ヴェルサイユ条約の内容
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1919年にヴェルサイユ条約は正式に調印されました。内容は以下の通りです。非常に多岐にわたるために、主だって重要なものを紹介します。ドイツにとっては過酷な内容となりました。
国際連盟の設置
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アメリカのウィルソン大統領が求めていた国際平和機構、「国際連盟」が立ち上がりました。全26ヶ条の規約を元に発足しています。国際連盟の理念は、「国が自国の安全を国際組織に委ねるもので、万一侵略を受けた場合には加盟国全体が被侵略国を援助し侵略国に立ち向かうというものである」です。要は、加盟国は侵略されている国があったら、加盟国で協力して侵略を防ぎましょう、という活動する組織です。
領土の処分
鉄鉱石の豊富なアルザス・ロレーヌ地方をフランスに取られて、石灰が多く取れるザール地方は国際連盟の管理下におかれました。ドイツの失った国土は10パーセント以上に及び、オーストリアとの合併も禁じられました。また、アフリカや南洋諸島にあった植民地はすべて手放すことになっています。これらの植民地は、連合国が受任先となる委任統治領になりました。
軍備の制限
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ドイツの軍備は大きく制限されました。陸軍は10万人まで、海軍も艦隊が大きく削減され、潜水艦は持つのも作るのも禁止されました。また、航空機も100機の保有しか認められず、作ることも禁じられてしまいました。その他にも、ラインラントは(ライン川西域)は15年間連合国が占領し非武装とされました。
賠償金
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戦争責任はドイツにあるとされ、賠償金額は1921年に1320億マルクに決定しています。ヴェルサイユ条約には戦争がドイツとその同盟国の攻撃によって引き起こされ、賠償責任はドイツとその同盟国にあるとされました。これが戦争責任条項と呼ばれています。
このことが特にドイツ国にとって屈辱的であったといわれ、戦争責任にドイツに負わせることにより全ての物質的な責任をドイツに負わせたのです。賠償総額については決定されておらず、賠償委員会にて決定されました。最終的な決定は1921年にされています。ドイツの毎年の支払いは20億マルクと決められました。
ヴェルサイユ条約締結後の各国への影響
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ヴェルサイユ条約により、ひとまず第一次世界大戦は終結しました。終結後の世界を「ヴェルサイユ体制」と呼ばれるようになります。ヴェルサイユ体制では、具体的にどのような影響があったのか、敗戦国のドイツを中心に見ていきたいと思います。
ドイツへの影響はどうだったのか?
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ヴェルサイユ条約で過酷な条件を突きつけられたドイツは、厳しい状況にドイツ国民の精神を徐々に追い詰めていきました。条約の受諾に動いていたものでさえ「悪魔の所業」といっていたといいます。講和内容がありていに言うと、「敗戦国のドイツへの倍返しの虐め」と取られる内容だったからです。ドイツ国民は屈辱の中、以下のことも行われました。
第一次世界大戦に対する制裁裁判
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連合国はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を戦争責任者として、国際裁判にかけようと働きかけています。しかし亡命先のオランダが、告発者が中立の立場で裁くことができないだろうと判断し引き渡しを拒否したために実現しませんでした。
またドイツ政府が戦犯の引き渡しを拒否したために、国際裁判ではなく国内裁判で裁かれることになりました。1921年にライプツィヒ戦争犯罪裁判が開かれ、捕虜虐待をした連合国が指名した45名が裁かれています。この裁判は有罪になったものもそんなに刑期は長くなく、死刑は一人も出ませんでした。
住民投票が行われる
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シュレースヴィヒ・東プロイセン・上シレジアの3地域で、どの国に所属したいかの住民投票が行われました。具体的には、ベルギー・ポーランドとドイツとの国境線を決める選挙です。この投票で搾取された地域を含めて、ドイツ領だった地域が10パーセント程度減ることになりました。そして重工業地帯がポーランドに帰属になったりしたため、隣国間の確執を作ることになったのです。
賠償金の影響でインフレが起こる
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膨大な賠償金額に苦しみ、ドイツのマルク相場は急速に下落しました。そして1923年にフランスが賠償金の遅延を理由に、ヴェルサイユ条約を根拠としたルール工業地帯の占領を開始しました。これに対するドイツの対抗措置も重なり、マルクはおよそ1兆倍に下落するというハイパーインフレーションが起こっています。
これ以降に連合国もドイツの経済状況に配慮するようになり、ドーズ案によってドイツの賠償支払いは一段落しています。しかし1930年代に世界恐慌が起こると、賠償の支払いは事実上不可能となりました。ドイツは賠償金の一時停止を宣言し、1932年のローザンヌ会議で事実上賠償問題は解消されました。
武装解除が行われる
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ドイツ海軍艦艇は、連合国に引き渡されることになりました。当時イギリスのスカパ・フロー港に抑留していたドイツ艦艇は、ロイター提督の命令で1919年6月21日にいっせいに自沈し、艦艇74隻中52隻が沈没させています。いくつかの艦は引き上げられず、連合国は引き渡しを受けることができませんでした。
自沈させた理由はドイツ戦艦を摂取した後に、連合国間に分配されるのを防ぐための処置でした。この行動はドイツ国内では評価され、ロイター提督が国民的な英雄であると受け止められています。