ヴェルサイユ条約とは?内容や目的、賠償金額まで分かりやすく解説

日本への影響は?

ドイツの占領下にあった山東省を日本は、占領しました

ドイツは青島や山東省の鉄道などの権益を持っていました。日本はドイツと第一次世界大戦中に、「青島の戦い」を行い勝利し、山東省を全体を支配下に置いていました。「ヴェルサイユ条約」には「山東省の権益を日本に渡す」とされています。

「もともと中国に返還する目的でドイツから奪ったのだから、直接中国に返したらいい」と中国やアメリカが主張しましたが、「いったん日本に渡してくれれば中国に返しますよ」と日本側は主張し、非常にもめましたが、最終的に日本の主張が通りました。これによって、中国で大きな反対運動が起き(五・四運動)、中国政府がヴェルサイユ条約を否認しました。

その他連合国への影響はあったのか?

フランスもルール地方占領に失敗すると親独路線に転じました(写真はルール地方のフランス軍)

1925年にイギリス・フランス・イタリア・ベルギー・ドイツの5か国で、集団安全保障を定めたロカルノ条約の締結によってドイツを国際社会に復帰させています。1926年にはドイツも国際連盟に加入しました。1928年には不戦条約をさらに結びロカルノ体制は安泰となったかに思われましたが、世界恐慌の発生に伴うヨーロッパの不安定化により、英仏も新たな体制を模索する必要に迫られるました。

アメリカでは軍需産業調査特別委員会が設立され第一次世界大戦の財政面を調査しました

アメリカでも、ウィルソン大統領が唱えた「世界をデモクラシーにとって安全な場所にせねばならない」という標語の下に参加した大戦への疑問が国民全体に広がっています。1930年代には、戦争の過程でアメリカの銀行と軍需産業が大きな利益を上げたことが取り上げられ、国民の孤立主義的傾向に拍車がかかっていました。圧倒的大多数のアメリカ国民が、ヨーロッパやアジアにおける戦争にアメリカが関わるべきではないという考え方が浸透していったのです。

ヴェルサイユ条約はどのように破られたのか

1920年代は弱小政党だったナチ党は徐々に指示され始めてました

1930年代の世界恐慌により、ドイツの経済は事実上破綻していました。そういったドイツ国民の「心の隙間」に入り込んでいったのが、「反ヴェルサイユ条約」を掲げるヒットラー率いるナチ党でした。結果的にナチ党率いる「ヒトラー」がヴェルサイユ条約を破棄し、第二次世界大戦へと繋がっていきました。今からその背景を説明します。

ナチスが台頭した背景

「背後の一突き論」といわれ、ユダヤ人が後ろからドイツ人を攻撃したといわれるようになりました

当然ですがドイツ国民は、「ヴェルサイユ条約」の終結はドイツ国民にとって非常に屈辱的であり、その後の経営破綻は「ヴェルサイユ条約」を終結したことへの憎悪へと向かっていきました。そんな中ヒトラー率いる「ナチ党」が台頭し始めてました。ヒトラーはヴェルサイユ条約の終結の時関係した人物を「11月の裏切者」と揶揄し、戦争の敗戦も連合国の行動も全て「ユダヤ人」が陰で操っていたと主張しました。

この主張はドイツ人の中に浸透していき、ナチ党は力をつけ遂に1933年にヒトラーが内閣になりました。ナチ党は全権委任法を通過させて、独裁体制を確立しています。そして、ドイツは1933年に国際連盟を脱退して、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めました。

ヒトラー内閣設立の写真

1935年にドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整えはじめました。イギリスはドイツと英独海軍協定を結び、事実上その再軍備を容認しています。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと判断したため、1936年にはラインラント進駐を強行しています。これによってロカルノ体制は崩壊しました。このことに対して国際連盟は効果ある対策を取ることができず、ヴェルサイユ体制の破綻が明らかになったのです。

第2次世界大戦勃発

ポーランドに侵攻するドイツ軍

ヒトラーはヴェルサイユ条約で喪失した領土と、植民地の代替となるヨーロッパ領土を得るために、「東方生存圏」が必要であると主張しました。具体的には、陸続きの南東ヨーロッパへの侵攻しそこにドイツ人移民を住まわせるという計画を立てていたのです。それにより領土獲得のためにドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まることになったのです。

ヴェルサイユ条約による現在への影響

国際労働機関

第二次世界大戦の結果国際連合が成立し、国際連盟は消滅しました。しかし、国際労働機関などヴェルサイユ条約および関連の講和条約によって成立した機関・規定は一部ながらも現在効力を持っています。

国際労働機関は世界の労働者の労働条件と生活水準の改善を目的とする国連最初の専門機関として、本部はスイスのジュネーヴに置き、現在も活動を行っています。

ヴェルサイユ条約の評価

ローマ教皇ベネディクトゥス15世

ヴェルサイユ条約の内容は、当時から過酷すぎるという批判が多くありました。イギリスでも連合国の戦争目的とはかけ離れているという批判が労働組織の機関紙に広がっていたといいます。また大戦中から和平への努力を行っていた教皇ベネディクトゥス15世も公然の批判は行わなかったものの、ヴェルサイユ条約が復讐の産物であるという認識を示していました。

フランスの強硬派を除いて、一般的に「やりすぎだ」という世論だったといわれています。イギリスの経済学者は余りにも酷い条件に「再び戦争が起こるだろう」と予言をしたといいます。事実、ドイツは非常な貧困に陥り、第2次世界大戦へと世界は動き出してしまうのです。

ヴェルサイユ条約に関するまとめ

いかがでしたでしょうか。かなり要約したつもりでしたが、それでもかなり内容が膨らんでしまいました。全てを記すならば、膨大な量になる内容です。視点も戦争責任を負ったドイツを中心に執筆しましたが、フランスにはフランスの言い分、イギリスにはイギリスの言い分があり、その国の視点に立つと見方も変わってきます。フランスの歴史やイギリスの歴史の観点から、ヴェルサイユ条約を調べてみても面白いです。

筆者の感想としては、「戦争は色々な要因が絡まって起こる」であり、それぞれ「自国ファースト」を掲げた末に負けたドイツにそのしわ寄せを押し付けた条約と解釈しています。事実僅か14年で第二次世界大戦は勃発してしまいました。「人の立場にたって行動を考える」ということがいかに大事なのかを、反面教師として考えさせられる条約だと考えています。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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