英蘭戦争とは、イングランドとオランダ王国の原型となったネーデルラント連邦共和国の間に起きた戦争です。イギリス・オランダ戦争とも呼ばれます。
ヨーロッパ北西部に位置し、北海を挟んで向かい合っている両国はなぜ英蘭戦争を起こすことになってしまったのでしょうか。
この記事では英蘭戦争が起こった原因からその後の影響まで迫っていきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
英蘭戦争とは
英蘭戦争はいつ起きた?
英蘭戦争は17世紀後半に3度にわたって起こりました。また、18世紀に起こったイングランドとネーデルラント連邦共和国の戦争も、原因は異なりますが英蘭戦争とされています。
英蘭戦争が起こった頃のヨーロッパは小氷期による寒冷化に襲われており、飢饉、戦争、内乱が相次ぐ「17世紀の危機」と呼ばれる混乱期を迎えていました。
ヨーロッパに大きな影響を与えた三十年戦争などを含めて様々な戦争が起こっており、17世紀中で戦争がなかった時期はわずか4年しかなかったとされています。
英蘭戦争はなぜ起きた?
英蘭戦争はイギリスとオランダによる、海上貿易の覇権を巡って行われた戦争です。
17世紀初頭、オランダは東インド会社を設立。新大陸やアジア、日本などへ積極的な海外進出を推し進めました。次第にオランダ東インド会社の力はイギリス東インド会社を上回り、1623年にはアンボイナ島にあるイギリス東インド会社商館をオランダが襲撃するアンボイナ事件が起こってしまいます。
東南アジア、東アジアから撤退せざるを得なくなったイギリスでは、反オランダ感情が高まります。イギリスはアジアの富を独占したオランダの勢力を抑えつけるために航海法を制定。その結果、両国の対立は決定的となり、英蘭戦争が始まりました。
英蘭戦争後の影響
イギリスのアジア進出
長年に渡る英蘭戦争に勝利したイギリスは、オランダに代わって東アジア、東南アジアに進出することになります。
現在のマレーシア・シンガポールに海峡植民地を建設。オランダ以上の海軍力を保有するイギリスの存在は、東アジアにおける軍事バランスを崩壊させます。
1840年にはアヘン戦争を起こして清朝へ進出。「グレート・ゲーム」と呼ばれるロシア帝国との対立においては日本と同盟を組むなど、東アジアにおけるイギリスの影響力は大きなものとなりました。
オランダの衰退
一時は東アジア、東南アジアとの貿易を独占し、ヨーロッパにおける海上覇権を握ったオランダでしたが、英蘭戦争に敗北したことで大きく衰退してしまいます。
1824年に結ばれた英蘭協約でオランダの海外領土は縮小し、オランダ領東インド、オランダ領ギニア、商館を設置している日本の出島のみとなりました。
17世紀には黄金時代を迎えたネーデルラント連邦共和国でしたが、次第にヨーロッパの中心から外れていくことになります。