南京条約とは?内容や開港までの経緯、その後の影響を分かりやすく解説

イギリス、議会採決を押し切り開戦

英国議会議事堂(ウェストミンスター宮殿)

イギリス国内ではアヘンは麻薬として用いられ、中毒性や有毒性については知られていました。中国へのアヘン輸出は秘密裏に行われていたわけですが、いざ開戦というときになり議会の承認を得る手続きの中でアヘン輸出の件が明るみに出ることに。アヘン輸出は非人道的行為だとして議会は紛糾しますが、最終的に賛成271、反対262のわずか9票差で派兵が決定したのでした。

1840年8月、イギリス軍は清国に到達します。その戦力は軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社の武装汽船4隻、陸軍4000人でした。イギリス海軍は広州での全面衝突はせず、厦門、寧波を経て渤海湾から天津沖に迫りました。これに驚いた清国・道光帝は、林則徐を解任し和平派の琦善を後任にあて、広州にて和平交渉を開始することになりました。清国は、敗れたのです。

幻の穿鼻草約と清国”二度目の”敗戦

厦門を攻撃するイギリス軍

1841年1月、イギリス海軍大佐・チャールズ・エリオットと広東省広西省の総督・琦善との間で、停戦に向けた条約案がまとめられています。その内容は、香港の割譲、600万ドルの賠償金支払いなどでした。ただし、清国側では道光帝の同意が得られないばかりか琦善を解任、イギリス側も内容に不満がありエリオットを解任という事態に陥りました。

この決裂により、ふたたびイギリスは軍事行動に移り廈門、舟山諸島、寧波などを攻略し、1842年5月には清国の精鋭部隊・満洲八旗軍が駐屯する乍浦や鎮江を落とし、杭州と北京をむすぶ京杭大運河を制圧します。戦いはまたも清国の完敗でした。

南京条約の内容

南京条約交渉の地となった南京・静海寺

1842年8月29日、南京からほど近い長江に停泊中のイギリス海軍戦艦コーンウォリスの艦上で、イギリス全権代表により「南京条約」が締結されました。その主な内容は、次の4点です。

  • 賠償金の支払い

アヘンの賠償金600万ドル、戦費1200万ドル、中国商人の負債300万ドル、合計2100万ドルを4年分割にて支払う。

  • 5港の開港

広州、福州、厦門、寧波、上海の5港を開港する。

  • 香港島の割譲

香港島を永久にイギリスに割譲する。

  • 公行の廃止による貿易完全自由化

公行を廃止し、どの商人とも欲する貿易が出来る。(海禁政策が終わり、自由貿易となる)

イギリスはさらに清国に対し、南京条約の不明確な点につき協議を要請します。翌1843年にポッティンジャーと耆英により、香港において『中英五口通商章程』が、虎門において『虎門寨追加条約(南京条約続約)』が締結されることとなりました。その主な内容は、次の5点です。

  • 開港及びイギリスとの通称

清朝は、広州、福州、廈門、寧波、上海の五港を開港し、イギリス商船による通商を認める。

  • イギリス人居留を認める

イギリス人は五港の定められた地域の中で、家屋または土地を租借し居住することが出来る。

  • 清国の関税自主権の喪失

双方の関税は、以後両国の共同の協定によって決める。

  • イギリスに治外法権(領事裁判権)を認める

イギリス人が犯罪を犯した場合、イギリスの官憲が逮捕、清朝と協議の上にイギリス官憲が共同調査する。すなわち領事裁判権を認める。

  • イギリスに最恵国待遇を認める

もし清朝が他国との条約で有利な条件を他国に与えた場合、イギリスにも同一条件を認める。

南京条約締結後はどうなった?

列強が大国・中国にメスを入れるきっかけとなった「南京条約」

南京条約の締結は、中国の反植民地化の第一歩となった意味もあり重要な条約であると言えます。実際に南京条約締結後、情勢を観測していたアメリカとフランスは、それぞれ清国と望厦条約・黄埔条約(ともに1844年)を締結しています。

その後も、第二次アヘン戦争ともよばれるアロー戦争(1856年~1860年)とこの戦いに係る天津条約(1858年)、北京条約(1860年)など、領土面における列強の中国支配は確実に進行していくこととなりました。また、関税自主権をもたないまま自由貿易に取り込まれた清国は、経済的にも苦境に立たされることになりました。

語呂合わせで覚えよう

紛らわしいものは、語呂に絡めて記憶することで効率よく覚えられる

歴史の必須項目を暗記するには語呂が1番!というわけで、語呂暗記を厳選してご紹介します。

い(1)や(8)でも知(4)れ(0)わたる、アヘン戦争
(アヘン戦争:1840年)

い(1)や(8)、死(4)に(2)たくないの、南京条約
(南京条約:1842年)

幸(広州)福(福州)カモン(厦門)!おネエ(寧波)しゃん(上海)
(南京条約の開港地:広州、福州、厦門(かもん、アモイ)、寧波(ねいは、ニンポー)、上海)

南京条約に関するまとめ

今回は、南京条約について、その背景となったアヘン戦争も含めて締結の経緯や条約として交わした内容をご紹介しました。

大国・清には、列強も「眠れる獅子では」と怖れを抱いていた19世紀。結果として、攻める有利・守る不利があったにせよ、清国は負けすぎてしまった観が否めません。日本もまた、清国敗戦の報に震撼することとなります。

アジア全体に押し寄せた西欧列強の暴風の果てに二度の世界大戦が行われたことを思えば、この南京条約は単に二国間の条約という存在を超えて、世界史の海に生じた大きな波紋であったとも言えるでしょう。この衝撃を、多くの方に感じていただけたらと思います。

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