天津条約とは?3つの条約の内容や目的を分かりやすく解説

「天津条約って何のために結んだ条約だっけ?」
「天津条約っていくつあるの?紛らわしいんだけど!」

世界史の授業では、さまざまな年号を覚える必要がありますが、特に混乱しがちなのが19世紀後半の中国が諸外国と結んだ条約群です。これは、条約名が一般に締結地の地名をとってよばれることも一つの原因です。

その中でもとくに紛らわしい代表格が「天津条約」です。今回は主な天津条約について、締結にいたった経緯とその内容、その後どうなったのかについて解説をしていきます。受験対策用の語呂暗記もご用意しました。ぜひ最後までご覧ください!

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

天津条約とは?簡単に解説

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そもそも天津条約とは、19世紀後半に中国(当時は清)が諸外国と結んだ条約の総称とされています。その総数は17件にも及びます。これらすべて「天津条約」です。従って世界史の試験問題に「天津条約」と書かれていたら、どの条約なのかということを読み取らなければなりません。

3つの天津条約を分かりやすく解説

以下主な3つの天津条約について解説していきます。

1858年の天津条約

1858年に締結された天津条約

歴史上はじめて登場するのが、1858年に清国(当時の中国)とロシア・アメリカ・イギリス・フランスの4か国との間で締結された「天津条約」です。

清国がアロー号事件をきっかけにイギリス・フランスを相手にはじめたアロー戦争。そのアロー戦争を終結させるために結んだ条約がこのときの「天津条約」です。中国に列強支配のメスが入った1842年の南京条約(アヘン戦争の講和条約)からわずか16年で、西欧列強の中国での権益がさらに拡大することになりました。

なぜ条約を結んだ?

アロー号に乗り込み船員を拿捕する清国官憲

直接のきっかけは、1856年10月に起きた「アロー号事件」とこれを端緒とする「アロー戦争」です。

1840年におきたアヘン戦争を経て、1842年に南京条約を締結して講和したイギリスと清。両国間の関係はその後も安定しませんでした。イギリスはさらなる市場拡大をもとめ機をうかがっていました。同時に清国が交渉窓口に指定する欽差大臣ではなく、清朝中央政府との直接交渉が必要と考えていました。一方、清国では激化する外国人排斥運動に加え、1851年に太平天国の乱がおこるなど政情の不安定さを露呈していました。

そこへ1856年のアロー号事件が起こります。イギリス船籍の中国船アロー号に対し、清の官憲が臨検を行い、中国人船員を逮捕しました。広州領事ハリー・パークスは清国側に抗議し、やがて戦端が開かれます。時を同じく、広西省でフランス人宣教師殺害事件が起こったため、イギリス・フランスは共同して軍事行動を起こしました。

英仏連合軍は1857年に広東を占領し、翌1858年には天津に迫る勢いをみせたため清国は天津条約を結ぶことで戦争終結をめざすことになります。ただ、1859年に批准使節が砲撃されるという事件が起こり、ふたたび戦闘となり英仏連合軍は北京を占領しています。清国は、英仏の要求を認める北京条約を締結、ついでに和睦を仲介したロシアとも条約を結んでようやく収束をみることができました。

条約の内容は?

清国代表として条約締結に尽力した桂良

清国は、6月13日にロシア、6月18日にアメリカ、6月26日にイギリス、6月27日にフランスの順で順次条約締結を行っています。清国側の代表は東閣大学士・蒙古正藍旗都統の職にあった桂良(1785年~1862年)でした。その主な内容は、次の5点です。

  • 賠償金の支払い

軍事費の賠償として、イギリスに対し400万両、フランスに対し200万両の銀を支払う

  • 外交官の北京駐在

従来は、広州・香港・上海に制限され、地方官吏と折衝するしかなかったが、北京在住が許されたことで直接清国中央政府に交渉を求めることが可能となる

  • 外国人の中国での旅行と貿易の自由、治外法権

開港場では自由に土地購入や居住ができたほか、内陸地への旅行や経済活動、布教活動などが可能となる

  • キリスト教布教の自由と宣教師の保護

従来、清国ではキリスト教は禁教とされていたが、事実上の解禁となる

  • 開港場の追加

牛荘(満州、のち営口)、登州(山東、のち芝罘、次いで煙台)、淡水(台湾)、台南(台湾)、潮州(広東省東部、後に同地方の汕頭に変更)、瓊州(海南島)の6港と、鎮江(長江沿岸)、漢口(長江沿岸)、九江(長江沿岸)、南京(長江沿岸)の4市が対象となる

その後どうなった?

焼き討ちされる円明園

条約締結にこぎつけたものの、南京条約の不平等がさらに拡張する内容だったことから、イギリス・フランス両軍が撤退すると清朝では批判が噴出し1年以内の批准を拒否することになります。一方のイギリス・フランスにしても、満足できる内容ではありませんでした。

結果として、イギリス・フランス軍はふたたび天津を攻撃、北京までも占領してしまいます。咸豊帝は北京を恭親王に託して熱河へ退避しますが、恭親王も有効な反撃をすることはできませんでした。イギリス・フランス両軍は、円明園を焼き討ちして略奪を行います。その後ロシアの仲介により北京・礼部衙門にて和平交渉を行い、その結果「北京条約」が締結されました。

なお、北京条約の主な内容は次の点です。

  • 天津条約の実施
  • 追加の賠償金支払い
  • 開港地に天津を追加
  • (対フランス)清朝が没収した教会財産の返還
  • (対イギリス)九竜半島にある九竜司地方の割譲
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