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レパントの海戦とは?起こった場所や原因、結末を分かりやすく解説

「レパントの海戦ってどんな戦い?」
「レパントの海戦を題材とした本や作品はある?」
「レパントの海戦とアルマダの海戦の違いは?」

このページを見ている方はこのような疑問を持っているかもしれません。レパントの海戦とは1571年にギリシア西方沖で起きたキリスト教勢力の連合艦隊とオスマン帝国艦隊が激突した海戦のことです。この戦いは、キリスト教勢力の勝利で幕を下ろします。

Fernando Bertelli作の「レパントの海戦」

戦いののち、オスマン帝国の西方拡大の勢いは鈍くなりました。変わって勢力を強めたのがスペインです。スペインは「無敵艦隊(アルマダ)」とよばれる大艦隊を編成するようになり、ヨーロッパ随一の海軍力を誇るようになります。

今回はレパントの海戦の背景や原因、戦いの経過、戦後の影響、レパントの海戦を題材にした作品などについて紹介いたします。

レパントの海戦とは

わかりやすく説明すると…

レパントの海戦を描いた絵画

レパントの海戦は、1571年にスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊とオスマン帝国の艦隊が地中海の制海権をめぐって争った海戦です。両軍合わせて500隻以上の軍艦が参加した大海戦でした。

戦死者は連合艦隊が7000人以上、オスマン帝国艦隊も5000人以上でました。この戦いが終わった時、勝利した連合艦隊はオスマン帝国側の兵士や漕ぎ手25000人あまりを捕虜とします。うち、12000人は奴隷にされたキリスト教徒だったので、解放しました。

オスマン帝国は戦いに敗れたことで、一時的に東地中海やバルカン半島で劣勢となりますがすぐに体勢を立て直しました。したがって、レパントの海戦後にオスマン帝国が衰退したというのは誤りです。

どこで起こったのか?

レパントの海戦が起きたのはギリシア中央部にあるコリント湾の入り口です。コリント湾はギリシア西方のイオニア海が東側に大きく食い込んだ形の湾で、湾によってギリシア本土とペロポネソス半島が切り離されたようになっています。

レパント(ギリシア名ナフパクトス)

その入り口の場所にあったのがレパントの街でした。現在はナフパクトスまたはナウパクトスと呼ばれています。レパントを抑えることはコリント湾の制海権を得るうえで必要不可欠でした。

原因はオスマン帝国のキプロス占領

戦いの原因となったのはオスマン帝国によるキプロス占領です。キプロス島はトルコの南に位置し、東地中海でとても重要な島でした。十字軍戦争の時代の1191年にイギリス王リチャード1世がキプロス島を占領します。これ以後、キプロス島はカトリック勢力が支配しました。

キプロスを占領したイギリス王リチャード1世

リチャード1世は1192年にキプロスの支配権を元エルサレム王のギー・ド・リュジニャンに譲ります。以後、300年にわたってリュジニャン王家がキプロスを支配しました。1489年にリュジニャン王家が断絶すると、キプロスはヴェネツィア共和国に譲渡されます。

ファマゴスタにある旧ニコラオス大聖堂

それからおよそ90年後の1570年、オスマン帝国のセリム2世がキプロスを攻撃します。戦いは1年ほど続きますが、1571年にキプロスの中心都市ファマグスタが陥落したことで、キプロスはオスマン帝国の支配下に入りました。

結末はオスマン帝国の大敗に終わる

レパントの海戦と同時代の16世紀に活躍したマルタ騎士団のガレー軍船

東地中海の重要拠点であるキプロスを失ったヴェネツィア共和国はスペインやローマ教皇に働きかけ、対オスマン帝国の連合艦隊を結成させます。連合艦隊は278隻の大艦隊となり、ギリシア方面に出撃しました。

一方、オスマン帝国はアリ=パシャを総司令官に224隻の艦隊を集め、同じくギリシア方面に出撃します。両軍はコリント湾の入り口にあるレパントの沖合で激突しました。海戦は連合艦隊の大勝利に終わり、アリ=パシャは戦死します。

レパントの海戦の流れ

スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇庁が連合艦隊を結成

ヴェネツィア共和国の領土

オスマン帝国のセリム2世がキプロスを攻撃していたころ、ヴェネツィア共和国はキプロス救援軍を編成しようとしていました。しかし、地中海で影響力を持つスペインが参戦に消極的だったため援軍は間に合わずキプロスが陥落してしまいました。

ちょうど同じころ、スペインではレコンキスタで征服されキリスト教に改宗した元イスラム教徒(モリスコ)がスペイン南部のグラナダで反乱を起こしました。反乱軍がオスマン帝国に援軍を求めたことから、スペインはオスマン帝国との対決を決意します。

エル・グレコが描いたローマ教皇ピウス5世

キプロス陥落を知ったローマ教皇ピウス5世は、オスマン帝国の拡大はカトリック世界の危機だと考えヨーロッパ各国に団結を訴えます。

これにこたえてヴェネツィア共和国、スペイン、ローマ教皇庁などは連合艦隊を結成します。連合艦隊の司令官にはスペイン王の庶弟のドン・フアン・デ・アウストリア(以後、ドン・フアン)が就任します。

連合艦隊とオスマン艦隊がレパント沖で激突

それぞれ本拠地を出発した連合艦隊とオスマン艦隊はレパントの沖で退陣します。当日の天候は晴れで、風は東寄りです。ということは、風上に位置するオスマン艦隊にとって追い風のため有利となります。

連合艦隊の司令官となったスペイン王の庶弟ドン・フアン

連合艦隊は左翼にジェノヴァ人の提督ジャナンドレア・ドーリア、右翼に総司令官のドン・フアン、左翼後方にバルバリーゴ率いるヴェネツィア艦隊です。オスマン艦隊は右翼に「シロッコ」の異名をとる海賊マホメッド・シャルーク、左翼に元キリスト教徒のウルグ・アリ、中央に総司令官のアリ・パシャが布陣しました。

正午過ぎ、ドーリア艦隊とウルグ・アリの艦隊は互いをけん制しつつ、主戦場の南に移動します。主戦場ではドン・フアンとバルバリーゴ率いる連合艦隊主力と、シロッコ、アリ・パシャ率いるオスマン帝国主力が激しい戦いを繰り広げました。

午後1時過ぎ、中央部の戦いでアリ・パシャが戦死します。総司令官の戦士で浮足立ったオスマン帝国軍は潰走を始めました。これを見て、ほぼ無傷だったウルグ・アリの艦隊も戦場を離脱し、戦いは連合艦隊の勝利に終わりました。

海戦の主な戦死者

戦死したヴェネツィア軍の司令官バルバリーゴ

この戦いでは勝者・敗者とも多くの犠牲を出しました。連合艦隊の戦死者は7000名以上、雄間艦隊も5000名以上が戦死します。指揮官クラスの戦死者にしぼると、連合艦隊ではヴェネツィア海軍を率いたバルバリーゴが戦死しました。

オスマン帝国側は、総司令官のアリ・パシャが戦死、シロッコことマホメッド・シャルークは捕虜となって3日後に死亡します。

レパントの海戦の影響

オスマン帝国の西進が止まった

レパントの海戦での敗北は、それまで快進撃を続けてきたオスマン帝国軍にとって初めての大敗北となります。これまで、オスマン帝国を相手によくて引き分け、悪ければ敗北を繰り返していたヨーロッパ世界にとって初の福音となりました。

キリスト教徒側が敗れたプレヴェザの海戦

キリスト教側からすれば、1538年のプレヴェザの海戦以来、地中海ではオスマン帝国に押されっぱなしだっただけに、レパントでの勝利は彼らを間違いなく勇気づけたことでしょう。

しかし、この敗北によってオスマン帝国が完全に東地中海の制海権を失ったというわけではありません。実際、6か月後には大艦隊を再建しています。こうしたことを考えると、レパントの海戦はオスマン帝国にとって打撃ではあっても、致命傷ではなかったといえそうです。

スペイン海軍が強化され、無敵艦隊(アルマダ)が生まれた

レパントの海戦が起きた16世紀後半は、貿易の中心が地中海から大西洋に移る時代でもありました。大西洋沿岸の新興国であるオランダやイングランドはスペイン船が南アメリカから運ぶ銀を狙って海賊行為を繰り返します。

無敵艦隊の敗北を描いた絵画

こうした行為を取り締まるため、スペインは大西洋方面の艦隊を強化しました。そして、オランダ独立戦争でスペインに敵対していたイングランドへの攻撃を企てます。

1588年、スペインは併合したポルトガルの首都リスボンに大艦隊を集結させます。その大艦隊は無敵艦隊(アルマダ)とよばれました。その後、無敵艦隊はイングランド海軍と戦闘となりました。これを、アルマダの海戦といいます。結果は、スペインの敗北に終わりました。

レパントの海戦を描いた作品

塩野七生著『レパントの海戦』

塩野七生はイタリアを中心としたヨーロッパ史を題材とすることで有名な小説家です。彼女はイタリア永住権をもっていて、フィレンツェやローマなどで暮らしています。

『レパントの海戦』は、彼女が書いた「海戦三部作」とよばれる作品の一つです。ほかの二つは『コンスタンティノープルの陥落』と『ロードス島攻防記』です。主人公のバルバリーゴを中心とする人間ドラマが描かれた人気作です。

海洋国家ヴェネツィア共和国が斜陽に向かう時代を描き、かつ、新興勢力のオスマン帝国やスペインの力を思い知る描写がある種痛々しさを感じます。レパントの海戦に興味がある方は、ぜひ一読されることをお勧めします。

広瀬勇人作の吹奏楽曲『レパントの海戦』

広瀬勇人が学んだ尚美ミュージックカレッジ専門学校

広瀬勇人は1974年生まれの作曲家です。東京都出身で東京ミュージックアンドメディアアーツ尚美を卒業後、ボストン音楽院やベルギーのレメンス音楽院で学びます。レメンス音楽院ではヤン・ヴァン・デル・ローストに師事しました。

レパントの海戦は2010年に広瀬が神奈川県立相模原高校吹奏楽部の第30回定期演奏会記念委嘱作品として作曲したものです。戦いに臨むヨーロッパ側の兵士たちやそれを故郷で待つ家族、オスマン帝国軍の出現による緊張感などが表現された楽曲です。とてもドラマチックな楽曲で聞いていて飽きない一曲です。

レパントの海戦に関するまとめ

いかがでしたか?

レパントの海戦はスペインやヴェネツィア、ローマ教皇庁が組織したヨーロッパ諸国の連合艦隊とオスマン帝国艦隊が激突した戦いです。両軍はギリシアのコリント湾の入り口にあるレパントの沖合で戦い、連合艦隊が勝利しました。

戦いの結果、オスマン帝国の西方拡大の勢いは鈍りました。その後、世界各地に植民地を持つスペインは大西洋方面の海軍を増強し、無敵艦隊(アルマダ)とよばれる大艦隊を編成します。

この記事を見て「レパントの戦いとは何か」、「レパントの戦いはどこで起きたのか」、「レパントの戦いを題材にした作品はあるのか」といった疑問に対し少しでもそうだったのかと思える時間を提供できたらうれしいです。

長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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