レパントの海戦の流れ
スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇庁が連合艦隊を結成
オスマン帝国のセリム2世がキプロスを攻撃していたころ、ヴェネツィア共和国はキプロス救援軍を編成しようとしていました。しかし、地中海で影響力を持つスペインが参戦に消極的だったため援軍は間に合わずキプロスが陥落してしまいました。
ちょうど同じころ、スペインではレコンキスタで征服されキリスト教に改宗した元イスラム教徒(モリスコ)がスペイン南部のグラナダで反乱を起こしました。反乱軍がオスマン帝国に援軍を求めたことから、スペインはオスマン帝国との対決を決意します。
キプロス陥落を知ったローマ教皇ピウス5世は、オスマン帝国の拡大はカトリック世界の危機だと考えヨーロッパ各国に団結を訴えます。
これにこたえてヴェネツィア共和国、スペイン、ローマ教皇庁などは連合艦隊を結成します。連合艦隊の司令官にはスペイン王の庶弟のドン・フアン・デ・アウストリア(以後、ドン・フアン)が就任します。
連合艦隊とオスマン艦隊がレパント沖で激突
それぞれ本拠地を出発した連合艦隊とオスマン艦隊はレパントの沖で退陣します。当日の天候は晴れで、風は東寄りです。ということは、風上に位置するオスマン艦隊にとって追い風のため有利となります。
連合艦隊は左翼にジェノヴァ人の提督ジャナンドレア・ドーリア、右翼に総司令官のドン・フアン、左翼後方にバルバリーゴ率いるヴェネツィア艦隊です。オスマン艦隊は右翼に「シロッコ」の異名をとる海賊マホメッド・シャルーク、左翼に元キリスト教徒のウルグ・アリ、中央に総司令官のアリ・パシャが布陣しました。
正午過ぎ、ドーリア艦隊とウルグ・アリの艦隊は互いをけん制しつつ、主戦場の南に移動します。主戦場ではドン・フアンとバルバリーゴ率いる連合艦隊主力と、シロッコ、アリ・パシャ率いるオスマン帝国主力が激しい戦いを繰り広げました。
午後1時過ぎ、中央部の戦いでアリ・パシャが戦死します。総司令官の戦士で浮足立ったオスマン帝国軍は潰走を始めました。これを見て、ほぼ無傷だったウルグ・アリの艦隊も戦場を離脱し、戦いは連合艦隊の勝利に終わりました。
海戦の主な戦死者
この戦いでは勝者・敗者とも多くの犠牲を出しました。連合艦隊の戦死者は7000名以上、雄間艦隊も5000名以上が戦死します。指揮官クラスの戦死者にしぼると、連合艦隊ではヴェネツィア海軍を率いたバルバリーゴが戦死しました。
オスマン帝国側は、総司令官のアリ・パシャが戦死、シロッコことマホメッド・シャルークは捕虜となって3日後に死亡します。
レパントの海戦の影響
オスマン帝国の西進が止まった
レパントの海戦での敗北は、それまで快進撃を続けてきたオスマン帝国軍にとって初めての大敗北となります。これまで、オスマン帝国を相手によくて引き分け、悪ければ敗北を繰り返していたヨーロッパ世界にとって初の福音となりました。
キリスト教側からすれば、1538年のプレヴェザの海戦以来、地中海ではオスマン帝国に押されっぱなしだっただけに、レパントでの勝利は彼らを間違いなく勇気づけたことでしょう。
しかし、この敗北によってオスマン帝国が完全に東地中海の制海権を失ったというわけではありません。実際、6か月後には大艦隊を再建しています。こうしたことを考えると、レパントの海戦はオスマン帝国にとって打撃ではあっても、致命傷ではなかったといえそうです。
スペイン海軍が強化され、無敵艦隊(アルマダ)が生まれた
レパントの海戦が起きた16世紀後半は、貿易の中心が地中海から大西洋に移る時代でもありました。大西洋沿岸の新興国であるオランダやイングランドはスペイン船が南アメリカから運ぶ銀を狙って海賊行為を繰り返します。
こうした行為を取り締まるため、スペインは大西洋方面の艦隊を強化しました。そして、オランダ独立戦争でスペインに敵対していたイングランドへの攻撃を企てます。
1588年、スペインは併合したポルトガルの首都リスボンに大艦隊を集結させます。その大艦隊は無敵艦隊(アルマダ)とよばれました。その後、無敵艦隊はイングランド海軍と戦闘となりました。これを、アルマダの海戦といいます。結果は、スペインの敗北に終わりました。
レパントの海戦を描いた作品
塩野七生著『レパントの海戦』
塩野七生はイタリアを中心としたヨーロッパ史を題材とすることで有名な小説家です。彼女はイタリア永住権をもっていて、フィレンツェやローマなどで暮らしています。
『レパントの海戦』は、彼女が書いた「海戦三部作」とよばれる作品の一つです。ほかの二つは『コンスタンティノープルの陥落』と『ロードス島攻防記』です。主人公のバルバリーゴを中心とする人間ドラマが描かれた人気作です。
海洋国家ヴェネツィア共和国が斜陽に向かう時代を描き、かつ、新興勢力のオスマン帝国やスペインの力を思い知る描写がある種痛々しさを感じます。レパントの海戦に興味がある方は、ぜひ一読されることをお勧めします。
広瀬勇人作の吹奏楽曲『レパントの海戦』
広瀬勇人は1974年生まれの作曲家です。東京都出身で東京ミュージックアンドメディアアーツ尚美を卒業後、ボストン音楽院やベルギーのレメンス音楽院で学びます。レメンス音楽院ではヤン・ヴァン・デル・ローストに師事しました。
レパントの海戦は2010年に広瀬が神奈川県立相模原高校吹奏楽部の第30回定期演奏会記念委嘱作品として作曲したものです。戦いに臨むヨーロッパ側の兵士たちやそれを故郷で待つ家族、オスマン帝国軍の出現による緊張感などが表現された楽曲です。とてもドラマチックな楽曲で聞いていて飽きない一曲です。
レパントの海戦に関するまとめ
いかがでしたか?
レパントの海戦はスペインやヴェネツィア、ローマ教皇庁が組織したヨーロッパ諸国の連合艦隊とオスマン帝国艦隊が激突した戦いです。両軍はギリシアのコリント湾の入り口にあるレパントの沖合で戦い、連合艦隊が勝利しました。
戦いの結果、オスマン帝国の西方拡大の勢いは鈍りました。その後、世界各地に植民地を持つスペインは大西洋方面の海軍を増強し、無敵艦隊(アルマダ)とよばれる大艦隊を編成します。
この記事を見て「レパントの戦いとは何か」、「レパントの戦いはどこで起きたのか」、「レパントの戦いを題材にした作品はあるのか」といった疑問に対し少しでもそうだったのかと思える時間を提供できたらうれしいです。
長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。