【年表付】安土桃山時代とは?いつから?活躍した人物や文化の特徴も紹介

活躍した文化人

千利休:大永2年(1522年)~天正19年(1591年)

千利休

堺の商人であり茶人。茶の湯を「侘び茶」に昇華させたお茶の達人。「茶聖」の異名で呼ばれ、多くの戦国武将が弟子入りしていました。豊臣政権下でも重用されたものの、秀吉と不仲になり最期は切腹を命じられました。利休切腹の原因には多くの謎が残されており、今もハッキリとした理由はわかっていません。

狩野永徳:天文12年(1543年)~天正18年(1590年)

狩野永徳が描いた国宝「洛中洛外図屏風 右隻」

安土桃山時代のみならず、日本美術史を代表する絵師の一人です。また、永徳の属した「狩野派」と呼ばれる画派は、室町時代中期から江戸時代末期まで、約400年にわたって活動していた絵師のプロ集団でした。

織田信長や豊臣秀吉をといった時の権力者にも重用され、また後陽成天皇や近衛前久といった朝廷の中心人物にも壁画を献上するなど、多くの傑作を残しました。当時の京都を描いた国宝「洛中洛外図屏風(上杉本)」はあまりにも有名です。

長谷川等伯:天文8年(1539年)~慶長15年(1610年)

長谷川等伯が描いた国宝「楓図」

狩野永徳と並び、安土桃山時代を代表する絵師です。等伯を始祖とする長谷川派は、狩野永徳の狩野派をも脅かす絵師集団でした。千利休や豊臣秀吉に重用され、多くの傑作を生みだしました。武田信玄(諸説あり)や千利休といった著名な人物の肖像画も描いています。

本阿弥光悦:永禄元年(1558年)~寛永14年(1637年)

本阿弥光悦

安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した芸術家です。主に書家や工芸家として多くの傑作を生みだしました。その他にも、蒔絵師、茶人などマルチな才能を発揮し、日本文化の発展に大きく寄与しました。

出雲阿国:元亀3年(1572年)~没年は不詳

出雲阿国像

歌舞伎の創始者である女性芸能者。もともとは出雲大社の巫女だったと言われています。彼女は京都で興行を打っており、そこで踊っていた「ややこ踊り」が評判となって、後に「かぶき踊り」という名称になりました。このかぶき踊りが現在の歌舞伎の原型となりました。

安土桃山時代の早見年表

本能寺跡碑

元亀4年(1573年):安土桃山時代の幕開け

織田信長が室町幕府第15代将軍 足利義昭を京都から追放。室町時代が終焉し、安土桃山時代が幕を開けました。

天正3年(1575年):長篠の戦い

長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼が激突。武田軍は重臣を多く失う壊滅的な打撃を受け敗北しました。戦場が設楽原(したらがはら)であったことから「設楽原の戦い」とも呼ばれています。

天正10年(1582年):本能寺の変

本能寺の変を起こした明智光秀
出典:Wikipedia

天正10年(1582年):山崎の戦い

中国地方で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、織田信長の弔い合戦のため急遽京都へ引き返し(中国大返し)、明智光秀を撃破。明智光秀は敗走中に落ち武者狩りに襲われ、落命したとも自害したとも伝わっています。

天正11年(1583年):賤ケ岳の戦い

織田信長の後継争いで、羽柴秀吉と柴田勝家が激突。柴田勝家は妻のお市と共に自害。この勝利によって秀吉が名実ともに信長の後継者として天下人への道を歩んでいきます。

天正12年(1584年):小牧・長久手の戦い

戦いの舞台となった長久手古戦場

信長の功績を引き継いだ羽柴秀吉と、信長の次男である信雄の仲が険悪化。そして信雄と徳川家康が結託し、秀吉と激突しました。しかし、信雄が秀吉と単独講和を結でしまったため、家康もやむなく和睦。戦闘では家康の勝ち、政治面では秀吉の勝ちと言われる戦いです。

天正13年(1585年):四国征伐

羽柴秀吉が関白に就任。独立大名として四国全域を支配していた長宗我部元親と羽柴秀吉軍が激突。元親は降伏し四国が平定されました。なお、翌年には秀吉が朝廷より豊臣姓を賜りました。

天正15年(1587年)九州征伐

九州のほぼ全域を支配していた島津氏が、大名同士の私闘を禁ずる「惣無事令(そうぶじれい)」に違反したとして、秀吉が九州に軍を派遣。島津義久を降伏させ九州を平定しました。また、日本人を奴隷売買していたカトリック宣教師を追放するため、秀吉が伴天連追放令を発布しました。

天正18年(1590年):小田原征伐

切腹となった北条氏政

惣無事令違反として、豊臣秀吉が相模の北条氏討伐のため進軍、北条氏の小田原城を10万を超える軍勢で包囲しました。その結果、北条氏政・氏直父子は降伏、氏政は切腹となりました。それから間もなく東北地方も平定し、豊臣秀吉による天下統一が成し遂げられました。

天正20年(1592年):文禄の役

豊臣秀吉が明(みん)の征服を目指し大陸に軍を派兵。秀吉がなぜこのような行為に及んだかについては、今もはっきりしていません。

慶長2年(1597年):慶長の役

豊臣秀吉が明(みん)の征服を目指し再び軍を派兵しました。翌年、秀吉が死去したため、撤退となりました。

慶長3年(1598年):豊臣秀吉死去

慶長の役の最中、豊臣秀吉が62歳で死去。辞世の句である「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」は有名です。

慶長5年(1600年):関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い古戦場

秀吉亡き後、豊臣家中での主導権争いが勃発。西軍 石田三成と東軍 徳川家康が激突しました。一進一退の攻防を繰り広げましたが、西軍から東軍への内通者がでたため三成は敗北。徳川家康が天下の実権を握りました。

慶長8年(1603年):安土桃山時代の終焉

関ヶ原緒戦いで勝利した徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開府。安土桃山時代が終わり江戸時代へ入りました。

安土桃山時代に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?安土桃山時代とは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら戦国の三英傑が活躍した時代です。そして、彼らと密接にかかわった文化人が台頭した時代でもあります。また、戦国時代の末期とも重なるため、まさに戦国の総仕上げと言える時代でした。

数々の武将や文化人が活躍した戦国時代、そして日本の歴史の中でも特に人気の戦国時代。安土桃山時代とは、そんな戦国時代のエンディングを飾るに相応しい時代と言えるのではないでしょうか。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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