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世界恐慌が各国に与えた影響を分かりやすく解説!生活や経済への影響は?

「世界恐慌の影響ってどんなものだったの?」
「国や地域ごとに影響に差があったみたいだけどなんで?」

世界経済をどん底に陥れた世界恐慌。その影響は凄まじく、ほぼ全世界を巻き込んだ歴史的に類を見ない大不況となりました。この後、再び世界を巻き込んだ第二次世界大戦へと突入するのですが、実は第二次世界大戦の遠因には世界恐慌の影響が大きいとされているのです。

では一体どのような影響が各国を襲い、どのように対処したのでしょうか?また、影響が大きかった国とそうでなかった国の違いは何だったのでしょうか?

この記事では、世界恐慌の各国ごとの影響と対応策、経済システムで影響に差があった理由を解説します。

世界恐慌の始まり

不況の報道を受け預金をおろす列をなすアメリカ人

1929年10月24日の午前10時、ウォール街にあるニューヨーク証券取引所でゼネラルモーターズの株価が下落を始めました。始めは大したことはないと思われていた株価の下落でしたが、あれよあれよという間に暴落を始めたのです。

その後も連日株価は乱高下を繰り返したのですが、29日に止めが刺さります。

数日前から新聞で株価の暴落が報じられてからというもの、投資家は株の売却を急いでいました。29日に一斉に売り注文が殺到し、結局この日1日で損失したゼネラルモーターズの株の時価総額は約140億ドル。アメリカ史上類を見ない大損失になりました。

株式はその会社の成長度合いや信頼で投資家から購入されるもの。特にもっとも信頼されていたゼネラルモーターズの銘柄が暴落を起こしたとあって、他の企業の株価も軒並み下落。アメリカ経済は不況へと突入します。

それと同時に、第一次世界大戦以降アメリカに経済的に頼っていた国々もこの証券パニックの影響を受け、不況に陥っていくのでした。

世界恐慌による日本への影響

貿易会社・鈴木商店(現・双日)の経営破綻を報じる新聞記事

アメリカの証券パニックに端を発した世界恐慌の影響を日本が受けたのは、発生から1年後の1930年のことです。日本史では昭和恐慌と呼ばれており、戦前最悪の不景気とされています。

実はこの前から日本経済には不穏な空気が漂っており、それに拍車をかけたのが世界恐慌なのです。

金輸出解禁と円高政策の失敗

井上準之助蔵相

日本は世界恐慌の起こる15年ほど前まで、第一次世界大戦による戦争特需で好景気に湧いていました。直接戦争に参加したわけではありませんでしたが、日英同盟の関係で軍需産業が活発化したことが大きな要因です。

しかし1923年の関東大震災および先の戦争への出費で日本経済の実態は疲弊していました。

戦争が終結したのちは戦争特需も終わりをつげ、積りに積もった不良債権の対処で経済は悪化。次いで三井、三菱に並ぶ貿易会社・鈴木商店の経営破綻により台湾銀行が不良債権を回収しきれず、「銀行が倒産する」との噂から他の銀行にも預金者が殺到する騒ぎになりました。

「大学は出たけれど」流行のきっかけになった同名映画のワンシーン

当時の日本経済はインフレーション気味、つまり物価が高い状態でした。1929年に発足した浜口内閣の蔵相、井上準之助はこの状態を打開すべく、金輸出解禁で恐慌前の、調子のよかったアメリカとの貿易で経済の回復を狙いました。

政府の狙い通り、当初は緩やかなデフレに転じたのですがそれが急加速し物が売れない状況に。金輸出に伴う円高政策も歯止めが利かず、輸入過多に陥り日本製品はまったく売れなくなってしまいました。

1930年には失業者が250万人を超える事態に。「大学は出たけれど」が流行語になるほど、その状態は深刻なものでした。

同年、対応策が不十分であったとして、首相・浜口雄幸が東京駅で狙撃されるなど社会不安に陥ったのでした。幸いにも浜口首相は一命を取り留めましたが、これを機に退陣しました。

金輸出再禁止で乗り切るも再禁止へ

高橋是清蔵相

退陣した浜口内閣に代わって発足した第2次若槻内閣は、満州事変もあって経済政策を打ち出せず退陣。

次の犬養内閣で大蔵大臣であった高橋是清蔵相は、1931年に金輸出の再禁止を実施。金本位制から管理通貨制度へとシフトチェンジし、軍事費拡大と赤字国債の積極的な発行でインフレ政策を打ち出しました。

この政策により日本の経済は回復。輸出が増えるなど、貿易面での回復も見せました。しかし、一方で社会不安にあおられる形で軍部が暴走を始めたのです。こののち、犬養毅、井上準之助らが軍部によって殺害されることとなります。

また、同時に欧米諸国が「ブロック経済」を実施し日本製品は再び売れなくなり、日本国内では同様の政策を取るために植民地の必要性を訴える声が増加。軍部への期待がますます高まっていたのです。

主要国の世界恐慌による影響と対応策

地域ごとの主な対応策

日本はそもそもが不景気の状態から脱却を図った経済政策のタイミングの悪さから世界恐慌の影響を受けました。日本への影響は発生から時間が経っていましたが、ではほか国々はどうだったのでしょうか?

本章では、アメリカ、ヨーロッパ、ソビエト、そしてドイツの4つに分けて説明していきます。

アメリカ

1983年に発行されたテネシー州ダムを描いた20セント切手

世界恐慌の発端となったアメリカ。恐慌前の好景気から一転したアメリカの経済立て直しは、ニューディール政策の登場を待たなければなりませんでした。

行き過ぎた生産とバブル経済

世界恐慌を現した風刺画

世界恐慌の前のアメリカ経済は、各国の戦後経済を支える側として文字通り世界経済の中心として機能していました。多くの国々に資金の貸付をし、同時に貿易用に製品を大量製造。国内での消費量も著しく、まさにバブル景気真っ只中でした。

しかしそれが世界恐慌の引き金となります。街には物があふれかえり、購入意欲は徐々に減退。結果として株価の暴落へと発展し、世界を巻き込んだ不景気へと突入します。

アメリカはなんとか各国に貸し付けた資金の返済を求めますが、どの国もそのような余力はなく不良債権と化しました。打開するための政策が出されましたがこれと言った効果はなく、時代は1933年を迎えます。

ニューディール政策

フランクリン・ルーズベルト

1933年、新大統領・フランクリン・ルーズベルトは世界恐慌で生まれた失業者対策および企業・銀行の支援策を実施。世にいうニューディール政策を開始しました。

最低賃金の保証や経営状態の悪い銀行を政府管理下に置くなどさまざま方法を取った中で、最も有名なのは公共事業への投資です。テネシー州ダムの建設がまさにそれにあたり、ルーズベルトの思惑は的中。失業率の低下に貢献し、アメリカ経済の復興に成功しました。

公共事業を作ることで雇用を増やすこのやり方により経済を回復したアメリカ。1939年には世界恐慌前の水準以上に復活を遂げることとなりました。

ヨーロッパ諸国

世界恐慌前の植民地の一覧

世界恐慌の影響をまともに、しかも早い段階で受けたのは「列強」と呼ばれていたヨーロッパ諸国も同様でした。今よりも国土が広かったこともあり、各国ともその対応に追われたのは想像に固くありません。

アメリカの不況で物が売れない

第一次世界大戦の主戦場となったヨーロッパは、戦勝国も敗戦国も戦後復興に力を入れていました。独自で生産が続けられなかった国々は、先進国からの援助と輸入で復興への足がかりを模索していました。とりわけ植民地を持つイギリス、フランスなどの大国は戦後の混乱に乗じて影響力を拡大。ドイツから獲得した多額の賠償金もあって、必ずしも苦しいと言える状況ではありませんでした。

世界恐慌前後の主要国の工業生産のグラフ

しかし、一部の製品をアメリカからの輸入に頼っていた影響で、世界恐慌によるアメリカの不況をもろに受けたのもヨーロッパ。アメリカと同じくものが売れなくなり、アメリカからの輸入に頼っていた国々はモノが売れない状況でも輸入しなければならない事態になりました。

ブロック経済の成立

対外貿易の影響で悪化する経済状態を回復するため、植民地を持つヨーロッパ諸国は自国の貿易の保護を理由に「ブロック経済」政策の実施に踏み切ります。これは植民地を含む同一通貨を使用する地域との貿易を優遇する政策で、対外貿易については重い関税を課す形で貿易を守ろうとしました。

それぞれの国により、使用していた通貨の名前を取って「ポンドブロック」「フランブロック」などと呼ばれています。これによりヨーロッパ諸国は経済回復を試み、イギリスなどの大国はある程度の回復に成功しました。

ソビエト

5か年計画を扇動するポスター

世界が不況にあえぐ中、その影響が薄かったのがソビエトです。それどころかソビエトはこの間に国力増進のための経済政策に打って出ます。

影響が薄かったソビエト

世界恐慌の波は東へ東へと向かう中で、ソビエトだけは普段と変わらない経済状況でした。まったく影響がなかったわけではありませんが、他の国に比べ被害は最小限で済んでいました。

その理由は社会主義経済による計画経済にありました。

具体的には後ほど触れますが、年間の生産量を国が管理することでものや通貨の余剰が少なかったことがその最大の理由です。資本主義の国々が不況に見舞われる中、ソビエトの指導者・スターリンはこのタイミングで大々的な国力増強に打って出たのでした。

5か年計画

その最大の計画こそ「5カ年計画」です。

ソビエトの指導者、スターリン

年間でのものの生産量や通貨の流通量を国がコントロールしているソビエトは、世界経済の先行きが見通せない中にあって、むこう5年間の経済計画を公表。これに基づいて重化学工業と農業を進歩させ、アメリカやヨーロッパ諸国とは違った意味での大国化の道を歩むことになります。

結果としてこの政策は成功。第二次世界大戦後には、大国の一国として世界中から認識されるほどの成功を収めることとなります。

ドイツ

アウトバーン開通式の風景

第一次世界大戦の敗戦国であり、状況が苦しい中で多額の賠償金の支払いを余儀なくされたドイツだけは事情が異なりました。できる政策もなく、今後の先行きが見えなかった中でドイツは一体どういう方法に出たのでしょうか?

対応しきれず大不況に

ハイパーインフレーションと呼ばれるような物価の高さからすでに未曾有の不況にあったドイツ。復興のためにアメリカなどの大国からの援助を受けていました。そのおかげでやや復興の兆しを見せていたものの、世界恐慌の影響が到来。国民の3人に1人は失業者という恐ろしい事態にまで発展したのです。

紙切れ同然になった紙幣で遊ぶ子どもたち

これに対応するため、大規模な雇用安定政策が打ち出されるも経済基盤が不十分であったため失敗。他のヨーロッパ諸国のように植民地の数も多くなかったためブロック経済の実施も難しく、ドイツ経済は再び悪化していったのです。

侵略政策とファシズム

このドイツの経済混乱に乗じて、ナチスが勢力を伸ばします。

ヒトラーが首相に就任すると更に行動は激化。やがて列強に近づくためには軍事力による侵略が必要と唱えて再軍備を開始します。その過程でユダヤ人や反ナチス勢力を弾圧。世にいうファシズムを本格的に開始し、第二次世界大戦の契機となったのです。

この中で行われた公共事業、アウトバーン建設により失業者数は激減しました。一定の成果は上げたものの、軍事費に多額の資金が投入されたことにより、効果は本当に一時的なものにとどまってしまったのです。

世界恐慌で割れた経済システムの強さと弱さ

1930年代にソビエトで作られた巨大飛行機の一部

不況での強みを見せたソビエトですが、その背景には社会主義という経済の考え方がありました。一方で世界のという当時はソビエト独自であった経済システムが深く関係しています。一方の資本主義経済はこの一件で弱みを見せたことで、第二次世界大戦後には若者の間で社会主義へのシフトを呼びかける声が高まりました。

では、この経済システムがなぜ世界恐慌の影響に深く関係しているのでしょうか?

資本主義

まず資本主義経済の特徴として、需要と供給は個人・企業間の裁量によって決められる特徴があります。

どういうことかというと、企業は売れると判断すればいくらでもモノを作りだし、市場に流すことが可能です。もちろん無尽蔵に販売を続けてもいつかは飽和状態になるのも企業はわかっていますので、ある程度生産量のめどはつけています。

しかし、世界恐慌の引き金となったアメリカにおけるバブル経済はそんな事お構いなしに物品の生産を続け、いつしか在庫が余剰に。そうなると値下げ合戦が始まり、デフレーションのきっかけとなってしまうのです。ゼネラルモーターズの株価が急落した原因も「車を売っても儲けは薄いのではないか」という不安から起きたものなのです。

株価の図解

市場の需要と供給のバランスが成り立たなければ資本主義経済は成立しないのです。

社会主義

社会主義経済は、ソビエトの項目でも簡単に触れましたが、国が年間の物品の生産量と貨幣の流通量を決めています。つまり、国が取り決めた分だけ作ればそれでいいというシステムだったのです。

ソビエトは、世界恐慌の影響が波及してもなお、独自の経済システムによって深刻な影響を受けることなく済みました。それどころか長期的な成長戦略に転換し、大国の一員となることさえできたのです。

5か年計画で建造中のドニエプル水力発電所

ただし、確かに不景気には強いのですが、国がすべての生産量を管理しているため誰か一人が利益を出そうとするのは社会的にアウト。厳しく罰せられる対象となりました。そのため、貧富の差はないものの富裕層もおらず、ただ機械的に労働に従事することになります。

この反動が起きたのは第二次世界大戦終結から50年近くたった1991年。ソビエトの崩壊により社会主義が崩壊するまで続いたのです。

倒されるレーニン像

世界恐慌の影響に関するまとめ

世界恐慌の影響は、一部の地域を除いて深刻な経済的打撃を与えました。その状況から新しい政策で打開を試みた国、なすすべなく武力に訴えるようになった国とさまざまですが、後者が後に始まる第二次世界大戦の引き金を引いたのはまず間違いありません。

日本とドイツはその境遇の近似性から急接近。イタリアを含む三国同盟を結成し、世界を巻き込んだ戦争を起こしたことは、彼らなりの世界恐慌の影響からの脱出を試みるために必要だった行為だったのかもしれません。

しかし、事態は彼らの思うようには進まず、イタリア、ドイツ、そして日本の順番に連合国軍に降伏。
またしてもマイナスからのスタートを切ることになってしまったのです。

難しい話しもありましたが、この記事をきっかけに理解を深めてもらえたなら幸いです。

長文にお付き合いいただきありがとうございました!

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