮し、日本文化の発展に大きく寄与しました。

出雲阿国:元亀3年(1572年)~没年は不詳

出雲阿国像

歌舞伎の創始者である女性芸能者。もともとは出雲大社の巫女だったと言われています。彼女は京都で興行を打っており、そこで踊っていた「ややこ踊り」が評判となって、後に「かぶき踊り」という名称になりました。このかぶき踊りが現在の歌舞伎の原型となりました。

安土桃山時代の早見年表

本能寺跡碑

元亀4年(1573年):安土桃山時代の幕開け

織田信長が室町幕府第15代将軍 足利義昭を京都から追放。室町時代が終焉し、安土桃山時代が幕を開けました。

天正3年(1575年):長篠の戦い

長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼が激突。武田軍は重臣を多く失う壊滅的な打撃を受け敗北しました。戦場が設楽原(したらがはら)であったことから「設楽原の戦い」とも呼ばれています。

天正10年(1582年):本能寺の変

本能寺の変を起こした明智光秀

わずかな供回りと本能寺に宿泊していた織田信長を、明智光秀の軍勢が襲撃。覇業の真っただ中で織田信長は自害して果てました。明智光秀謀反の原因は今も謎とされ、怨恨説、黒幕説など様々な説が錯綜しています。

天正10年(1582年):山崎の戦い

中国地方で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、織田信長の弔い合戦のため急遽京都へ引き返し(中国大返し)、明智光秀を撃破。明智光秀は敗走中に落ち武者狩りに襲われ、落命したとも自害したとも伝わっています。

天正11年(1583年):賤ケ岳の戦い

織田信長の後継争いで、羽柴秀吉と柴田勝家が激突。柴田勝家は妻のお市と共に自害。この勝利によって秀吉が名実ともに信長の後継者として天下人への道を歩んでいきます。

天正12年(1584年):小牧・長久手の戦い

戦いの舞台となった長久手古戦場

信長の功績を引き継いだ羽柴秀吉と、信長の次男である信雄の仲が険悪化。そして信雄と徳川家康が結託し、秀吉と激突しました。しかし、信雄が秀吉と単独講和を結でしまったため、家康もやむなく和睦。戦闘では家康の勝ち、政治面では秀吉の勝ちと言われる戦いです。

天正13年(1585年):四国征伐

羽柴秀吉が関白に就任。独立大名として四国全域を支配していた長宗我部元親と羽柴秀吉軍が激突。元親は降伏し四国が平定されました。なお、翌年には秀吉が朝廷より豊臣姓を賜りました。

天正15年(1587年)九州征伐

九州のほぼ全域を支配していた島津氏が、大名同士の私闘を禁ずる「惣無事令(そうぶじれい)」に違反したとして、秀吉が九州に軍を派遣。島津義久を降伏させ九州を平定しました。また、日本人を奴隷売買していたカトリック宣教師を追放するため、秀吉が伴天連追放令を発布しました。

天正18年(1590年):小田原征伐

切腹となった北条氏政

惣無事令違反として、豊臣秀吉が相模の北条氏討伐のため進軍、北条氏の小田原城を10万を超える軍勢で包囲しました。その結果、北条氏政・氏直父子は降伏、氏政は切腹となりました。それから間もなく東北地方も平定し、豊臣秀吉による天下統一が成し遂げられました。

天正20年(1592年):文禄の役

豊臣秀吉が明(みん)の征服を目指し大陸に軍を派兵。秀吉がなぜこのような行為に及んだかについては、今もはっきりしていません。

慶長2年(1597年):慶長の役

豊臣秀吉が明(みん)の征服を目指し再び軍を派兵しました。翌年、秀吉が死去したため、撤退となりました。

慶長3年(1598年):豊臣秀吉死去

慶長の役の最中、豊臣秀吉が62歳で死去。辞世の句である「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」は有名です。

慶長5年(1600年):関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い古戦場

秀吉亡き後、豊臣家中での主導権争いが勃発。西軍 石田三成と東軍 徳川家康が激突しました。一進一退の攻防を繰り広げましたが、西軍から東軍への内通者がでたため三成は敗北。徳川家康が天下の実権を握りました。

慶長8年(1603年):安土桃山時代の終焉

関ヶ原緒戦いで勝利した徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開府。安土桃山時代が終わり江戸時代へ入りました。

安土桃山時代に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?安土桃山時代とは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら戦国の三英傑が活躍した時代です。そして、彼らと密接にかかわった文化人が台頭した時代でもあります。また、戦国時代の末期とも重なるため、まさに戦国の総仕上げと言える時代でした。

数々の武将や文化人が活躍した戦国時代、そして日本の歴史の中でも特に人気の戦国時代。安土桃山時代とは、そんな戦国時代のエンディングを飾るに相応しい時代と言えるのではないでしょうか。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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