1885年4月の天津条約
なぜ条約を結んだ?
きっかけは、1884年12月に朝鮮で起こった甲申事変です。
そもそも朝鮮は、清国の柵封国(清国を天子の国とみとめ朝貢する支国)という位置づけで国家運営を行ってきた歴史があります。ところが、明治維新後の日本の欧化政策を目の当たりにし、独立開化路線(急進開化派=独立党)という考え方が生まれます。
国王・高宗の妻である閔妃は一時親日に傾き開化をめざすのですが、1882年には警戒する反対勢力(守旧派=事大党)による日本公使館焼き討ち事件(壬午軍乱)が発生。事態を受け、清国・日本の両国が出兵し、日本は済物浦条約(公使館を守備する部隊の駐留と賠償金の獲得)を締結しますが、清国もまた6,000名規模で部隊を駐留させ朝鮮に対する宗主権を強化しました。閔妃政権も事大党よりの路線に軌道を修正します。
これに対し、朝鮮国内の独立党は金玉均・朴泳孝を中心にクーデター(=甲申事変)を企図します。清国が清仏戦争(1884年)に苦戦しているのを機に、高宗を擁立し閔妃一族を一掃しようとしました。しかし、清国は機敏に対応してクーデターを鎮圧します。金玉均・朴泳孝ら独立党の目論見は失敗に終わりました。
条約の内容は?
甲申事変の事後処理のため、1885年3月に日本からの使節団が清国の北京を訪れます。その後、場を天津へ移し、清国代表・李鴻章、日本代表・伊藤博文による交渉が開始されました。
日本側は、甲申事変における竹添公使ら公使館職員が清国軍の攻撃を受けた点、民間人が殺傷された点を論難したのに対し、清国側は事変に日本側が加担していた点、竹添公使の派兵
行動を論難したため、真っ向から衝突する形になりました。
6回にわたる協議を経た、天津条約では主に次の3点が決められました。
- 相互に撤兵
- 日本と清国はいずれも朝鮮から即時に軍隊の撤退を開始させ、4箇月以内に撤兵を完了すること。
- 相互に軍事顧問の派遣を禁止
- 日本と清国はいずれも朝鮮に対して今後軍事顧問の派遣は行わないこと。朝鮮には第三国からの軍人(顧問)を招致する。
- 朝鮮への出兵時は相互に照会を行う
- 日本と清国において、将来万一朝鮮に出兵する事態となった場合は相互に通知(「行文知照」)を必要とする。派兵後は速やかに撤退し、継続的な駐留しない。
その後どうなった?
朝鮮における親日派のクーデターが失敗したことは、日本にとって間接的な影響力によって朝鮮支配をすすめる計画の頓挫を意味していました。以後、将来的に清国と雌雄を決するというイメージが形成されますが、この時点で清国の軍事力は軽視できるものではなく、うかつに事を構えれば西欧列強に付け入られるとの観測が有力でした。
とはいえ、清国とともに日本もまた朝鮮への緊急時出兵が事実上容認されており、実際に1894年に朝鮮において甲午農民戦争が起こると両国そろって朝鮮への出兵を行います。その点で、天津条約締結のときから日清戦争が起こることは必然であったとも考えられます。
1885年6月の天津条約
なぜ条約を結んだ?
きっかけは、1884年にフランスがベトナム(越南)の阮朝を保護国化したことです。
フランスのインドシナ出兵は、1856年のナポレオン三世の時代から行われています。1862年のサイゴン条約でベトナム南部を割譲させると、1883年のユエ条約でベトナムを保護国化しています。
ベトナム国の阮朝は、ベトナム全土を統一した最初で最後の王朝で、1802年の成立段階からフランス人宣教師ピニョーとタイ(シャム王)の支援を受けていました。その後、清国を宗主国としています。フランスは1840年代以降武力併合をめざすようになり、ベトナムは宗主国である清国に救援を求めました。
当初、フランスとの戦端を担ったのは、北ベトナムの国境地帯を拠点とする劉永福の軍閥(黒旗軍)でした。フランスのベトナム~中国交通を権益化する動きに反発し計画を頓挫させています。清国も黒旗軍を支援しつつ派兵しています。フランスは1884年5月以降、清国間との和平交渉を開始しますが、清国軍の撤兵規定が不十分であったことが発端となり、逆に正式に開戦することとなりました。
その後は、フランス軍が馬江海戦で攻勢を見せますが、イギリスやアメリカが警戒をはじめたこともあり戦線はしだいに膠着します。台湾の戦線、ベトナム・トンキンでの戦線ともフランス軍は優勢を保ちつつも勝ちきれず、本国フランスではこのためにフェリー政権が倒れる事態になりました。清国もまた、重要視する朝鮮半島での甲申事変が発生したことから講和を希望し、早期の条約締結が実現します。
条約の内容は?
1885年6月、フランスと清国との間で天津条約が締結されます。フランス代表はジュール・パトノートル公使、清国代表は李鴻章でした。このため、「李・パトノートル条約」とも呼ばれています。その主な内容は、次の3点です。
ベトナムへの影響
- 清はベトナムをフランスの保護国として認知する
- 鉄道敷設に関する条件
- 清国が鉄道を敷設する場合は、フランスの業者と商議することを条件として認める
- フランス軍の撤退
- フランスは軍隊を基隆、澎湖島から撤退させる
その後どうなった?
インドシナのフランス植民地が拡大し、1887年にはガンボジアと南北ベトナムによる仏領インドネシアが誕生しました。ただ、フランス国内ではこの清仏戦争に対する懐疑が広がり、植民地拡大の動きが鈍化することになりました。また、清国はこの戦いでベトナムの宗主権を放棄しただけでは済まず、1894年の日清戦争では朝鮮の宗主権も失うなど、その勢力を大きく後退させることになりました。
語呂合わせで覚えよう
歴史の必須項目を暗記するには語呂が1番!というわけで、語呂暗記を厳選してご紹介します。
人(1)は(8)ゴ(5)ロ(6)ツキ アロー号
(アロー戦争:1856年)
人(1)は(8)群(6)れ(0)寄る北京の和約
(北京条約:1860年)
人(1)の和(8)無(6)に(2)するサイゴン条約
(サイゴン条約:1862年)
い(1)わ(8)ば(8)憎(2)しみ ぶつける軍乱
(壬午軍乱:1882年)
一(1)派(8)は(8)し(4)くじる甲申事変
(甲申事変:1884年)
一(1)夜(8)夜(8)襲(4)の清仏戦
(清仏戦争:1884年)
い(1)わ(8)ば(8)子(5)分になる清朝
(天津条約:1885年4月(甲申事変)、6月(清仏戦争))
天津条約に関するまとめ
今回は、天津条約について、主要な3つの条約をとりあげ、その背景となった事変や戦争も含めて締結の経緯や条約として交わした内容をご紹介しました。
大国・清は固陋な統治機構がアダとなりその実力を出せないまま、アヘン戦争以後西欧列強のほしいままに権益を切り取られてゆく--19世紀後半はヨーロッパ帝国主義の暴風がアジアまで届いた時代でした。条約の数も非常に多く、賠償金や開港地など内容も紛らわしいものばかリです。
受験生にとってはもちろん、歴史を趣味としている方にとっても、このあたりの知識の整理はとても大切だと感じられます。二度の対戦を経たとはいっても、現代の政治・経済と繋がる歴史も多くあります。ぜひこの記事を読んで、知識の整理をしていただけたら嬉しいです。