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世界恐慌が各国に与えた影響を分かりやすく解説!生活や経済への影響は?

「世界恐慌の影響ってどんなものだったの?」
「国や地域ごとに影響に差があったみたいだけどなんで?」

世界経済をどん底に陥れた世界恐慌。その影響は凄まじく、ほぼ全世界を巻き込んだ歴史的に類を見ない大不況となりました。この後、再び世界を巻き込んだ第二次世界大戦へと突入するのですが、実は第二次世界大戦の遠因には世界恐慌の影響が大きいとされているのです。

では一体どのような影響が各国を襲い、どのように対処したのでしょうか?また、影響が大きかった国とそうでなかった国の違いは何だったのでしょうか?

この記事では、世界恐慌の各国ごとの影響と対応策、経済システムで影響に差があった理由を解説します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

世界恐慌の始まり

不況の報道を受け預金をおろす列をなすアメリカ人
出典:Wikipedia

1929年10月24日の午前10時、ウォール街にあるニューヨーク証券取引所でゼネラルモーターズの株価が下落を始めました。始めは大したことはないと思われていた株価の下落でしたが、あれよあれよという間に暴落を始めたのです。

その後も連日株価は乱高下を繰り返したのですが、29日に止めが刺さります。

数日前から新聞で株価の暴落が報じられてからというもの、投資家は株の売却を急いでいました。29日に一斉に売り注文が殺到し、結局この日1日で損失したゼネラルモーターズの株の時価総額は約140億ドル。アメリカ史上類を見ない大損失になりました。

株式はその会社の成長度合いや信頼で投資家から購入されるもの。特にもっとも信頼されていたゼネラルモーターズの銘柄が暴落を起こしたとあって、他の企業の株価も軒並み下落。アメリカ経済は不況へと突入します。

それと同時に、第一次世界大戦以降アメリカに経済的に頼っていた国々もこの証券パニックの影響を受け、不況に陥っていくのでした。

世界恐慌による日本への影響

貿易会社・鈴木商店(現・双日)の経営破綻を報じる新聞記事

アメリカの証券パニックに端を発した世界恐慌の影響を日本が受けたのは、発生から1年後の1930年のことです。日本史では昭和恐慌と呼ばれており、戦前最悪の不景気とされています。

実はこの前から日本経済には不穏な空気が漂っており、それに拍車をかけたのが世界恐慌なのです。

金輸出解禁と円高政策の失敗

井上準之助蔵相

日本は世界恐慌の起こる15年ほど前まで、第一次世界大戦による戦争特需で好景気に湧いていました。直接戦争に参加したわけではありませんでしたが、日英同盟の関係で軍需産業が活発化したことが大きな要因です。

しかし1923年の関東大震災および先の戦争への出費で日本経済の実態は疲弊していました。

戦争が終結したのちは戦争特需も終わりをつげ、積りに積もった不良債権の対処で経済は悪化。次いで三井、三菱に並ぶ貿易会社・鈴木商店の経営破綻により台湾銀行が不良債権を回収しきれず、「銀行が倒産する」との噂から他の銀行にも預金者が殺到する騒ぎになりました。

「大学は出たけれど」流行のきっかけになった同名映画のワンシーン

当時の日本経済はインフレーション気味、つまり物価が高い状態でした。1929年に発足した浜口内閣の蔵相、井上準之助はこの状態を打開すべく、金輸出解禁で恐慌前の、調子のよかったアメリカとの貿易で経済の回復を狙いました。

政府の狙い通り、当初は緩やかなデフレに転じたのですがそれが急加速し物が売れない状況に。金輸出に伴う円高政策も歯止めが利かず、輸入過多に陥り日本製品はまったく売れなくなってしまいました。

1930年には失業者が250万人を超える事態に。「大学は出たけれど」が流行語になるほど、その状態は深刻なものでした。

同年、対応策が不十分であったとして、首相・浜口雄幸が東京駅で狙撃されるなど社会不安に陥ったのでした。幸いにも浜口首相は一命を取り留めましたが、これを機に退陣しました。

金輸出再禁止で乗り切るも再禁止へ

高橋是清蔵相

退陣した浜口内閣に代わって発足した第2次若槻内閣は、満州事変もあって経済政策を打ち出せず退陣。

次の犬養内閣で大蔵大臣であった高橋是清蔵相は、1931年に金輸出の再禁止を実施。金本位制から管理通貨制度へとシフトチェンジし、軍事費拡大と赤字国債の積極的な発行でインフレ政策を打ち出しました。

この政策により日本の経済は回復。輸出が増えるなど、貿易面での回復も見せました。しかし、一方で社会不安にあおられる形で軍部が暴走を始めたのです。こののち、犬養毅、井上準之助らが軍部によって殺害されることとなります。

また、同時に欧米諸国が「ブロック経済」を実施し日本製品は再び売れなくなり、日本国内では同様の政策を取るために植民地の必要性を訴える声が増加。軍部への期待がますます高まっていたのです。

主要国の世界恐慌による影響と対応策

地域ごとの主な対応策

日本はそもそもが不景気の状態から脱却を図った経済政策のタイミングの悪さから世界恐慌の影響を受けました。日本への影響は発生から時間が経っていましたが、ではほか国々はどうだったのでしょうか?

本章では、アメリカ、ヨーロッパ、ソビエト、そしてドイツの4つに分けて説明していきます。

アメリカ

1983年に発行されたテネシー州ダムを描いた20セント切手

世界恐慌の発端となったアメリカ。恐慌前の好景気から一転したアメリカの経済立て直しは、ニューディール政策の登場を待たなければなりませんでした。

行き過ぎた生産とバブル経済

世界恐慌を現した風刺画

世界恐慌の前のアメリカ経済は、各国の戦後経済を支える側として文字通り世界経済の中心として機能していました。多くの国々に資金の貸付をし、同時に貿易用に製品を大量製造。国内での消費量も著しく、まさにバブル景気真っ只中でした。

しかしそれが世界恐慌の引き金となります。街には物があふれかえり、購入意欲は徐々に減退。結果として株価の暴落へと発展し、世界を巻き込んだ不景気へと突入します。

アメリカはなんとか各国に貸し付けた資金の返済を求めますが、どの国もそのような余力はなく不良債権と化しました。打開するための政策が出されましたがこれと言った効果はなく、時代は1933年を迎えます。

ニューディール政策

フランクリン・ルーズベルト

1933年、新大統領・フランクリン・ルーズベルトは世界恐慌で生まれた失業者対策および企業・銀行の支援策を実施。世にいうニューディール政策を開始しました。

最低賃金の保証や経営状態の悪い銀行を政府管理下に置くなどさまざま方法を取った中で、最も有名なのは公共事業への投資です。テネシー州ダムの建設がまさにそれにあたり、ルーズベルトの思惑は的中。失業率の低下に貢献し、アメリカ経済の復興に成功しました。

公共事業を作ることで雇用を増やすこのやり方により経済を回復したアメリカ。1939年には世界恐慌前の水準以上に復活を遂げることとなりました。

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