ナスカの地上絵が描かれた理由
天文学書説
ナスカの地上絵が描かれた理由としてもっとも有力と考えられていたのが天文学書説です。1939年にナスカの地上絵を発見し、1941年から本格的に研究に乗り出したポール・コソックが、地上絵の線の一つが「冬至の日の太陽が沈む方向」を示していることを発見したのです。
古代ナスカの人々が乾燥地帯で暮らすためには、地上に雨の降る時期を正確に予想しなければ農業が営めないため、地上に線を引いて、春分、夏至、秋分、冬至など季節の移り変わりを明確にできるようにしたのではないかと予測されました。
この仮説を裏付ける働きをしたのがドイツの伝説の研究者、マリア・ライへです。マリア・ライへは1941年からナスカの地上絵を研究し始め、1950年からは「パンパ」に実際に居住して研究を進めた女性で、38歳から95歳に至るまで57年間に渡って地上絵の研究に精を出しました。
そして、彼女も天文学書説を支持し、線だけでなく、動植物の絵も天文学的な意味が含まれていると結論づけたのです。例えば、クモの絵柄はオリオン座とぴったり重なる、サルの絵柄も星の配置と同じになるなど、天文学と繋がる研究成果を発表しました。
このように有力な仮説が次々に発表されたことから、「ナスカの地上絵は天文学と関係がある」という天文学書説が世界中に広まっていったのでした。
道・広場説
天文学書説と並んで有力視されているのが宗教的な儀式や祭りなどの際に使用するという「道・広場説」です。この仮説を提唱したのはペルーの歴史学者ハンス・ホルクハイマーで、1945年に調査を行なった結果、動植物の絵は祭りで踊る際に行進する道、図形は人々が集まる広場、線は先祖のつながりを示す系統図だと結論づけました。
1980年にはフォン・ブロイニッヒというドイツの研究者が「道・広場説」を支持し、渦巻きなどの図形や線は行進用の道、あるいは競技用のラインであると提唱したのです。さらに、インカ帝国が栄えていた時代に道路として利用されていた「インカ道」とナスカの地上絵の作り方が似ていることから、やはり、道の一種として捉えられ、聖地へ向かう巡礼の道や豊作を祈るための行進の際に用いる道ではないかという説も挙がっていったのです。
図形の地上絵の中には石が積まれた形跡があったり、土器や織物などが捧げられていた痕跡が残っていたりすることからも、何らかの儀式の際に使われたのではないかという説が有力視されるようになりました。
気球・宇宙人説
スイスの古代文明研究家のエーリッヒ・フォン・デニケンは、1968年に出版した「未来の記憶」という書籍の中で、「ナスカの地上絵は宇宙人が作った宇宙船の滑走路だ」という説を提唱しました。ナスカの人々は宇宙からの使者のことを「神」と崇めており、いつしか宇宙人がまた戻ってくるのではないかと期待しつつ、新たな地上絵を増設していったのではないかという仮説を立てたのです。
動植物の絵は神への供物として考え、空からでも見えるように大きく描いたのではないかと結論づけました。この宇宙人説により、有名な「巨人の地上絵」は実は宇宙人を表しているのではないかという意見まで出てくるようになったのです。
また、この宇宙人説から派生して、空から地上絵を眺めるという説を気球説に置き換えたのがアメリカの冒険家のウッドマンでした。古代ナスカの人々は気球を作る文化があり、飛行するときに楽しめるようにと地上絵を無数に描いたのではないか、気球の居場所を特定できるように目印として描いたのではないかとの予測を立てたのです。
しかし、歴史上、初めて気球が発明されたのはモンゴルフィエ兄弟が1783年に上げた熱気球であるとされているため、それよりも1000年以上も前のナスカ時代に気球が上がっていたことは容易には考えられません。
虚構説
ナスカの地上絵は謎が多すぎるために、実は作り話なのではないかとする説もあります。古代ナスカ文明の時代から存在していたものもあることにはあるのですが、その後に立て続けに発見された絵柄は現代に生きている人々が人知れず描いているのではないか、本当にナスカ時代に描かれたものはほんの少数なのではないかとも言われました。
実際に新種の地上絵が発見されるたびに、実は作り物なのではないか、フェイクニュースなのではないかと様々な疑念が飛び交っています。しかし、現在は最新の技術を駆使して研究が進められているため、その包囲網をくぐり抜けて最新作を描くというのは至難の技だと思われるのですが、実際のところは調査や研究が進んでみないとわからないというのが実情です。