レパントの海戦とは?起こった場所や原因、結末を分かりやすく解説

「レパントの海戦ってどんな戦い?」
「レパントの海戦を題材とした本や作品はある?」
「レパントの海戦とアルマダの海戦の違いは?」

このページを見ている方はこのような疑問を持っているかもしれません。レパントの海戦とは1571年にギリシア西方沖で起きたキリスト教勢力の連合艦隊とオスマン帝国艦隊が激突した海戦のことです。この戦いは、キリスト教勢力の勝利で幕を下ろします。

Fernando Bertelli作の「レパントの海戦」

戦いののち、オスマン帝国の西方拡大の勢いは鈍くなりました。変わって勢力を強めたのがスペインです。スペインは「無敵艦隊(アルマダ)」とよばれる大艦隊を編成するようになり、ヨーロッパ随一の海軍力を誇るようになります。

今回はレパントの海戦の背景や原因、戦いの経過、戦後の影響、レパントの海戦を題材にした作品などについて紹介いたします。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

レパントの海戦とは

わかりやすく説明すると…

レパントの海戦を描いた絵画

レパントの海戦は、1571年にスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊とオスマン帝国の艦隊が地中海の制海権をめぐって争った海戦です。両軍合わせて500隻以上の軍艦が参加した大海戦でした。

戦死者は連合艦隊が7000人以上、オスマン帝国艦隊も5000人以上でました。この戦いが終わった時、勝利した連合艦隊はオスマン帝国側の兵士や漕ぎ手25000人あまりを捕虜とします。うち、12000人は奴隷にされたキリスト教徒だったので、解放しました。

オスマン帝国は戦いに敗れたことで、一時的に東地中海やバルカン半島で劣勢となりますがすぐに体勢を立て直しました。したがって、レパントの海戦後にオスマン帝国が衰退したというのは誤りです。

どこで起こったのか?

レパントの海戦が起きたのはギリシア中央部にあるコリント湾の入り口です。コリント湾はギリシア西方のイオニア海が東側に大きく食い込んだ形の湾で、湾によってギリシア本土とペロポネソス半島が切り離されたようになっています。

レパント(ギリシア名ナフパクトス)

その入り口の場所にあったのがレパントの街でした。現在はナフパクトスまたはナウパクトスと呼ばれています。レパントを抑えることはコリント湾の制海権を得るうえで必要不可欠でした。

原因はオスマン帝国のキプロス占領

戦いの原因となったのはオスマン帝国によるキプロス占領です。キプロス島はトルコの南に位置し、東地中海でとても重要な島でした。十字軍戦争の時代の1191年にイギリス王リチャード1世がキプロス島を占領します。これ以後、キプロス島はカトリック勢力が支配しました。

キプロスを占領したイギリス王リチャード1世

リチャード1世は1192年にキプロスの支配権を元エルサレム王のギー・ド・リュジニャンに譲ります。以後、300年にわたってリュジニャン王家がキプロスを支配しました。1489年にリュジニャン王家が断絶すると、キプロスはヴェネツィア共和国に譲渡されます。

ファマゴスタにある旧ニコラオス大聖堂

それからおよそ90年後の1570年、オスマン帝国のセリム2世がキプロスを攻撃します。戦いは1年ほど続きますが、1571年にキプロスの中心都市ファマグスタが陥落したことで、キプロスはオスマン帝国の支配下に入りました。

結末はオスマン帝国の大敗に終わる

レパントの海戦と同時代の16世紀に活躍したマルタ騎士団のガレー軍船

東地中海の重要拠点であるキプロスを失ったヴェネツィア共和国はスペインやローマ教皇に働きかけ、対オスマン帝国の連合艦隊を結成させます。連合艦隊は278隻の大艦隊となり、ギリシア方面に出撃しました。

一方、オスマン帝国はアリ=パシャを総司令官に224隻の艦隊を集め、同じくギリシア方面に出撃します。両軍はコリント湾の入り口にあるレパントの沖合で激突しました。海戦は連合艦隊の大勝利に終わり、アリ=パシャは戦死します。

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