小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

南京条約とは?内容や開港までの経緯、その後の影響を分かりやすく解説

「南京条約って、いつ、何のために結ばれた条約だろう?」
「南京条約の内容はどういうもの?誰と誰が交渉したの?」

南京条約はアヘン戦争を終結させる為に清国とイギリスの間で結ばれた条約です。

南京条約締結は、イギリス軍艦HMSコーンウォリス号にて行われた

19世紀後半の中国(当時は清)では、非常にたくさんの条約が締結されています。イギリス、フランスをはじめとする西欧列強の国々が、帝国主義を掲げて海外に植民地を求めた時代。中国はその領土の大きさゆえに「標的」となってしまった感があります。

今回は、多くの条約の中でもとびきり影響の大きかった南京条約について解説します。この南京条約が中国にとって、文字通り100年先の運命を左右するものとなりました。それだけでなく、今なお影響を残し続けているのです。

南京条約とは

簡単に説明すると?

清国敗戦の報は日本にも届き、江戸幕府を震撼させた

南京条約は、アヘン戦争を終結させるため、清国(現在の中国)とイギリスとの間で1842年8月29日に締結された条約です。江寧条約ともよばれています。

イギリスと清国(現在の中国)との貿易摩擦が発端で起きたアヘン戦争を終結させるために結ばれた条約が「南京条約」です。その内容は清国にとって全面降伏というべきものでした。アジアの大国であった清国がイギリスに完膚なきまでに打ちのめされる結果は、日本をはじめとするアジア諸国にも大きな衝撃を与えました。

条約が結ばれたきっかけはアヘン戦争

イギリス海軍に攻撃される清国ジャンク船

条約が結ばれたきっかけはアヘン戦争です。なぜ清国とイギリスとは開戦に踏み切らねばならなかったのでしょうか。そもそも、どうしてイギリスがアヘンを中国に売りつけなければならなかったのでしょう。以下では、そのきっかけとなるアヘン戦争について、清国とイギリスの貿易事情にも触れつつ解説します。

なぜ起きた?アヘン戦争勃発の理由

イギリスの貿易黒字化に利用されたのはインド・ベンガル産アヘンだった

1840年に清国とイギリスの間で行われた「アヘン戦争」は、1842年の南京条約締結までまで2年間続きました。原因は、両国の貿易摩擦問題でした。当時のイギリスは、海外市場の拡大を求めていたとはいっても広く一般市民を対象とするような輸出品目がなく、何もしなければ貿易赤字になってしまう状況でした。

そのため、イギリスはインドで製造したアヘンを清に輸出(密輸)し莫大な利益を得ていたのです。清国ではアヘンの蔓延が重大な社会問題となり、全面的に禁輸(貿易できないように)する措置が取られました。同時に国内に現存するアヘンを没収・焼却するなどしたため、反発するイギリスとの間で戦争に発展したのです。

清国の貿易体制は、広州に集中した

広東貿易体制は広東システムとよばれた

清は、もと満州に住む女真族の国家で1616年に建国されています。その後、明が滅亡すると勢力を拡大し、1644年に首都を北京に移しています。このころ中国南部では明の残存勢力が「南明」を興しており、清はこれを平定することによって中国全土を統治するようになりました。

その明では、当初は海禁(=鎖国)政策がとられますが、政情が安定すると4つの港で互市(貿易)が行われるようになります。この中で規模の大きな貿易港としては広州と寧波の2港がありましたが、貿易利権をめぐる競争の結果、1757年以後は広州一港体制(広東貿易体制)が確立しています。これは江戸時代の日本(江戸幕府)が、貿易港を長崎に限定していたのとよく似ています。

アヘンはイギリスの貿易収支を支える秘密兵器だった

欽差大臣として重要な役割を果たした林則徐

一方のイギリスでは、中国から陶磁器や絹、茶などを輸入する一方、輸出品は時計や望遠鏡といった物品に限られ、輸入超過(赤字)が続いていました。この赤字は、アメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命によるインフラ整備が必須課題のイギリスにとって悩ましいものでした。そのためイギリスは植民地であるインドで製造されるアヘンを清国に密輸することで、その差を埋めようとしていました。

中国では、明代末期からアヘン吸引の習慣が広がっており、貿易によるアヘン流入によってその弊害が深刻な社会問題となりました。事態を重く見た清国では1838年に林則徐(1785年~1850年)を欽差大臣(特命全権委任大臣)に任命し、アヘン排除に乗り出すことになります。

広東に赴任した林則徐は、

  • 吸飲者・販売者への死刑の執行を宣言
  • イギリス商人に対し期限付きでアヘンの引き渡しを要求
  • (引き渡しに応じないことを理由に)貿易停止、商館閉鎖
  • アヘン2万箱を押収・焼却

などの強硬策に打ってでました。また、イギリス人水兵による中国人殴殺事件がおこると犯人引き渡しを求めるなど毅然とした対応をとりました。

イギリス、議会採決を押し切り開戦

英国議会議事堂(ウェストミンスター宮殿)

イギリス国内ではアヘンは麻薬として用いられ、中毒性や有毒性については知られていました。中国へのアヘン輸出は秘密裏に行われていたわけですが、いざ開戦というときになり議会の承認を得る手続きの中でアヘン輸出の件が明るみに出ることに。アヘン輸出は非人道的行為だとして議会は紛糾しますが、最終的に賛成271、反対262のわずか9票差で派兵が決定したのでした。

1840年8月、イギリス軍は清国に到達します。その戦力は軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社の武装汽船4隻、陸軍4000人でした。イギリス海軍は広州での全面衝突はせず、厦門、寧波を経て渤海湾から天津沖に迫りました。これに驚いた清国・道光帝は、林則徐を解任し和平派の琦善を後任にあて、広州にて和平交渉を開始することになりました。清国は、敗れたのです。

幻の穿鼻草約と清国”二度目の”敗戦

厦門を攻撃するイギリス軍

1841年1月、イギリス海軍大佐・チャールズ・エリオットと広東省広西省の総督・琦善との間で、停戦に向けた条約案がまとめられています。その内容は、香港の割譲、600万ドルの賠償金支払いなどでした。ただし、清国側では道光帝の同意が得られないばかりか琦善を解任、イギリス側も内容に不満がありエリオットを解任という事態に陥りました。

この決裂により、ふたたびイギリスは軍事行動に移り廈門、舟山諸島、寧波などを攻略し、1842年5月には清国の精鋭部隊・満洲八旗軍が駐屯する乍浦や鎮江を落とし、杭州と北京をむすぶ京杭大運河を制圧します。戦いはまたも清国の完敗でした。

南京条約の内容

南京条約交渉の地となった南京・静海寺

1842年8月29日、南京からほど近い長江に停泊中のイギリス海軍戦艦コーンウォリスの艦上で、イギリス全権代表により「南京条約」が締結されました。その主な内容は、次の4点です。

  • 賠償金の支払い

アヘンの賠償金600万ドル、戦費1200万ドル、中国商人の負債300万ドル、合計2100万ドルを4年分割にて支払う。

  • 5港の開港

広州、福州、厦門、寧波、上海の5港を開港する。

  • 香港島の割譲

香港島を永久にイギリスに割譲する。

  • 公行の廃止による貿易完全自由化

公行を廃止し、どの商人とも欲する貿易が出来る。(海禁政策が終わり、自由貿易となる)

イギリスはさらに清国に対し、南京条約の不明確な点につき協議を要請します。翌1843年にポッティンジャーと耆英により、香港において『中英五口通商章程』が、虎門において『虎門寨追加条約(南京条約続約)』が締結されることとなりました。その主な内容は、次の5点です。

  • 開港及びイギリスとの通称

清朝は、広州、福州、廈門、寧波、上海の五港を開港し、イギリス商船による通商を認める。

  • イギリス人居留を認める

イギリス人は五港の定められた地域の中で、家屋または土地を租借し居住することが出来る。

  • 清国の関税自主権の喪失

双方の関税は、以後両国の共同の協定によって決める。

  • イギリスに治外法権(領事裁判権)を認める

イギリス人が犯罪を犯した場合、イギリスの官憲が逮捕、清朝と協議の上にイギリス官憲が共同調査する。すなわち領事裁判権を認める。

  • イギリスに最恵国待遇を認める

もし清朝が他国との条約で有利な条件を他国に与えた場合、イギリスにも同一条件を認める。

南京条約締結後はどうなった?

列強が大国・中国にメスを入れるきっかけとなった「南京条約」

南京条約の締結は、中国の反植民地化の第一歩となった意味もあり重要な条約であると言えます。実際に南京条約締結後、情勢を観測していたアメリカとフランスは、それぞれ清国と望厦条約・黄埔条約(ともに1844年)を締結しています。

その後も、第二次アヘン戦争ともよばれるアロー戦争(1856年~1860年)とこの戦いに係る天津条約(1858年)、北京条約(1860年)など、領土面における列強の中国支配は確実に進行していくこととなりました。また、関税自主権をもたないまま自由貿易に取り込まれた清国は、経済的にも苦境に立たされることになりました。

語呂合わせで覚えよう

紛らわしいものは、語呂に絡めて記憶することで効率よく覚えられる

歴史の必須項目を暗記するには語呂が1番!というわけで、語呂暗記を厳選してご紹介します。

い(1)っぱ(8)つ、し(4)れ(0)っとアヘン戦争
(アヘン戦争:1840年)

い(1)や(8)、死(4)に(2)ました、アヘンで。南京条約
(南京条約:1842年)

幸(広州)福(福州)カモン(厦門)!おネエ(寧波)しゃん(上海)
(南京条約の開港地:広州、福州、厦門(かもん、アモイ)、寧波(ねいは、ニンポー)、上海)

南京条約に関するまとめ

今回は、南京条約について、その背景となったアヘン戦争も含めて締結の経緯や条約として交わした内容をご紹介しました。

大国・清には、列強も「眠れる獅子では」と怖れを抱いていた19世紀。結果として、攻める有利・守る不利があったにせよ、清国は負けすぎてしまった観が否めません。日本もまた、清国敗戦の報に震撼することとなります。

アジア全体に押し寄せた西欧列強の暴風の果てに二度の世界大戦が行われたことを思えば、この南京条約は単に二国間の条約という存在を超えて、世界史の海に生じた大きな波紋であったとも言えるでしょう。この衝撃を、多くの方に感じていただけたらと思います。

コメントを残す