3B政策とは、ドイツ帝国の第3代皇帝ヴィルヘルム2世が推し進めた帝国主義政策です。この時代には、欧米列強諸国が積極的にアジアやアフリカへ勢力を拡大しようとしていました。
「3B政策って具体的にどんな内容なの?」
「3B政策の目的や影響を詳しく知りたい!」
この記事を見ているあなたはこのように思っているのではないでしょうか。そこで、ヴィルヘルム2世はどのようにして3B政策を展開したのか、また、3B政策は他の列強諸国にどのような影響を与えたか、などについて詳しく紹介していきます。
3B政策の経緯からその後の影響までの歴史について迫っていきますので、ぜひ最後までご覧ください。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
3B政策とは
3B政策はいつ始まった?
ドイツ帝国の第3代皇帝ヴィルヘルム2世による3B政策は、19世紀末から20世紀初頭にかけての長期戦略として開始されました。
ヴィルヘルム2世は「ドイツ帝国は今や世界帝国となった。」と演説で語り、世界政策を推進していきます。その一環として行われたのが3B政策です。
しかし、同じ頃にイギリスも世界政策を展開していました。イギリスの植民地政策である3C政策とドイツの3B政策は衝突し、次第に対立を深めていきます。
3B政策の目的とは
ヴィルヘルム2世によるによる3B政策の目的は、ドイツ帝国の西アジアへの進出です。ドイツ帝国は近東への投資によって、オーストリア・オスマン帝国と手を組み、経済的な統合を図ろうとしていました。
オスマン帝国から鉄道敷設権を獲得したドイツ帝国は、ベルリン・ビザンティウム・バグダードの3つの都市をバグダード鉄道によって結ぶ計画を企てます。
しかし、ドイツ帝国がバルカン半島や中東に勢力を拡大しようとした結果、南下政策を目論むロシア帝国や3C政策を展開していたイギリスなど、同じ地域を狙う大国の反感を買ってしまいます。
3B政策に関わった都市
3B政策における3Bとは、ベルリン・ビザンティウム・バグダードの3つの都市を指します。
ベルリンとは、ドイツ北東部に位置する大都市です。ドイツ帝国の時代に帝都となったベルリンは、産業都市として大きく発展し、人口も大きく増加しました。
そして、現在はイスタンブールと呼ばれているビザンティウムは、トルコ共和国の中でも最大の都市となっています。3B政策が敷かれた当時はオスマン帝国の統治下にありました。
また、ティグリス川中流の河畔に位置するバグダードも、3B政策の時代にはオスマン帝国によって統治されていました。現在ではイラク最大の都市となっています。
3B政策の名前の由来
3B政策の名前の由来は、ベルリン・ビザンティウム・バグダードの3つの都市の頭文字にあります。
しかし、3B政策という名称は、当時のドイツ帝国内では使用されていませんでした。実際は後世に誕生した語呂合わせのような言葉なのです。
また同時代のイギリスは、南アフリカのケープタウン・エジプトのカイロ・インドのカルカッタの3つの都市の頭文字をとって名付けられた3C政策を展開していました。