ロシアの歴史とは?年表まとめ【重要人物や出来事、日本との関係についても紹介】

ロシアの歴史で重要な人物

初代ツァーリとなったイヴァン雷帝

ロシア・ツァーリ国の初代ツァーリとなったイヴァン4世はロシア最大の暴君と呼ばれ、その権威と苛烈で冷酷な性格から「雷帝」の異名を持っていました。

ロシア最大の暴君として知られるイヴァン4世

イヴァン4世の時代、対外的には東方の領土を拡大させることに成功します。しかし、西欧との通商を求めたイヴァン4世がバルト海進出を狙って西方国境で起こしたリヴォニア戦争は失敗に終わり、国力の低下につながりました。

内政的にはツァーリズムと呼ばれる専制政治を開始し、それまで権力を保有していた貴族勢力の抑圧を行います。また、行政や軍事において様々な改革を積極的に行いますが、大粛清や恐怖政治は経済に悪影響を与えました。

晩年、イヴァン4世は後継者である自身の息子に対して激怒し、我を失ったまま撲殺してしまいます。正気を取り戻した時には既に遅く、罪悪感を抱えたまま最期を迎えました。

ソ連の初代指導者レーニン

レーニンは史上初の社会主義国家であるロシア・ソビエト共和国を樹立し、後にソビエト連邦社会主義共和国の初代指導者となった人物です。

ソビエト連邦最初の最高指導者レーニン

元々は、ロシア社会民主党のボリシェヴィキ派で指導者として活動しており、1917年には十月革命を成功させました。実はレーニンの名は筆名であり、本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフです。

またレーニンは革命家、政治家としてだけでなく哲学者としても様々な著書を残し、レーニン主義の思想は後世に継承されていくことになります。

ソ連最後の指導者ゴルバチョフ

1985年にソビエト連邦共産党書記長に就任したゴルバチョフは、ソビエト連邦社会主義共和国における最後の最高指導者となりました。

ソビエト連邦最後の最高指導者ゴルバチョフ

ゴルバチョフはソビエト連邦内で起きていた社会主義経済の停滞を打破するために、多方面における改革を目指した「ペレストロイカ」と、情報公開を意味する「グラスノスチ」を断行します。

外交的には東欧の民主化を支持して冷戦を終結させました。しかしこれらのゴルバチョフによる政策は国内の分裂を招き、ソビエト連邦は崩壊へ向かうことになります。

ゴルバチョフは何度も来日しており、首相との会談や大学での講演会だけでなく、バラエティ番組にも出演しています。

ロシアと日本の関係

日露戦争

川を渡って進軍するロシア帝国軍

1904年に大日本帝国とロシア帝国による日露戦争が起こりました。大日本帝国と、南下政策を推し進めたいロシア帝国の朝鮮半島・満州の権益を巡る争いが原因です。

この戦争に勝利したのは日本でした。大日本帝国は、アメリカ合衆国の仲介の下でロシア帝国と結んだポーツマス条約の中で朝鮮半島における権益を認めさせ、ロシア領南樺太を割譲させます。さらに大連と旅順の租借権も奪いました。

実はロシア帝国内では民衆の不満の高まりや経済の停滞が原因となり、サンクトペテルブルクの労働者達によるデモ隊に対して軍隊が発砲する、という血の日曜日事件が起きていました。

大国ロシアが日本に敗北した事実は多くの国に衝撃を与えましたが、実際にはロシア帝国は内政に異変が起きていたため、戦争を継続することが困難な状況にありました。

ノモンハン事件

ノモンハン事件とは、1939年に満州国とモンゴル人民共和国の国境線を巡って起こった紛争です。当時満州国は大日本帝国が支配しており、モンゴルはソビエト連邦の衛星国となっていました。

日ソ国境紛争は度々起こっていましたが、このノモンハン事件が最大規模の軍事的衝突です。結果はソビエト連邦の勝利に終わりました。

ノモンハン事件の停戦協定が成立する直前にはドイツ軍によるポーランド侵攻が始まり、第二次世界大戦が始まることになります。

ロシアの歴史年表

882年 ‐ 「キエフ大公国の建国」

キエフへの入り口「黄金の門」

ロシア最古の都市ノブゴロドを建設したリューリクの子が、882年にドニエプル川流域のキエフを占領して建設した国家がキエフ大公国です。

キエフを首都としたキエフ大公国は、南に位置するビザンツ帝国と接触し、その際にビザンツの文化が北方へと流れ込んできます。10世紀までにはキリスト教を受容し、キエフ大公国はキリスト教文化圏の1つとなりました。

しかしモンゴル帝国の侵攻によって1240年にキエフが陥落。それ以後、ロシアは200年以上に渡ってモンゴルの支配を受けることになります。

1223年 ‐ 「タタールのくびき」

タタールのくびきとは、モンゴルによるロシアへの侵攻とそれに続く支配を指します。モンゴル帝国最初のロシア襲撃は1223年のカルカ河畔の戦いでした。

1240年にはキエフ大公国が陥落。多くの都市が焼き払われ、首都キエフも骸骨が散乱する廃墟となってしまいます。ロシアを征服したモンゴルはそのままヨーロッパへと大規模侵攻を開始しました。

侵略を重ね巨大帝国を築いたモンゴル帝国でしたが、実は宗教的には非常に寛容です。モンゴルは地域に根付いていたイスラム教やキリスト教を根絶しようとはせず、むしろ被征服民の宗教的影響を自ら受けてしまうこともありました。

1480年 ‐ 「モンゴルの支配から解放される」

1480年にロシアはモンゴルの支配から解放されることになります。タタールのくびきからロシアを解放した人物として知られるのが、モスクワ大公イヴァン3世です。

名君とされるモスクワ大公イヴァン3世

ロシア帝国の前身であるモスクワ大公国は、イヴァン3世の治世で支配領域を多く広げることになりました。強力な統一国家を生み出したイヴァン3世は名君とされています。

また、正式に用いられたのはもう少し後ですが、ロシア語で皇帝を意味する「ツァーリ」の称号が初めて使われたのはこの時代であると言われています。

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